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2022年2月 6日 (日)

新延修三(東京朝日新聞)。入社6年、直木三十五の魅力にハマッた男。

20220206

 昭和8年/1933年ごろ、直木三十五さんはぜえぜえあえいでいました。体調不良です。人気作家のまわりには編集者が寄ってきて、鼻の下を伸ばしながらおべっかを使う、というのはステレオタイプな文壇像ですけど、直木さんの場合、そこに何人かの新聞記者も加わります。

 そんな文芸記者として、うちのブログでは、笹本寅さん(時事新報)片岡貢さん(報知新聞)河辺確治さん(読売新聞)の3人について触れました。今週は、彼らと徒党を組んで若き日の情熱を燃やしていた4人目の記者、『東京朝日新聞』の新延修三さんを取り上げます。

 新延さんの特徴とは何か。先に挙げた3人と大きく違うのはどこか。それは、途中で記者をやめずに、退職後、自分が出会った作家のことを回想のかたちで書き残したことです。

 その一冊に『朝日新聞の作家たち』(昭和48年/1978年10月・波書房刊、医事薬業新報社発売)があります。交流の深かった人からそこまででもなかった人まで、64人の作家の姿を、ちょっとした私的なエピソードをまじえながら綴られたものです。新延さん自身が昭和3年/1928年の入社組でもあり、古い人ではあるので、取り上げられている作家も「直木賞ができる以前から書いていた人」が多く、直木賞の受賞・落選にまつわる話題はあまり出てきません。

 となると、いちばんの注目は、直木三十五さんとのエピソードでしょう。

 「直木三十五は、僕の好きな作家の一人だった。」から始まる新延さんの回想は、直木さんに対する敬愛の情がたしかに滲んでいます。ただ、直木さんが死んで40年近く経っていますし、冷静に思い出を語っている反面、なんだか淡々とした筆致だな、という感は否めません。そりゃそうです。昭和9年/1934年当時、新延さんはまだ入社6年目の20代後半で、それから戦争があり、戦後の動乱があり、たくさんの作家と出会って、これを書いている新延さんはもう70歳をすぎています。淡々もするでしょう。

 ということで、ここでは直木さんの人柄に影響されて、まだまだ若かった20代の頃の、新延さんの文章を参照しておきます。書かれたエピソードは、作家と担当記者という間柄を超えた付き合いがあったこと、いやがる直木さんを説き伏せて病院を探して入院させたのが新延さんだったこと、直木さんの入院中に、新延さん自身の娘、千鶴子さんがちょうど同じ結核性網膜炎で入院し、4歳で亡くなったこと、などなど、おおむね同じなんですが、やはり熱量が違います。

「僕からしてみれば、直木さんの「風格」に、「風格ある文学」に、急速度に傾いて行き、原稿の交渉、取引きもさることながら、それを口実に、ヂカに、直木さんに触れる機会を、一回でも多く、そしてまた、一時間でも、永くと望んだことである。商売柄、数多くの文人諸氏に接する僕ではあるが、かういふことは正直のところ、菊池寛氏の外は、直木さんあるのみである。そして幸ひ、直木さんの知遇を辱うしたいと、僕は思うてゐる。」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 新延修三「直木さんの弱音」より)

 この思い入れの強さたるや。新聞報道に携わるものとして、そこまで一人の作家に傾倒するか、というぐらいの気迫があります。まあ、どの作家にも風見鶏のようにイイ顔を向けるような八方美人の記者よりは、こういう感じで気の合った人間にとことん入れ込む人のほうが、直木さんの気に入ったのかもしれません。

 それで、ここで名前の出てくる菊池寛さんも、『朝日新聞の作家たち』では一章割かれています。読んでみると、こちらも若武者ニイノベ、流行作家だから何なんだ、といった感じで果敢に作家にぶつかっていく遠慮のなさが、菊池さんにも愛されたらしいです。うちの近所に空き家ができた、足りないならおれが少し出してやるからそこに越してこないか、と誘いも受けたとか。相当、気に入られています。

