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2022年4月の4件の記事

2022年4月24日 (日)

筒井芳太郎(日本経済新聞)。主流とは別のところで独特な文化欄をつくり上げる。

20220424

 新聞は何紙も出ています。何百紙、何千紙かもしれません。正確な数はわかりませんが、その多くが何かしら直木賞と関係している、と言ってもよく、本来は夕刊紙、スポーツ紙、競馬紙、その他専門分野に特化したものも調べなくちゃいけないんでしょう。ただ、とうてい気力が続かないのでバッサリ無視します。

 全国紙だけに絞ってみても、大きなものが5つあります。『読売』『朝日』『毎日』『産経』。この4つは拙ブログのなかでも取り上げて、各社の文芸記者にも触れてきました。しかし、他に一紙、まだ触れていない新聞があります。『日本経済新聞』です。

 いったい『日経』がどういうかたちで直木賞と関わり、支えてきたか。『中外物価新報』から『中外商業新報』、そして『日本経済新聞』と歴史も長く、連載小説や読み物を載せ、他では読めない斬新な文化欄を展開してきた伝統があります。21世紀になって連載小説が直木賞を受賞したりもしていますから、いまとなっては「直木賞との密接度」も他の全国紙とそこまで変わらないと言っていいんでしょう。ただ、その密接の歴史をたどると、やはり『日経』と直木賞の関係性は、独特です。

 昭和27年/1952年、同紙に文化部ができたとき、初代の部長に就いたのが筒井芳太郎さんです。人のふところに飛び込む能力が高く、文筆にも長け、『文藝春秋』の人たちとも仲がよかったらしいんですが、やはり筒井さんが残した大きな仕事といえば、『日経』の朝刊に山本周五郎さんの連載小説を載せたことでしょう。『樅ノ木は残った』です。

 木村久邇典さんの『山本周五郎』上・下(平成12年/2000年3月・アールズ出版刊)を読むと、山本さんがどんな新聞でどんな仕事をしたのか、くわしく書いてあります。山本さん自身が最も親近感を寄せていたのは、『朝日新聞』(『週刊朝日』含む)だったようですが、『日経』もなかなかのものです。若いころ、文学仲間のひとりとして付き合っていたのが、『中外商業新報』の演劇記者だった足立忠さんで、どうやらそこからの縁がつながっていたと思われます。

 いきなりやってきた『日経』の筒井さんが、やすやすと山本さんのお気に入りになったのですから、これはよほどのことでしょう。木村さんもこう書いています。

「白髪瘦身の筒井は、おだやかな相貌の好男子で、話術もたくみであり、たちまちに“気むずかし屋”と評されていた山本の執筆OKを取りつけてしまった。(引用者中略)山本は大作を依頼されると、即答を避けるのを常としたが、筒井の要請には、めずらしくただちに応諾して云った。

「ぼくは文学青年時代の昭和四年、千葉県の浦安市にすんでいた。その当時『中外商業新報』といった『日経』に、なん篇かの童話を描かせてもらって数日の飢えをしのいだ縁故がある。よろしい、描かせてもらいましょう。(引用者後略)」」(『山本周五郎 下巻』「横浜時代 九章 原田甲斐――三十年の歳月を経て」より)

 昭和29年/1954年はじめ頃のことらしいです。

 『日経』と山本さんを結びつけてみせた筒井マジック。連載の題材も題名も、山本さん側が提示したものです。そういう意味では、筒井さんに何ほどの力があったのかはうかがい知れませんけど、こうして「樅ノ木は残った」の連載開始を実現させたことが、思わぬかたちで山本さんと直木賞(の昔の受賞者)を取り持つことになります。宮城県で静かに暮らす大池唯雄さんと、山本さんがここでバチンと対面を果たすのです。

 第8回(昭和13年/1938年下半期)受賞者の大池さんの、直木賞における立ち位置は、ものすごく面白くて重要だと思います。とれば大衆小説の第一線に送り出されて、売れっ子作家になる、みたいな偏った直木賞観から大きく逸れて、浮かれず騒がず、地味に生きつづけた人がいる。それだけで直木賞にまた一面、しぶい性格が付け加わり、いったいこの賞の何が正解なのか、よくわからなくしているからです。山本さんが、大池さんに敬意を抱いて、自ら近づいていったのもむべなるかな、という気がします。

 とりあえず、ここは文芸記者を中心に語る場なので、大池×山本の感動の(?)対面のことには深くは立ち入りません。直木賞の歴史のなかでも日の当たる逸話とは言い難い、こういうハナシが生み出されたのも、『日経』が山本さんに原田甲斐の歴史小説を書いてみようと決意させたからなのは、たしかです。弁舌さわやかなふりをして、しっかりと裏で糸を引く筒井芳太郎。さすが有能な記者は、やることが冴えています。

