船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。
考えてみると、昔の作家ってだいたい新聞記者をしています。とくに明治から昭和前期の戦前ぐらいまでは、どいつもこいつも記者上がりばっかりです。
……などと、「ばっかり」なんて言ってしまうと、何人ちゅう何人のことなんだ、ちゃんと数えたんだろうな、と詰め寄られそうなので、あくまでド素人が思う印象論にすぎません、と断っておきます。ただ、直木賞ができた昭和9年/1934年前後、「文壇」と呼ばれるものの一角に、新聞記者の群れがけっこう大きな位置を占めていたのは、たしかなようです。
こないだ野口冨士男さんの『感触的昭和文壇史』(昭和61年/1986年7月・文藝春秋刊)を読んでいたら、昭和10年/1935年前後に文学を志していた作家予備軍として、新聞記者たちの名がたくさん挙がっている文章に出くわしました。
当時『都新聞』に入った連中の、中村地平さんや北原武夫さんや井上友一郎さんや田宮虎彦さんや澤野久雄さんや、そして野口冨士男さん、みな心の底に作家として世に立ってやるぜ、という野心を燃やしながら、しかしそう簡単には作家一本で食ってはいけない。文壇、経済、出版界、もろもろ世の情勢として新人が出づらいという認識が、直木賞やもうひとつの文学賞ができた昭和9年/1934年ごろにはあったんだ、ということです。
そして、その野口さんとはのちに「青年芸術派」という同人組織でいっしょになる船山馨さんも、いっとき新聞記者をしていたと言います。新聞のなかでも担当は、学芸や文芸でした。しかも、おれは早く記者稼業をやめて職業作家になってやるんだ、という意思をもっていたことも、野口さんたちと同様です。昭和10年代、この時代の「文芸記者」の典型の一種だった、と思われます。
まあ、船山さんが在職中に縁があったのは、直木賞ではなく芥川賞のほうです。昭和15年/1940年、船山さんも関わった豊国社発売の同人誌『新創作』は、もとの誌名を『創作』といい、ここから昭和15年/1940年2月に寒川光太郎さんが「密猟者」で芥川賞をとっています。船山さんが『創作』に加わったのは、同郷の寒川さんに誘われたからだそうです(『北海道文学大事典』「船山馨」の項、執筆担当:木原直彦)。
札幌の『北海タイムス』に勤めていた船山さんが、新聞四社連盟の東京支社勤めの記者として、学生時代以来三たび東京にやってきたのが昭和14年/1939年だそうですから、かなりやる気がみなぎっていた頃でしょう。すぐそばには芥川賞をとったばかりでキラキラしている先輩もいる。文芸記者の仕事はそっちのけで、文学運動、創作活動に励みます。
いや、ほんとにそっちのけだったかどうなのか。それはわかりません。船山さんが記者だった期間は、長くても4年程度、東京支社の文芸記者としても1~2年の短い勤務だったんですが、とにかく、そのときの経験にあとあと苦しめられた、と語られています。
「作家のなかには、新聞記者の職歴をもった人がかなりいるが、私もそのひとりである。報道記事の文章は、新聞というものの性質上、一にも二にもわかりやすく、簡潔なことが要求される。(引用者中略)こういう文章を長年書きつづけていると、よほど気をつけていても、それが身についてしまうものなので、小説などを書きはじめてみると、意外に、それが邪魔になってくる。私が新聞社にいたころも、記者仲間に文学志望の青年が多かったが、心ある者は、記者生活は文章が荒れるといって戒心していたものであった。
私は学芸記者で終始したので、本物の新聞記者とは言えないが、それでもインタビュー記事や解説物などは、しばしば書かねばならなかった。それも締切り時間にあわせて三十分か一時間で書き流すには、慎重に言葉をえらんではいられないから、いきおい出来合いの言葉や表現にたよることになる。
後年、その記者時代の習慣を自分から追い出すために、私は自分でも思いがけないほど苦労をしなければならなかった。」(昭和53年/1978年1月・構想社刊、船山馨・著『みみずく散歩』所収「平易と平俗の間」より ―初出『週刊言論』昭和43年/1968年10月9日)
