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2022年3月の4件の記事

2022年3月27日 (日)

船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。

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 考えてみると、昔の作家ってだいたい新聞記者をしています。とくに明治から昭和前期の戦前ぐらいまでは、どいつもこいつも記者上がりばっかりです。

 ……などと、「ばっかり」なんて言ってしまうと、何人ちゅう何人のことなんだ、ちゃんと数えたんだろうな、と詰め寄られそうなので、あくまでド素人が思う印象論にすぎません、と断っておきます。ただ、直木賞ができた昭和9年/1934年前後、「文壇」と呼ばれるものの一角に、新聞記者の群れがけっこう大きな位置を占めていたのは、たしかなようです。

 こないだ野口冨士男さんの『感触的昭和文壇史』(昭和61年/1986年7月・文藝春秋刊)を読んでいたら、昭和10年/1935年前後に文学を志していた作家予備軍として、新聞記者たちの名がたくさん挙がっている文章に出くわしました。

 当時『都新聞』に入った連中の、中村地平さんや北原武夫さんや井上友一郎さんや田宮虎彦さんや澤野久雄さんや、そして野口冨士男さん、みな心の底に作家として世に立ってやるぜ、という野心を燃やしながら、しかしそう簡単には作家一本で食ってはいけない。文壇、経済、出版界、もろもろ世の情勢として新人が出づらいという認識が、直木賞やもうひとつの文学賞ができた昭和9年/1934年ごろにはあったんだ、ということです。

 そして、その野口さんとはのちに「青年芸術派」という同人組織でいっしょになる船山馨さんも、いっとき新聞記者をしていたと言います。新聞のなかでも担当は、学芸や文芸でした。しかも、おれは早く記者稼業をやめて職業作家になってやるんだ、という意思をもっていたことも、野口さんたちと同様です。昭和10年代、この時代の「文芸記者」の典型の一種だった、と思われます。

 まあ、船山さんが在職中に縁があったのは、直木賞ではなく芥川賞のほうです。昭和15年/1940年、船山さんも関わった豊国社発売の同人誌『新創作』は、もとの誌名を『創作』といい、ここから昭和15年/1940年2月に寒川光太郎さんが「密猟者」で芥川賞をとっています。船山さんが『創作』に加わったのは、同郷の寒川さんに誘われたからだそうです(『北海道文学大事典』「船山馨」の項、執筆担当:木原直彦)。

 札幌の『北海タイムス』に勤めていた船山さんが、新聞四社連盟の東京支社勤めの記者として、学生時代以来三たび東京にやってきたのが昭和14年/1939年だそうですから、かなりやる気がみなぎっていた頃でしょう。すぐそばには芥川賞をとったばかりでキラキラしている先輩もいる。文芸記者の仕事はそっちのけで、文学運動、創作活動に励みます。

 いや、ほんとにそっちのけだったかどうなのか。それはわかりません。船山さんが記者だった期間は、長くても4年程度、東京支社の文芸記者としても1~2年の短い勤務だったんですが、とにかく、そのときの経験にあとあと苦しめられた、と語られています。

「作家のなかには、新聞記者の職歴をもった人がかなりいるが、私もそのひとりである。報道記事の文章は、新聞というものの性質上、一にも二にもわかりやすく、簡潔なことが要求される。(引用者中略)こういう文章を長年書きつづけていると、よほど気をつけていても、それが身についてしまうものなので、小説などを書きはじめてみると、意外に、それが邪魔になってくる。私が新聞社にいたころも、記者仲間に文学志望の青年が多かったが、心ある者は、記者生活は文章が荒れるといって戒心していたものであった。

私は学芸記者で終始したので、本物の新聞記者とは言えないが、それでもインタビュー記事や解説物などは、しばしば書かねばならなかった。それも締切り時間にあわせて三十分か一時間で書き流すには、慎重に言葉をえらんではいられないから、いきおい出来合いの言葉や表現にたよることになる。

後年、その記者時代の習慣を自分から追い出すために、私は自分でも思いがけないほど苦労をしなければならなかった。」(昭和53年/1978年1月・構想社刊、船山馨・著『みみずく散歩』所収「平易と平俗の間」より ―初出『週刊言論』昭和43年/1968年10月9日)