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2022年4月17日 (日)

田口哲郎(共同通信)。芥川賞を受賞したとき、直木賞の受賞者記事を書いた文芸記者。

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 およそ50数年まえ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)は、直木賞の歴史のなかでも大きな転換となった回です。

 これももう、うちのブログでは何度か書いた話です。もはや「おれひとりがそう思っているだけ」感がハンパないんですけど、直木賞の通史を語る人があまりにいなさすぎて、ほんとに単なるワタクシの思い込みなのかも、よくわかりません。ただ、北上次郎さんの『書評稼業四十年』(令和1年/2019年7月・本の雑誌社刊)を読んでいたら、こんな指摘にぶつかりました。

「日本の現代エンターテインメントは、一九六〇年代後半から一九七〇年にかけて、大きく変化したのである。極端に言えば、これ以前とそれ以後では、がらり一転というくらい変わってしまった印象が強い。新橋遊吉『八百長』(引用者注:第54回直木賞受賞作)と、五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」(引用者注:第56回直木賞受賞作)という直木賞受賞作の落差を、個人的な才能の違いや作品の違いにするよりも、そう考えたほうがすっきりする。」(『書評稼業四十年』所収「中間小説誌の時代」より)

 第54回(ごろ)が直木賞の分岐点になったのだ、と言っています。そう考える人が、自分の他にもこの世にいたんだと知れて、ちょっと安心です。

 とまあ、それはそれとして、第54回直木賞。この回は「文芸記者と直木賞」の歴史で見ても、語り落としちゃいけない背景をもっていました。

 受賞者のひとり新橋遊吉さんは、生粋の大阪人で、その当時も大阪に住んでいましたが、共同通信で働いていた文芸記者の田口哲郎さんが、当時たまたま大阪支社にいて、関西圏の直木賞の候補者たちに事前取材していたからです。

 当日の受賞決定後、田口さんはまず新橋さんについての受賞記事を書いて仕事を済ませます。文芸記者で文学賞をとった人は過去に何人かいたはずですが、自分が受賞したその夜に直木賞をとった他の作家の記事をまとめた人など、まずいません。かなり異例だった、と言っていいでしょう。

「受賞決定の知らせを、共同通信大阪支社で聞いた。自分への知らせを待っていたのではなく、受賞作家のプロフィルを書くため、受賞者が決まるのを待っていたという。同支社で文化、芸能を担当する記者なのだ。この日も、直木賞作家となった新橋遊吉さんら三候補に、あらかじめインタビューし、新橋さんの原稿を書くやいなや、こんどは取材される身となった。」(『読売新聞』昭和41年/1966年1月18日「時の人 第五十四回芥川賞受賞が決まった高井有一」より)

 ちなみに「三候補」というのは、新橋さんのほか、直木賞候補の北川荘平さん、芥川賞候補の島京子さんだったようです。

 当日だけじゃありません。事前には本人以外の周辺取材もしていたらしく、この回は『VIKING』の富士正晴さんのところに北川・島二人のことを聞きに行った、と大川公一さんの『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(平成11年/1999年6月・影書房刊)に出てきます。富士さんといえば、自身も第52回(昭和39年/1964年・下半期)に直木賞、第53回に芥川賞の候補になっています。そのときも田口さんは事前取材をしていた顔なじみです。

 もしも田口さんが大阪支社にいなかったら。のちに賞をとるような記者でもなかったら、どうなっていたか。富士さんが直木賞なんてとりたくないよ、忙しくなるし、授賞式に東京に行くのもいやだ、と思っていたことも、あるいはオモテに出ずに終わったかもしれません。

 そういう意味では、田口さんが直木賞の歴史を支えた文芸記者だったのは間違いないでしょう。芥川賞の報道のほうで名が残る記者なのかどうかは、ワタクシはよくわかりません。まあ、そっちの賞のことは、いくらでも語れる人がいるでしょうから、おまかせしたいと思います。

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2022年4月10日 (日)

狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。

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 古今東西、文化部や学芸部に勤めた人はたくさんいます。ただ、そのすべてが文芸記者かというと、そうでもないようです。

 そもそも新聞のなかで、文化・学芸はそれほど主流じゃありません。さらに、文化的なニュース対象といっても、美術もあれば、演劇もあり、芸能もあり、囲碁将棋もあり……分野がいくつも分かれています。そういうなかで、頭のてっぺんから足の先までズブズブの文芸記者と呼べるのは、明治時代から数えても、数十人ぐらいしかいないかもしれません。