学芸記者を「本物の新聞記者とは言えない」と言っているところも面白いんですが、それはそれとして、記者稼業にかなり力を注いでいなければ、そのときの書きぐせが抜けずに苦労することもないはずです。おそらく船山さん自身、小説でやっていきたいと思いながら、記者の仕事をおろそかにもできず、締め切り30分、1時間の原稿をびゅんびゅん仕上げていたものでしょう。まじめです。
ともかく昭和16年/1941年、船山さんは思い切って『北海タイムス』を退社。原稿書きだけでやっていこうと、文芸記者から足を洗いました。当時、付き合っていた作家といえば、椎名麟三さんだの「青年芸術派」の連中だのと、純文学臭の強烈な人たちばかりです。うちのブログで取り上げるには、ちょっと路線が違うかな、と思わないでもありませんが、しかしそこは融通無碍な直木賞。やがて船山さんも、直木賞にほど近い存在になっていってしまうのです。
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船山馨。大正3年/1914年3月31日生まれ。昭和56年/1981年8月5日没。札幌で生まれ育ち、早稲田第一高等学院に進んで中退、さらに明治大学予科に入り直してそこも中退。いずれも学費滞納が原因だった、という貧乏暮らしを続けるなかで、昭和12年/1937年に養父だった森笛川さんのコネを使って、『北海タイムス』にもぐり込ませてもらい、学芸・文芸記者になります。昭和14年/1939年に東京赴任となって、そこで文学への情熱が爆発、ちょっと作家として注目されはじめたところで、昭和16年/1941年10月に新聞社を退き、退路を断ったかっこうです。
純文学から出てきた作家だから芥川賞のほうが近いだろ。というのは、世間にはびこる誤解のひとつです。むしろ「純文学から出てきてすぐに芥川賞をとれなかった人は、直木賞と縁ができやすい」と言うべきでしょう。戦前、船山さんとともに、若手純文学の有望株として注目された野口冨士男さん、田宮虎彦さん、青山光二さんは、戦後、ぞくぞくと直木賞の候補に挙げられました。
その段でいけば、船山さんもさらりと直木賞の候補になってもおかしくなかった作家です。ちょっと低迷期が長すぎたせいでしょう、再び浮かび上がった頃には、いくら何でもベテランすぎるという域に達していて、直木賞の候補経験はありません。
再び浮かび上がったきっかけは、『石狩平野』(昭和40年/1965年7月2日~昭和41年/1966年8月24日『北海タイムス』連載、昭和42年/1967年8月・河出書房新社刊)です。この頃に、船山さんは思いがけず近くに直木賞の匂いを嗅ぐことになります。
昭和40年/1965年冬、新潮社の「同人雑誌賞」を受賞した渡辺淳一さんが、郷土の先輩作家にごあいさつを、と船山さんの家を訪ねてきます。渡辺さんも最初は純文学の方面で評価されましたが、まもなくこの人なら直木賞にちょうどいいと文藝春秋の編集者に判断され、第57回(昭和42年/1967年上半期)から直木賞の候補に挙げられます。
渡辺さんが直木賞をとれるかとれないか、という頃から、船山さんはこの後輩のことを可愛がり、渡辺さんも「第二の父のような存在」だと船山さんになつきます。渡辺さんが、おれはほんとに作家としてやっていけるのか、と不安だった時代、精神的に頼りにしていた先輩といえば、伊藤整さんと船山さん、というのが定説ですが、船山さんにとっても、おそらく渡辺さんの活躍を励みに自分の作家生活を充実させていったのではないか。……そう思えるほどに昭和40年/1965年以降の二人の活躍は、のぼり調子の一途をたどりました。
もはや文芸記者のハナシから遠く離れちゃいましたけど、先に挙げた船山さんのエッセイ「平易と平俗の間」は、昭和43年/1968年、のぼり調子に差しかかったこの時期に書かれたものです。小説で世に出ようと必死で文章と格闘していた往年の文芸記者、時は流れて、直木賞をつかもうと必死で格闘する若い作家と親しくなって刺激を受ける……。ということで、船山さんをダシにして無理やり文芸記者と直木賞をつなげさせてもらいました。
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