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2022年3月20日 (日)

扇田昭彦(朝日新聞)。一時期、文芸担当だったときに、タイミングよく演劇人が直木賞受賞。

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 たいていの新聞には、話題の人や時の人のインタビューが、顔写真つきで載る囲み記事があります。

 直木賞ではなくて、もうひとつの賞のことですけど、受賞者がこの欄にあまり取り上げられなくなった、という時期がありました。昭和後期から平成はじめの頃です。それを根拠に、いやあアノ賞はもはやオワコンだね、などと冷やかす人もいた、というのですから、当時の文壇における新聞の評価っつうのは異様に高かったんだな、と思います。そういう不健全な状態が崩れてくれて、ほんとよかったです。

 それはさておき、直木賞の場合も、受賞者が紹介される例はけっこうあります。各紙、それぞれの時代でどの受賞者を取り上げてきたか。全部調べるのも面白いと思うんですけど、労が多いわりに益が少なすぎて、まだ調べていません。すみません。

 誰が取り上げられてきたかも、たしかに重要です。だけじゃなく、誰がインタビューして記事を書いたのか、というのも同じくらい大切です。日頃かげに隠れている「直木賞を裏で支えてきた」文芸記者が、うっかりオモテに出てくるからです。

 『朝日新聞』で言うと、「ひと」欄というのがあります。かつては無署名でしたが、途中から(〓)と、主に氏名の一字をとった疑似イニシャル署名が使われるようになりました。たとえば(目)といえば百目鬼恭三郎さん、というふうな記法ですね。そこからさらに、記者のフルネームが末尾に入るようになったのは、おおよそ昭和55年/1980年頃からのようで、直木賞を受賞した向田邦子さんの「ひと」欄を仕上げたのが、学芸部の由里幸子さんだということがわかります。

 そしてこの時期、直木賞の受賞者を「ひと」欄で担当した『朝日』の学芸記者がもうひとりいました。扇田昭彦さんです。

 まあ、扇田さんの仕事を振り返って「文芸記者」だったと言う人はいないでしょう。ただ、演劇にどっぷり浸かった扇田さんも、5年ほど学芸部員として文芸を担当させられた時期があります。

 ひるがえってみれば扇田さんも、直木賞とはよほど縁のある人です。扇田さんもというか、現代演劇そのものが直木賞を盛り上げた時代がある、というハナシでしょうけど、直木賞はつくられた当初から劇作の世界と地つづきですから、「大衆小説界」だの「演劇界」だのと区分けするほうが頭がおかしいのかもしれません。

 川口松太郎さんから始まって、長谷川伸さん中心の「新鷹会」メンバーやら、戸板康二さんやら、安藤鶴夫さんやら、その名を聞くだけでパッと演劇が思い浮かぶ個性が散らばっているのが、直木賞の歴史です。その伝統のなかに、1980年代にちょっと「文芸記者」仕事をやらされた扇田さんも位置づけられる、というわけです。

 なかでも直木賞の選考対象になった作家のうち、扇田さんが肩入れした演劇人といえば、井上ひさしさんとつかこうへいさん、この2人が挙げられます。

 井上さんについては、扇田さん学芸部に配属されて2年目の昭和44年/1969年、「日本人のへそ」を観て以来、これは面白い劇作家が現われたぞと興奮し、翌年インタビューを敢行、「喜劇作家 井上ひさしの横顔」という記事を『朝日』に載せたのが扇田さんだったそうです。そこから「新劇」岸田戯曲賞の受賞(昭和47年/1972年決定)とか、直木賞の受賞(同年決定)とかを経て、昭和55年/1980年から『朝日』で「文芸時評」を書いてもらうことになって、扇田さんは担当記者として井上邸に日参。つまり、直木賞やら何やらかんやらそれに付随した井上さん大飛躍の時期に、扇田さんは演劇記者・文芸記者としてびっちり貼りついていました。

 それからまもなく。文芸担当になった扇田さんにとびきりの直木賞ニュースが舞い込んできます。つかこうへいさんの受賞です。

          ○

 扇田昭彦。昭和15年/1940年6月26日生まれ。平成27年/2015年5月22日没。東京大学文学部を卒業後、朝日新聞社に入社。地方支局を経て昭和43年/1968年に東京本社学芸部に配属されます。文芸担当やデスクの時期もありましたが、主な担当は演劇で、在社中も平成12年/2000年に退社したあとも、劇場に足を運び、作品を観劇し、関係者に話を聞き、ときに私的な付き合いも重ね、押しも押されもしない演劇ジャーナリストとしてたしかな足跡を残しました。

 むしろ扇田さんの歩みのなかに、一つでも二つでも関われたことを、直木賞のほうが喜ばないといけないかもしれません。昭和57年/1982年1月、つかさんが受賞したときの『朝日』の「ひと」欄は、ちょうどそのころ文芸担当だった扇田さんが書きました。

「私はつかをデビュー当時から知っていた。新聞の仕事で彼にインタビューしたり、原稿を依頼したりすることも多く、彼の文庫本の解説も(引用者中略:昭和58年/1983年の段階で)すでに何冊か書いていた。(引用者中略)京都の大学の学園祭で、つかと対談したこともある(つか自身の指名だった)。私より八歳年下(一九四八年生まれ)だが、個人的にかなり親しい関係にあったといっていい。」(平成17年/2005年11月・朝日新聞社/朝日選書、扇田昭彦・著『才能の森 現代演劇の創り手たち』所収「在日のプライド――つかこうへい」より)

 と、扇田さん自身も書いているぐらいで、つか×扇田には特別な絆があったものと思います。その空間に、直木賞が加われたんですから奇跡です。奇跡はさすがに言いすぎだとしても、なかなか珍しいめぐり合わせなのは、たしかです。

 70年代、80年代に、若者文化としての熱気があふれた演劇界を、どうにか中間小説や読み物小説に取り込もうとした文芸編集者たちがいました。その現象のおこぼれとして、直木賞にも演劇や芸能の血が流れ込み、文学賞の芸能化だ何だとスパークが爆発します。ときに、演劇専門記者として、そちらの動向の隅から隅まで目を配っていた新聞記者が、なぜか文芸をまかされて、文学賞なんちゅうくだらない事業を取材しなくちゃならなくなったときに、奇遇にも巡り合った二人。

 つかこうへいさんと扇田さん。その展開だけでも見事なドラマになりそうです。いや、なりませんか。ただ、少なくともそれからつかさんが亡くなり、扇田さんが亡くなるまでの、長い長い二人の関わりに、そっと花を添えるエピソードとして記録しておきたいと思います。

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