 学芸記者を「本物の新聞記者とは言えない」と言っているところも面白いんですが、それはそれとして、記者稼業にかなり力を注いでいなければ、そのときの書きぐせが抜けずに苦労することもないはずです。おそらく船山さん自身、小説でやっていきたいと思いながら、記者の仕事をおろそかにもできず、締め切り30分、1時間の原稿をびゅんびゅん仕上げていたものでしょう。まじめです。

 ともかく昭和16年/1941年、船山さんは思い切って『北海タイムス』を退社。原稿書きだけでやっていこうと、文芸記者から足を洗いました。当時、付き合っていた作家といえば、椎名麟三さんだの「青年芸術派」の連中だのと、純文学臭の強烈な人たちばかりです。うちのブログで取り上げるには、ちょっと路線が違うかな、と思わないでもありませんが、しかしそこは融通無碍な直木賞。やがて船山さんも、直木賞にほど近い存在になっていってしまうのです。

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2022年3月20日 (日)

扇田昭彦(朝日新聞)。一時期、文芸担当だったときに、タイミングよく演劇人が直木賞受賞。

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 たいていの新聞には、話題の人や時の人のインタビューが、顔写真つきで載る囲み記事があります。

 直木賞ではなくて、もうひとつの賞のことですけど、受賞者がこの欄にあまり取り上げられなくなった、という時期がありました。昭和後期から平成はじめの頃です。それを根拠に、いやあアノ賞はもはやオワコンだね、などと冷やかす人もいた、というのですから、当時の文壇における新聞の評価っつうのは異様に高かったんだな、と思います。そういう不健全な状態が崩れてくれて、ほんとよかったです。

 それはさておき、直木賞の場合も、受賞者が紹介される例はけっこうあります。各紙、それぞれの時代でどの受賞者を取り上げてきたか。全部調べるのも面白いと思うんですけど、労が多いわりに益が少なすぎて、まだ調べていません。すみません。

 誰が取り上げられてきたかも、たしかに重要です。だけじゃなく、誰がインタビューして記事を書いたのか、というのも同じくらい大切です。日頃かげに隠れている「直木賞を裏で支えてきた」文芸記者が、うっかりオモテに出てくるからです。

 『朝日新聞』で言うと、「ひと」欄というのがあります。かつては無署名でしたが、途中から(〓)と、主に氏名の一字をとった疑似イニシャル署名が使われるようになりました。たとえば(目)といえば百目鬼恭三郎さん、というふうな記法ですね。そこからさらに、記者のフルネームが末尾に入るようになったのは、おおよそ昭和55年/1980年頃からのようで、直木賞を受賞した向田邦子さんの「ひと」欄を仕上げたのが、学芸部の由里幸子さんだということがわかります。

 そしてこの時期、直木賞の受賞者を「ひと」欄で担当した『朝日』の学芸記者がもうひとりいました。扇田昭彦さんです。

 まあ、扇田さんの仕事を振り返って「文芸記者」だったと言う人はいないでしょう。ただ、演劇にどっぷり浸かった扇田さんも、5年ほど学芸部員として文芸を担当させられた時期があります。

 ひるがえってみれば扇田さんも、直木賞とはよほど縁のある人です。扇田さんもというか、現代演劇そのものが直木賞を盛り上げた時代がある、というハナシでしょうけど、直木賞はつくられた当初から劇作の世界と地つづきですから、「大衆小説界」だの「演劇界」だのと区分けするほうが頭がおかしいのかもしれません。

 川口松太郎さんから始まって、長谷川伸さん中心の「新鷹会」メンバーやら、戸板康二さんやら、安藤鶴夫さんやら、その名を聞くだけでパッと演劇が思い浮かぶ個性が散らばっているのが、直木賞の歴史です。その伝統のなかに、1980年代にちょっと「文芸記者」仕事をやらされた扇田さんも位置づけられる、というわけです。

 なかでも直木賞の選考対象になった作家のうち、扇田さんが肩入れした演劇人といえば、井上ひさしさんとつかこうへいさん、この2人が挙げられます。

 井上さんについては、扇田さん学芸部に配属されて2年目の昭和44年/1969年、「日本人のへそ」を観て以来、これは面白い劇作家が現われたぞと興奮し、翌年インタビューを敢行、「喜劇作家 井上ひさしの横顔」という記事を『朝日』に載せたのが扇田さんだったそうです。そこから「新劇」岸田戯曲賞の受賞(昭和47年/1972年決定)とか、直木賞の受賞(同年決定)とかを経て、昭和55年/1980年から『朝日』で「文芸時評」を書いてもらうことになって、扇田さんは担当記者として井上邸に日参。つまり、直木賞やら何やらかんやらそれに付随した井上さん大飛躍の時期に、扇田さんは演劇記者・文芸記者としてびっちり貼りついていました。

