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2022年2月20日 (日)

中田浩二(読売新聞)。同時期に候補になった作家たちと、のちに一緒に仕事した文芸記者。

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 歴史的にみて直木賞は、候補のなかにプロ作家とアマチュア作家が入り乱れていた頃がいちばん面白い。というのは、完全にワタクシの主観です。

 そもそも近年では、すでに何作も(何十作も)商業作品を書いている純プロ・半プロ作家ばかりがズラッと候補に並びます。そこから選ばれるだけなんちゅう、泡の抜けたような選考を見て、いったい何が面白いんでしょうか。

 いや、それはそれでムチャクチャ面白いんですけど、そこに2人、3人と、手あかの付いていないピカピカの無名作家が混じっていれば、グッと直木賞も引き締まって最高なのになあ、と惜しまれます。もはやそんな時代が戻ってくることはないでしょう。すみません、ないものねだりの戯れ言です。

 こうなると、最高の直木賞を感じるには昔を掘り起こすしかありません。

 第57回(昭和42年/1967年・上半期)などは、候補者の名前を見るだけで、有名人から無名人までよりどりみどり。一人ひとりの作家活動を調べていくだけでも、一生かかるんじゃないか、っていうぐらいに豊潤です。

 そのなかに「ホタルの里」(『三田文学』昭和42年/1967年1月号)で候補になった中田浩作さんが混ざっています。これが初めての候補で、以後何冊か本を出しましたが、けっきょく小説家としてはプロになれなかった一人です。

 「ホタルの里」は、宮城県の北部にある辺地分校を舞台にしています。語り手は、将来の昇給のためにあえて辺地校への赴任を望んだ30歳すぎの教師、久我敬一。まわりに山と田園しかないド田舎の学校には、たった一人、老教師の津田林平が勤めています。津田は長年、辺地ばかりを渡り歩いてきた教師で、いまはホタルの人工孵化の研究に熱心に取り組んでいるのですが、いっしょに住んでいる妻のマサの様子や、仙台の大学に通うひとり娘英子の言葉などから、次第に津田をめぐる背景が見えてきて……というおハナシです。

 直木賞の選考では、石坂洋次郎さんと源氏鶏太さんがけっこう高評価をくだしたようです。とくにこの回に委員になったばかりの石坂さんが、早くもその自由奔放さを発揮しています。

「私は今期からはじめて直木賞の審査員を仰せつかった。私はほかの文学賞の審査員もやっているが、直木賞の予選通過作品が手もとにまわって来て、ちょっと面くらったのは、量と質の関係である。具体的に言うと、単行本が三冊、雑誌の切り抜きが六部、計九篇で候補作品として送られて来たのであるが、そうなると、どうしても量にこだわる気持になりやすい。少し迷ったあげく、量にこだわらず、読んで自分がひかれた作品をひろい上げることにした。じっさいの審査会に出席してみると各審査員とも、質本位で作品を選んでいることが分ってホッとした。

さて、私は九篇の候補作品の中から、十点が満点で、中田浩作「ホタルの里」(三田文学一月号)、平井信作の「生柿吾三郎の税金闘争」(現代人・12)生島治郎「追いつめる」(光文社刊)の三篇に八点をつけ、この中から審査で選んでもらいたい気持で出席した。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号 石坂洋次郎「はじめて審査に参加して」より)

 生島治郎さんの『追いつめる』のどこが気に入ったのか、くわしくはわからないんですけど、いっしょに挙げた中田さんと平井さんは、明らかに石坂さん本人と縁があります。中田さんは同じ慶應の出身で、「ホタルの里」の載った『三田文学』には、石坂さんも「私のひとり言(VI) 菊池寛賞をいただく」を寄稿していて親近の情があったでしょうし、平井さんは同郷青森の人。自分に近しい人や、青森に関係する人、学校教師を描いた作品が候補になると、やたらとエコひいきする、というのがのちのち明らかになる石坂さん流の「情実だらけの直木賞選考」です。ここは思わず笑っちゃうところでしょう。