 あるいは、菊池さんが賭け麻雀のことで新聞の社会面に取り上げられたときのことも、新延さんは回想しています。それこそ40年もまえのことなので、新延さんの記憶もどこまで正確なのか、かなり疑問の残るところではありますが、菊池さんが「おたくの朝日新聞はまったくけしからん、小説を書かせておきながら、あんなことでおれを罪人のように書き立てるんだから」と猛烈に怒った……という部分は、たしかに菊池さん自身もそんなことを書いていますし、じっさいに新延さんも経験したんでしょう。

 しかし、残念ながら、そこに直木賞・芥川賞の第一回発表が『朝日』だけ載らなかった、という直木賞七不思議のひとつについては言及がありません。昭和10年/1935年、新延さんは学芸部だったはずで、しかも菊池さんとはこれほど物を言い合える仲だったのに。どうして他の新聞は全社掲載したのに『朝日』だけ載せなかったのか。……謎です。

          ○

 新延修三。明治38年/1905年2月26日生まれ、昭和60年/1985年5月10日没。慶應義塾大学を出て、昭和3年/1928年に東京朝日新聞社に入社。学芸部に配属されたのち、社会部で2~3年の修行をしてから再び学芸部に籍が戻って、太平洋戦争が始まるまでは作家の原稿取りや取材に注力します。戦後、名古屋の中京新聞社の編集局長に出向したのもつかの間、昭和25年/1950年に東京に戻ってくると、出版局から出ている『婦人朝日』や『朝日グラフ』といった雑誌の編集長に就任。昭和35年/1960年、55歳で定年退職した後は、仕事ぶりを期待されて電通に入社し、PR部の部長に就きますが、あまり仕事が性に合わなかったらしくからだを壊し、2年少しで退社します。それからは、自身の関わった昔ばなしのあれこれや、朝日新聞の記者たちのエピソードを執筆する「元・新聞記者のライター」として生涯を送りました。

 おそらく優秀な人だったんだと思います。だけど、新延さんを見れば見るほど、よくわからなくなります。いったい新延さんに力があったのか。それとも、朝日新聞の威光がすさまじかっただけなのか……。

 また『朝日新聞の作家たち』からの受け売りになるんですけど、ここに小島政二郎さんも出てきます。新延さんが慶應予科時代、国文学を教わった先生だそうです。新延さんにとっても特別な、かなり縁の深い作家ですが、朝日の社員になって原稿を頼みに行ったところ、小島さんがすごく喜んだ、というハナシが出てきます。

「小島も、はじめて朝日紙上に原稿が載るので喜んでくれた。

(引用者中略)

「(引用者注:以下、小島の言葉)しっかりやって、やがては、僕にも小説を書く機会を与えて下さい。朝日に書くということは、文壇への登竜門ですからね。」

(引用者中略)

その小島に、案外早く、朝日登場の幸運が舞い込んだ。

昭和七年の一月十二日から、五月十一日まで、全百三十回に亘って「海燕」を執筆している。

「これで、僕も立派に一人前に世に出ることになった」

と、小島は、目を輝かせて喜んでくれた。」(前掲『朝日新聞の作家たち』より)

 この辺りの正直さが小島さんの真骨頂、という感じです。かつての教え子が立派になって仕事を持ってきたから喜んだのか。いや、『朝日』だったから喜んだのか。もはや判然としません(いや、しているのか)。

 新延さんの回想に書かれた作家のなかには、単に朝日の記者だから付き合ったんだ、という人もいたと思います。別に文芸記者だからといって、物書きたちと友達になる必要はありません。そのぐらいのビジネスライクな距離感が、当然なのかも、という気はします。

 その意味で、新延さんにとって直木三十五という作家は、格別に貴重な存在だったと思われます。人柄に深く魅せられて、ずぶずぶと直木マジックにのめり込みかけた若き記者時代。そのまま直木さんやそれを取り巻く記者仲間といっしょに活動していたら、違った道を進んでいたかもしれません。直木さんの死によって、世の中いろいろなことが変わったり、動いたりしましたが、一人の文芸記者の人生を変えたのも、またたしかなようです。

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