 しかも面倒くさいことに、文芸もまた大きく二つに分けられています。純文学とエンターテイメントです。読むほうは、別にどっちがどっちでも読みたきゃ読むだけですが、出版社はそれぞれに担当の部署を分けていたりしますし、これらを扱う新聞社も、おのずと担当記者のテリトリーに境目が出ます。すると、アクタ何とかのことはやたらと詳しいくせに、直木賞を語らせるとボロボロな記者、みたいな人も当然出てくるわけです。まったく、直木賞に縁深い記者、なかなか簡単には見つからないもんですね。

 とまあグチグチ言っていても始まりません。今週も、なるべく直木賞に関わりのありそうな人に、無理やり目を向けたいと思います。

 昭和30年代、『毎日新聞』の学芸部に名物キャラと言われる文芸記者がいました。狩野近雄さんです。

 この狩野さんも、純粋に文芸記者とは呼べません。とにかく行動や関心の範囲が広すぎて、学芸部長をやっただけでなく、出版局長、編集局長、さらには『スポーツニッポン』の社長にまでなって、一介の記者という枠を、はるかに超えちゃっています。しかし、その出発点となった昭和のはじめ、狩野さんは一介の学芸記者でした。ちょうど直木賞ができる頃のことです。

 狩野さんの最後の著書となった『記者とその世界』(昭和52年/1977年10月刊)という本があります。雑誌『ユニオン』連載中に絶筆になったもので、昭和23年/1948年頃までの狩野さんの記者武勇伝、というか回想録です。

 ここで狩野さんは、自身の転換点をはっきりと書いています。ずっと新聞記者をやっていこうと決心したのは、学芸部に配属されたときに千葉亀雄さんと出会ったからなのだと。

「新聞記者を一生の仕事として選ぶことができたのは千葉亀雄先生のおかげである。二年あまりの地方記者生活ののち、私の初めての本社勤務は新設間もない学芸部であった。そこには顧問千葉亀雄、部長阿部真之助、阿部さんの下には木村毅、高田保、大宅壮一といった面々、そして菊池寛がいた。

(引用者中略)

先生は朝早く出社する。自宅で各紙を見てしまっているのでまず東日(東京日日新聞)の地方版にさらっと目を通す。そしてラジオや身の上相談などの投書全部を見て、せっせと選んで添削する。(引用者中略)私はびっくりしてしまった。読者から集まる雑多な手紙――亭主に女ができたとか、昨晩の虎造は良かったとか――それを日本第一級の頭脳が窓口に座って読むのだ。無論読者は知らない。私は、読者との直の窓口に千葉先生を座らせておく新聞というものに感激して、何という大きな新聞だ、この新聞で一生を過そう、という決意を固めた。」(『記者とその世界』「私と新聞」より)

 狩野さんは大学時代に芝居の演出などもしていたらしく、そこら辺りの「芸術」界隈に興味をもつ青年でした。こういう青年に、文芸とジャーナリズムの深い結びつき(ないし、結びつけ方)を行動で示してみせた千葉亀雄。やっぱり偉大だったな、とため息が出てしまいます。狩野さんもそれにヤラれちゃった口のようですし、菊池寛さんや文春の連中が手がけたジャーナリズムも、言ってみれば、ほとんど千葉さんの亜流です。

 亜流かどうかはさておいて、千葉チルドレンの狩野さんが、同じく千葉チルドレンといっていい菊池さんや『文藝春秋』と仲がよく、ときにナアナアの関係を築くのは、自然な流れだったでしょう。その辺りも『東京日日』初代学芸部長、阿部真之助さんの衣鉢を継いだのが狩野さんでした。

 いや、狩野さんのパーソナリティもそうですが、いっぽうの文春に、こういう人たちを大事にする伝統があったのも大きかったと思います。オモテに出ている人(作家とか)だけじゃなくて、それを支えるウラの業界人を、手厚く褒めたたえる伝統です。

 まえに挙げた頼尊清隆さんもそうでした。狩野さんも、記者生活45年を迎えた昭和51年/1976年10月5日に、東京会館で「祝う会」が開かれましたが、「一切合財文芸春秋社の骨折りで催された」(『新聞研究』昭和51年/1976年12月号 狩野近雄「会合記事」)そうです。狩野さんのような記者が、直木賞を支えたきたのはたしかなので、文春がこうやって記者のためにパーティーを開くのは、まったく理にかなっています。文句の言いようがありません。

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2022年4月 3日 (日)

光岡明(熊本日日新聞)。早朝に小説を書き、それから出社して記者生活を送る勤勉な人。

20220403

 かつて直木賞は、現役の新聞記者がとるもの、と相場が決まっていました。

 いや、それはさすがに言いすぎです。現役の新聞記者がとっても珍しくない、そんな時代が数十年あっただけのことなんですけど、うちのブログでもそのなかで文芸や学芸を担当していた現役記者を、何人か取り上げてきました。受賞者では司馬遼太郎さん(第42回・昭和34年/1959年下半期受賞)、豊田穣さん(第64回・昭和45年/1970年下半期受賞)、候補者では木野工さん(第47回・昭和37年/1962年上半期ほか候補)、中田浩作さん(第57回・昭和42年/1967年上半期候補)……。

