筒井芳太郎(日本経済新聞)。主流とは別のところで独特な文化欄をつくり上げる。
新聞は何紙も出ています。何百紙、何千紙かもしれません。正確な数はわかりませんが、その多くが何かしら直木賞と関係している、と言ってもよく、本来は夕刊紙、スポーツ紙、競馬紙、その他専門分野に特化したものも調べなくちゃいけないんでしょう。ただ、とうてい気力が続かないのでバッサリ無視します。
全国紙だけに絞ってみても、大きなものが5つあります。『読売』『朝日』『毎日』『産経』。この4つは拙ブログのなかでも取り上げて、各社の文芸記者にも触れてきました。しかし、他に一紙、まだ触れていない新聞があります。『日本経済新聞』です。
いったい『日経』がどういうかたちで直木賞と関わり、支えてきたか。『中外物価新報』から『中外商業新報』、そして『日本経済新聞』と歴史も長く、連載小説や読み物を載せ、他では読めない斬新な文化欄を展開してきた伝統があります。21世紀になって連載小説が直木賞を受賞したりもしていますから、いまとなっては「直木賞との密接度」も他の全国紙とそこまで変わらないと言っていいんでしょう。ただ、その密接の歴史をたどると、やはり『日経』と直木賞の関係性は、独特です。
昭和27年/1952年、同紙に文化部ができたとき、初代の部長に就いたのが筒井芳太郎さんです。人のふところに飛び込む能力が高く、文筆にも長け、『文藝春秋』の人たちとも仲がよかったらしいんですが、やはり筒井さんが残した大きな仕事といえば、『日経』の朝刊に山本周五郎さんの連載小説を載せたことでしょう。『樅ノ木は残った』です。
木村久邇典さんの『山本周五郎』上・下(平成12年/2000年3月・アールズ出版刊)を読むと、山本さんがどんな新聞でどんな仕事をしたのか、くわしく書いてあります。山本さん自身が最も親近感を寄せていたのは、『朝日新聞』(『週刊朝日』含む)だったようですが、『日経』もなかなかのものです。若いころ、文学仲間のひとりとして付き合っていたのが、『中外商業新報』の演劇記者だった足立忠さんで、どうやらそこからの縁がつながっていたと思われます。
いきなりやってきた『日経』の筒井さんが、やすやすと山本さんのお気に入りになったのですから、これはよほどのことでしょう。木村さんもこう書いています。
「白髪瘦身の筒井は、おだやかな相貌の好男子で、話術もたくみであり、たちまちに“気むずかし屋”と評されていた山本の執筆OKを取りつけてしまった。(引用者中略)山本は大作を依頼されると、即答を避けるのを常としたが、筒井の要請には、めずらしくただちに応諾して云った。
「ぼくは文学青年時代の昭和四年、千葉県の浦安市にすんでいた。その当時『中外商業新報』といった『日経』に、なん篇かの童話を描かせてもらって数日の飢えをしのいだ縁故がある。よろしい、描かせてもらいましょう。(引用者後略)」」(『山本周五郎 下巻』「横浜時代 九章 原田甲斐――三十年の歳月を経て」より)
昭和29年/1954年はじめ頃のことらしいです。
『日経』と山本さんを結びつけてみせた筒井マジック。連載の題材も題名も、山本さん側が提示したものです。そういう意味では、筒井さんに何ほどの力があったのかはうかがい知れませんけど、こうして「樅ノ木は残った」の連載開始を実現させたことが、思わぬかたちで山本さんと直木賞(の昔の受賞者)を取り持つことになります。宮城県で静かに暮らす大池唯雄さんと、山本さんがここでバチンと対面を果たすのです。
第8回(昭和13年/1938年下半期)受賞者の大池さんの、直木賞における立ち位置は、ものすごく面白くて重要だと思います。とれば大衆小説の第一線に送り出されて、売れっ子作家になる、みたいな偏った直木賞観から大きく逸れて、浮かれず騒がず、地味に生きつづけた人がいる。それだけで直木賞にまた一面、しぶい性格が付け加わり、いったいこの賞の何が正解なのか、よくわからなくしているからです。山本さんが、大池さんに敬意を抱いて、自ら近づいていったのもむべなるかな、という気がします。
とりあえず、ここは文芸記者を中心に語る場なので、大池×山本の感動の(?)対面のことには深くは立ち入りません。直木賞の歴史のなかでも日の当たる逸話とは言い難い、こういうハナシが生み出されたのも、『日経』が山本さんに原田甲斐の歴史小説を書いてみようと決意させたからなのは、たしかです。弁舌さわやかなふりをして、しっかりと裏で糸を引く筒井芳太郎。さすが有能な記者は、やることが冴えています。
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