 その中田浩作さんは、本名・中田浩二。慶應義塾大学の国文科を卒業して、読売新聞に入ってまもない現役の記者でした。世代としては、以前取り上げた高野昭さんより少し後に当たり、ちょうどこれから文化部の記者として、連載小説を受け持ったり企画を立てたりする、そのための修業時代、といった頃でしょう。ここで本人が直木賞なんかとっていたら、大きく運命も変わっていたはずですが、候補に挙がっただけで十分だ、と思ったのか、中田さんはプロ作家になるようなそぶりを見せず、文芸記者の道を選びます。

 中田さんが候補になった前後の直木賞は、その歴史に華やかな光を当てたプロの作家たちがぞくぞくと受賞した頃です。生島さんは当然のこと、第55回の立原正秋さん、第56回の五木寛之さん、第58回の野坂昭如さんと三好徹さん。名前を並べるだけでもわかります。血気盛んなウルセエ連中ばっかりです。

 こういう人たちと、作家と記者の関係を崩さずに付き合いつづけて、新聞の文芸を上手に盛り立てたのですから、中田さんの苦労がしのばれます。

          ○

 中田浩二。昭和13年/1938年4月17日生まれ、令和2年/2020年11月20日没。東京に生まれ、慶應大を経て昭和39年/1964年に読売新聞社入社。文化部で長く働き、同部の次長、部長と出世して、多くの時評や解説記事を書き、また多くの連載小説を裏で支えました。残念ながらその業績はほとんどまとまっていません。今後も全貌が明らかにされることはないでしょう。

 それも残念なんですが、小説家としての中田浩作・名義の作品も、初出の雑誌をがんばって探す以外に読むすべがないのも、直木賞ファンとしては悲しいです。これなども、親しかった人たち誰かまとめて、追悼本でも出してくれないかなあ、と思います。ひょっとして、もう出ているんでしょうか。情報求む。

 と、文芸記者の場合は、よほど多方面で活躍したり名が売れたりしないと、生前も没後も、その業績がわかるものはつくられません。「文芸記者の場合は」というか、作家だったとしても事情は変わらないかもしれませんが、しかし作家と記者では住む世界が違います。

 たとえば、「ウルセエ作家」の代名詞とも言える第58回直木賞受賞の野坂昭如さん。中田さんとは、第57回のときに同じ候補に挙がって同じく落とされたお仲間ですが、のちに中田さんは野坂さんとの仕事の思い出を書いています。読むだけで、まあ胃が痛くなります。

 昭和50年/1975年、日本ペンクラブの新理事長に石川達三さんが就きました。その就任の記者会見の際、記者の代表質問を任されたのが中田さんです。このとき石川さんの口から問題発言が飛び出します。「言論・表現の自由には、一歩も譲れない自由と、ある程度譲歩妥協できる自由とがある」うんぬん。これに噛みついたのが、野坂さん世代の人たちで、まもなく「二つの自由論争」が勃発します。

 その渦中に置かれて、中田さんは石川VS.野坂の紙上対決を『読売』でやってもらおうと企んだそうです。ここがもう文芸記者の発想です。

「両者の対決を読売文化面紙上に活字で再現しようと思い、私は石川、野坂氏にその旨の協力を求めた。両氏は原稿を書くことを電話で約束してくれ、原稿手渡しの手順まで済ませ紙面をそのためにあけた。

(引用者中略)

野坂氏との約束は早朝だった。車で駆けつけ玄関に出た家人にその旨を伝えると、朝早くラグビーの練習に出かけたという。そんな筈がないと頑張っても家人では詮方なく、あきらめきれず野坂邸から少し離れた所に車を停めて見守っていた。すると二階の窓からパジャマ姿の野坂氏が大きな背伸びをしているではないか――。結局、野坂氏の原稿が間に合わず紙上対決は幻となり、(引用者注:石川達三に書いてもらった)『會長の歎き』は陽の目を見ずに私の手許に残った。」(『This is読売』平成6年/1994年3月号 中田浩二「文壇随想 素顔の作家たち――石川達三――」より)

 まったく、ひでえな野坂さんのやり方は。中田さん、キレてもおかしくないと思うんですけど(実際はキレたのかもしれませんけど)、そこを堪えて関係を続けなくちゃいけないんですから、大人の世界は大変です。ああ、おれも作家になって我がままに振る舞ってみたいなあ、とか思わなかったのでしょうか、中田さんは。思わなかったんでしょうねえ。

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