 最近ではめっきり、現役記者の書いた小説が直木賞の候補になることはなく、もはやこれも、同人雑誌とか新書版のノベルズとか、そういうものと同様に直木賞から消えてゆく文化なんでしょう。さかのぼって見ても、新聞社に籍のある記者が直木賞の候補になったのは、おそらく第86回(昭和56年/1981年下半期)が最後かと思われます。

 直木賞の歴史を半分で区切ると、前半と後半の境はだいたい第80回ごろです。要は、現役記者が直木賞の候補になるとかどうとかいうのは、前半の時期にしか通用しない話題なわけですね。昔のハナシです。

 その第86回、「現役記者の直木賞」という文化の打ち止めになったのが、光岡明さんでした。『熊本日日新聞』の人です。

 直木賞を通じてもなかなか面白い受賞者なので、これまで何度か取り上げたことがあります。光岡さん。この人の書くものは、ワタクシも好きなので、受賞作の『機雷』を含めて未来に読み継がれていってほしいな、と思うんですが、まあ新しい読者に好んで迎え入れられるとも思えません。これからも消えるいっぽうの作家でしょう。しゃあないです。

 と、それはともかく光岡さんの「新聞記者」に対する情熱は、やはり特筆しておかなきゃいけません。

 地方紙における記者の人事がどうなっているのか、くわしくないのでわからないんですが、光岡さんの場合、入社してしばらくは市井の事件や社会問題の取材に駆けまわります。昭和34年/1959年、三井鉱山の三池争議を取材したときの経験は、ずっとのちまで書きたいテーマとして頭に残ったそうです。

 昭和41年/1966年から数年、東京支社で編集部長を務めます。大宅マスコミ塾の五期生として草柳大蔵さんに師事したのはこの頃のことですが、はじめ光岡さんの希望はルポライターとして活躍したい、ということでした。じっさいに何が起きたのか、まずは徹底的に調べ尽くして、それを構築して読み手に届ける。それが光岡さんのやりたかったことで、マスコミ塾で学んだことは新聞記者として血肉になっていきます。文芸のことは、あまり優先度は高くなかったようです。

 ところが、草柳さんから「きみはルポより小説のほうが向いているんじゃないか」と言われたり、『日本談義』の荒木精之さんに「小説、書いてみませんか」と誘われたりするうちに、じゃあちょっとやってみるかと乗り気になって、昭和47年/1972年に「棚鳴り」を発表。昭和50年/1975年に同誌に書いた「卵」が、『文學界』の同人雑誌推薦作となったところから、にわかに有望な熊本の作家として注目を浴びはじめます。

 同じころには、文化・学芸の担当記者としても腰が据わって、そうだよおれは地元熊本の文芸・演劇・美術その他カルチャーを側面から応援して盛り上げていくんだ! と使命感に燃え盛ります。気力みなぎる40代。社内でも話題・伝説の人となっていったそうです。

「新聞社に入社したばかりの三十年近く前、昼休みに光岡さんから喫茶店に誘われた。

身を固くしている新米に、既に俊才の誉れが高かった学芸記者は言った。

「おれは新聞記者とモノ書きの二足のわらじを履いている。いずれ文壇で名を成して見せる」

自信をみなぎらせた表情に、「この人はただ者ではない」と畏敬と憧憬の念を抱いた。

未明の四時ごろに起きて、出勤まで執筆する―光岡さんを知る人々にとってその営為は、当時からの伝説だった。」(『熊本日日新聞』平成16年/2004年12月23日「評伝 光岡明さん 「地域で書き、生きたい」記者気質…とことん取材」より ―署名:文化生活部長・龍神恵介)

 職業作家じゃない人が、苦しい思いをしてまで小説を書きつづける理由は、いろいろあるかと思います。光岡さんも、人には言えない心の鬱屈を抱えていたでしょう。ただ、光岡さんが文壇で成り上がっていく過程には、いまの職場に絶望しているとか、イケすかない上司や部下をいつか見返してやるんだとか、そういう怨念的なものが何ひとつうかがえません。このあたりが、常人にはなかなか感情移入しづらいところですけど、しかし龍神さんが言うように、畏敬と憧憬を抱かされるのもたしかです。

 少なくとも、サラリーマンとして(あるいは人間として)信頼できる、まっとうな人だったことは伝わります。書いたものからもマジメさが匂ってくる、そんな記者であり作家でした。そりゃあ文学賞でも取らないと、売れもしないし話題にもならないのは、よくわかります。

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