 それからまもなく。文芸担当になった扇田さんにとびきりの直木賞ニュースが舞い込んできます。つかこうへいさんの受賞です。

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2022年3月13日 (日)

内藤麻里子(毎日新聞)。2000年代・2010年代の直木賞会見場にいた「二大巨頭」のひとり。

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 先週は、ちょっと強引に大上朝美さん(朝日新聞)を取り上げました。今週はこの流れで、もうひとりワタクシが個人的に思い入れのある「直木賞」文芸記者に行ってみます。『毎日新聞』内藤麻里子さんです。

 いやまあ、思い入れ、というほど深いものじゃありません。思い入れというより、淡い思い出です。

 「直木賞のすべて」を開設したのが平成12年/2000年のことです。以来、ど素人という制約のなかで、できるだけ直木賞のことを知ろうと七転八倒し、いまもしていますが、途中の第144回(平成22年/2010年・下半期)から受賞者の会見が生中継されることになって、一気に「発表とその会見」が身近なものになりました。

 すると当然、あれはどういう場所でどういうふうに行われているんだろう、と興味が沸くわけですから、よーし何とかモグり込んじゃえ、と相当無理して現場に足を運ぶようになります。

 もちろんインターネット越しの中継を見ていればいいだけのハナシで、わざわざその場に行く必要はありません。しかし、たいてい後ろの角度から座った姿しか映されずに、「数多くいる群衆のなかのひとり」としかとらえられない記者たちを、自分なりの視線で注目することができます。取材に向かう、やる気のある顔や淡々とした表情、積極的に手をあげるヤツや、死んだような目で座っているだけのヤツ、などなどその光景を見るのは新鮮でした。これもまた、直木賞を形づくっている重要な一現象です。

 それで、直近の2010年代、あの現場でとくに熱心に質問をしていた記者となると、ぐっと数が絞られます。以前、『読売新聞』川村律文さんについて触れましたけど、『読売』は村田雅幸さんや鵜飼哲夫さんも毎回のように手をあげ、しぼり出したような、ひねり出したような、苦しい質問を飽くことなく続けていました。そしていまひとり、直木賞の受賞者に質問する時間がくると、まずかならずマイクを握っていたのが『毎日新聞』の内藤さんです。

 「無理やりひねり出したような質問」ということでは、他の記者とあまり印象は変わりません。しかし言葉の端々から伝わったのは、「絶対に、わははとお茶を濁して終わるような、おチャラケな会見にはするまい」とする強い意思です。そこが、そのころワタクシが勝手に「直木賞会見の二大巨頭」と呼んでいた鵜飼さんと内藤さんの、いちばんの違いでしょう。

 言葉を変えて言えば、まじめというんでしょうか。正統というんでしょうか。イジ悪く変化球を投げてみたり、はたまたいかにも評論家きどりで批判めいた切り口でせまったり、そういうところが内藤さんにはありません。文芸記者道のどまんなかを邁進して、毎回毎回、受賞決定と選考経過を報じる記事を積み上げる、安心・安定の仕事ぶり。こういう人が、文芸記者の王道というのだろうな、といつも遠目で感嘆しながら眺めていました。

 と同時に、内藤さんが文芸記者として活躍した2000年代、2010年代は、新聞メディアもネットのなかに飲みこまれた時代で、内藤さんによる直木賞に関する記事を、『毎日新聞』をとっていなくてもしばしば目にしました。そういうのを読んでいると、あまりに性格がいいからなのか、ちょっと直木賞に向けるまなざしがヌルいのではないか、と思わなかったわけではありません。

