狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。
古今東西、文化部や学芸部に勤めた人はたくさんいます。ただ、そのすべてが文芸記者かというと、そうでもないようです。
そもそも新聞のなかで、文化・学芸はそれほど主流じゃありません。さらに、文化的なニュース対象といっても、美術もあれば、演劇もあり、芸能もあり、囲碁将棋もあり……分野がいくつも分かれています。そういうなかで、頭のてっぺんから足の先までズブズブの文芸記者と呼べるのは、明治時代から数えても、数十人ぐらいしかいないかもしれません。
しかも面倒くさいことに、文芸もまた大きく二つに分けられています。純文学とエンターテイメントです。読むほうは、別にどっちがどっちでも読みたきゃ読むだけですが、出版社はそれぞれに担当の部署を分けていたりしますし、これらを扱う新聞社も、おのずと担当記者のテリトリーに境目が出ます。すると、アクタ何とかのことはやたらと詳しいくせに、直木賞を語らせるとボロボロな記者、みたいな人も当然出てくるわけです。まったく、直木賞に縁深い記者、なかなか簡単には見つからないもんですね。
とまあグチグチ言っていても始まりません。今週も、なるべく直木賞に関わりのありそうな人に、無理やり目を向けたいと思います。
昭和30年代、『毎日新聞』の学芸部に名物キャラと言われる文芸記者がいました。狩野近雄さんです。
この狩野さんも、純粋に文芸記者とは呼べません。とにかく行動や関心の範囲が広すぎて、学芸部長をやっただけでなく、出版局長、編集局長、さらには『スポーツニッポン』の社長にまでなって、一介の記者という枠を、はるかに超えちゃっています。しかし、その出発点となった昭和のはじめ、狩野さんは一介の学芸記者でした。ちょうど直木賞ができる頃のことです。
狩野さんの最後の著書となった『記者とその世界』(昭和52年/1977年10月刊)という本があります。雑誌『ユニオン』連載中に絶筆になったもので、昭和23年/1948年頃までの狩野さんの記者武勇伝、というか回想録です。
ここで狩野さんは、自身の転換点をはっきりと書いています。ずっと新聞記者をやっていこうと決心したのは、学芸部に配属されたときに千葉亀雄さんと出会ったからなのだと。
「新聞記者を一生の仕事として選ぶことができたのは千葉亀雄先生のおかげである。二年あまりの地方記者生活ののち、私の初めての本社勤務は新設間もない学芸部であった。そこには顧問千葉亀雄、部長阿部真之助、阿部さんの下には木村毅、高田保、大宅壮一といった面々、そして菊池寛がいた。
(引用者中略)
先生は朝早く出社する。自宅で各紙を見てしまっているのでまず東日(東京日日新聞)の地方版にさらっと目を通す。そしてラジオや身の上相談などの投書全部を見て、せっせと選んで添削する。(引用者中略)私はびっくりしてしまった。読者から集まる雑多な手紙――亭主に女ができたとか、昨晩の虎造は良かったとか――それを日本第一級の頭脳が窓口に座って読むのだ。無論読者は知らない。私は、読者との直の窓口に千葉先生を座らせておく新聞というものに感激して、何という大きな新聞だ、この新聞で一生を過そう、という決意を固めた。」(『記者とその世界』「私と新聞」より)
狩野さんは大学時代に芝居の演出などもしていたらしく、そこら辺りの「芸術」界隈に興味をもつ青年でした。こういう青年に、文芸とジャーナリズムの深い結びつき(ないし、結びつけ方)を行動で示してみせた千葉亀雄。やっぱり偉大だったな、とため息が出てしまいます。狩野さんもそれにヤラれちゃった口のようですし、菊池寛さんや文春の連中が手がけたジャーナリズムも、言ってみれば、ほとんど千葉さんの亜流です。
亜流かどうかはさておいて、千葉チルドレンの狩野さんが、同じく千葉チルドレンといっていい菊池さんや『文藝春秋』と仲がよく、ときにナアナアの関係を築くのは、自然な流れだったでしょう。その辺りも『東京日日』初代学芸部長、阿部真之助さんの衣鉢を継いだのが狩野さんでした。
いや、狩野さんのパーソナリティもそうですが、いっぽうの文春に、こういう人たちを大事にする伝統があったのも大きかったと思います。オモテに出ている人(作家とか)だけじゃなくて、それを支えるウラの業界人を、手厚く褒めたたえる伝統です。