 たとえば、こんな記事があります。当時、ネットに挙がっていたかは覚えていませんが、いかにも内藤麻里子ブシ、といった観があります。直木賞・他一賞を解説したものです。

「Q 新しく選考委員が加わったと聞いたのですが。

A (引用者中略)直木賞は北方謙三、林真理子、宮城谷昌光の3氏が加わり11人になりました。(引用者中略)直木賞の北方さんはミステリー、林さんは恋愛小説、宮城谷さんは歴史小説とそれぞれの分野のベストセラー作家で、最近のミステリーの隆盛に対応できるようにするなど、今までにカバーしきれなかったジャンルの充実を図ったとみられます。いずれにしても両賞ともに年齢的に若い世代が加わり、新しい時代が始まったといえそうです。」(『毎日新聞』平成12年/2000年7月6日「ニュースがわかるQ&A NIE 芥川賞と直木賞 選考委員に若手加え幅広く」より ―署名:学芸部・内藤麻里子)

 選考委員の顔ぶれが多少変わっても、なかなか新しい時代が始まらないのが、直木賞のよさなのでは。とワタクシなどは思うんですけど、こういう賞の動きを否定的にとらえず、前向きに解釈してみせる。やはりプロの文芸記者にはかないませんね。

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2022年3月 6日 (日)

大上朝美(朝日新聞)。けっきょく文学賞は「運」に左右されることを確信した記者。

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 もはや「直木賞×文芸記者」のネタも尽きてきました。書けることがなく、いよいよ困ったので、今週は自分の思い出バナシでお茶を濁したいと思います。安易ですね。すみません。

 平成3年/1991年、まだワタクシが直木賞に興味もなく、平穏に過ごしていた頃のことです。『朝日新聞』で連載された筒井康隆さんの「朝のガスパール」を、毎日欠かさずチェックし、また連載途中に出た『電脳筒井線』(平成4年/1992年1月・朝日新聞社刊)などを読んで楽しんでいたんですけど、読み進めるうちに膨大な量の関連情報がまわりを流れていく、というかなり変わったタイプの小説だったので、これをきっかけに筒井さんにまつわる多くの人たちの名前を知ることになります。そのひとりが、この連載を担当した『朝日新聞』の記者、大上朝美さんです。

 なるほど、新聞連載は学芸部というところに属する社員が担当するんだなあ、と社会の仕組みがよくわからないながらも、おぼろげに思った記憶があります。ワタクシにとって、生まれて初めて知った文芸記者の名前、それが大上さんだったかもしれません。

 ちょうど連載の始まった年、筒井さんの『幾たびもDIARY』(平成3年/1991年9月・中央公論社刊)が出ていたので、これも買って読んだところ、たまたまそこにも大上さんの名前が出てきます。宮本輝さんが朝日新聞に連載した「ドナウの旅人」のために取材旅行に出かけたときのことをまとめた『異国の窓から』(昭和63年/1988年1月・光文社刊)という本のことを紹介するくだりです。

「著者に随行する一行の中で、朝日新聞の女性記者・大上朝美さんが面白い。宮本さんと、この女性が喧嘩ばかりしているのだ。

大阪本社学芸部のこの大上さんは、神戸のわが家にも来たことがある。実は前記した直木賞落選の夜、受賞した場合の取材に来ていたのだった。結果、落選となり、大上さんは悪いと思ったのか、おれにエッセイを頼んで帰った。(引用者中略)

註・この稿が『マリ・クレール』誌に掲載されたあと、当の大上朝美さんから手紙がきて、事実誤認があることを教えていただいた。直木賞落選の夜わが家に来たのは朝日新聞の別の女性記者であり、大上朝美さんが来たのは別件(新聞連載小説の打診)であったらしい。」(『幾たびもDIARY』、「一九八八年」「二月十八日(木)」の項より)

 ほほう、直木賞では選考会の夜、当落のわからない段階で新聞記者が候補者の家にわざわざ取材に行くものなのか。と、直木賞に対する興味がワタクシのなかでむくむくと芽生え、同時に大上さんってどんな仕事をしてきた記者なのか、さかのぼって調べるようになったわけです。……というのは、さすがにウソです。

 ウソはウソなんですけど、よくよく直木賞を追ってみると、平成の一時期、直木賞の受賞記事を大上さんが『朝日』に書いていたのもたしかです。昭和59年/1984年に大上さんが担当した「明るい悩み相談室」から一気に有名になった(?)中島らもさんが、まさかのちのち直木賞の候補者になってしまう、という強運ももっています。

 いや、簡単に「運」とか言っちゃいけませんよね。中島さんの才能に早い段階で気づいた大上さんを褒め称えなきゃいけないんでしょう。

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