まえに挙げた頼尊清隆さんもそうでした。狩野さんも、記者生活45年を迎えた昭和51年/1976年10月5日に、東京会館で「祝う会」が開かれましたが、「一切合財文芸春秋社の骨折りで催された」(『新聞研究』昭和51年/1976年12月号 狩野近雄「会合記事」)そうです。狩野さんのような記者が、直木賞を支えたきたのはたしかなので、文春がこうやって記者のためにパーティーを開くのは、まったく理にかなっています。文句の言いようがありません。
○
狩野近雄。明治42年/1909年4月5日生まれ。昭和52年/1977年3月10日没。群馬県に生まれ、早稲田大学法学部を出たのち、昭和7年/1932年東京日日新聞に入社。山形通信部を経て、昭和9年/1934に東京の学芸部に入れられます。「学芸部で四年。この四年は、私にとって一生を支配する時期」(『記者とその世界』)だったとのことで、千葉亀雄さんとの出会い、そして死別を経て、整理部、『マニラ新聞』編集局長、また東京に戻って編集局室付、戦後には『夕刊東京日日新聞』編集局長から、『毎日』のラジオ報道部長、学芸部長、整理部長、出版局長、編集局長と、みるみる偉くなりました。
給料も高けりゃカラダもでかく、その大きなナリでうまいもんを食いまくります。いっぽう生来の愛敬と人なつっこさで多くの人のふところに入り、政界、財界、文化界に、知り合い・友人は数知れず。徳岡孝夫さんいわく「狩野さんはあらゆる人と友達になるんですよ。東京都民の半分くらいは友達(笑)。」(平成18年/2006年12月・鼎書房刊『三島由紀夫研究(3) 三島由紀夫・仮面の告白』所収「座談会 バンコックから市ヶ谷まで」)だそうです。まじか。
また、徳岡さんは、川口松太郎さんが連載中の小説で狩野近雄という名前のサムライを登場させた、と紹介してくれています。「紅梅曽我」ですかね。これに類するエピソードはもうひとつあって、こちらは狩野さん本人の文章に出てくるんですが、三上於菟吉さんの原稿をもらいに行ったときのハナシです。
「三上(引用者注:於菟吉)は早死しただけに、素行は乱暴狼藉で、連載小説の原稿をとりに行くものは、いつもその渦中にまきこまれた。そのころ品川の料亭が本陣で、督促に行っては一緒に飲まされ、締切ギリギリになって、「チョット待ってくれ」で、サアッと一回分書き上げてくれる。社へ急ぐ車の中で読んでみると、たとえば狩野近之進などという使いの者の名をもじったのが現われて、たちまち斬り殺されているといった具合のものだったりした。」(昭和30年/1955年4月・鱒書房刊『毎日新聞の24時間』所収、狩野近雄「アルファベット部縁起」より)
『近代文学研究叢書53』(昭和57年/1982年5月・昭和女子大学近代文化研究所刊)に載った槍田良枝さんによる「著作年表」では、昭和9年/1934年以降、三上さんが『東京日日』や『サンデー毎日』で時代物を連載した形跡が見当たりません。もしかして狩野さん、エピソード盛っているのかも、と思いましたが、そのぐらいの冗談を叩けるのが狩野さんの特徴でしょうから、ここで真偽を追究するのはやめておきます。ともかく、作家連中にオチョクられ、気に入られているタイプの文芸記者だったのは、間違いないでしょう。
というところで今週は終わりなんですが、そういえば、ひとつ気づきました。狩野さん、昭和9年/1934年から4年間、学芸部記者を務めた……ということは、第1回(昭和10年/1935年上半期)の直木賞、取材している可能性あるじゃないですか。
菊池寛さんいわく、新聞各社の記者を集めて、大々的に受賞者発表をした、という例の現場。狩野さんがそこにいてもおかしくありません。そのときの体験について、どこかに回想文を残していないかなあ。『記者とその世界』は、なぜか政治家と仲がよかったアピールが最初のほうに掲げられていて、本文中もあまり文壇ネタや作家ネタが出てきません。少なくとも、学芸部時代に始まった文春の文学賞のこと、何か書き残しておいてくれたらうれしかったのに。直木賞ファンとしては、そのことが残念です。
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