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2022年2月13日 (日)

菊池寛(時事新報)。文学の話題は社会的なニュースの一部である。そんな環境で育った人。

20220213

 先週、『東京朝日新聞』の新延修三さんを取り上げました。そのまま、ついでに菊池寛さんのことに触れておきたいと思います。

 いや、「ついで」で触れるような人じゃなかったですね。失礼しました。

 「直木賞を支えた文芸記者」をテーマにするなら、本来、佐佐木茂索さんと、この菊池さんの『時事新報』での記者生活をもっと重点的に語らなきゃいけません。直木賞(と芥川賞)が、どうしてこんなに新聞や文芸記者と相性がいいのか。いまのいままで文芸記者とズブズブなのか。それは、賞をつくったのが、記者上がりの人たちだったからです。

 菊池さんは作家のなかでも有名な部類なので、履歴やエピソードはいくらでも出てきます。くわしくは、そちらを調べてもらえればいいんですが、『時事新報』に入社したのが大正5年/1916年10月。京都帝大を卒業して上京後、友人の成瀬正一さんのツテのなかから紹介されて、記者となります。在社のあいだ、まじめに働きながらポツポツと作品を書いていたところ、例の「中央公論の滝田樗陰(から命を受けた)人力車が家にやってくる」という感激の経験をして、同誌に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」を発表。文壇でも注目され、筆一本での生活に光が見えたのを確認して、『時事新報』を退社しました。それが大正8年/1919年4月、記者生活を送ったのは2年半だった、ということです。

 所属したのは「社会部」ということになっています。菊池さんも、記者時代の回想の多くは、だれからに取材しに会いに行く「訪問記者」としての姿を書いています。ただ、新聞の歴史を見れば、文芸欄も学芸欄も、もとは社会欄から分化したようなものです。

 なにしろ、当時の『時事』社会部長は千葉亀雄さんで、自身、海外文学の研究や文芸評論をしていた人です。菊池さんも文壇の話題を取材したり、記事に書いたりしていた、と言われています。

 新聞のなかでの「文芸」は、もとをたどると社会面の記事やら、三面の雑報から分かれて独立していった。だから社会部が文芸の話題を扱っても不思議じゃない時代があった。……というのは、けっこう見逃せないハナシです。文学を社会的な事件をしたのは、文学賞(とくに戦後の芥川賞)だった、と言われたりしますけど、明治から大正にかけては、文学が社会的なニュースなのは当たり前だった、と言ってもいいからです。

 菊池さんはそんな時代に社会部の記者をしていました。『時事新報目録 文芸篇 大正期』(平成16年/2004年12月・八木書店刊)をまとめた池内輝雄さんの「「時事新報」断章」では、「大正期の編集者・記者」のひとりとして、菊池さんにスポットが当てられています。

「千葉(引用者注:亀雄)によれば、菊池は編集会議で、社会面の一部に短い社会批評を毎日掲載することを提案したという。社会面だけでなく、大正期文芸欄にはコラムに類する短批評が頻繁に載せられ、これが「時事新報」の特色ともなっていく。菊池の提案が実行されたのかもしれない。

また、菊池は「記事の早いのと、要点をぴしりと握む記事の製作にはたしかに類を抜いて居」り、社会面に「利根川紀行」(「利根川の旅」)を書き、「友人として久米さんに対する友情」を貫き、「松岡さんが筆子さんと結婚する記事を思ひ切つて書いた」ともいう。」(『時事新報目録 文芸篇 大正期』所収 池内輝雄「「時事新報」断章」より)

 基本、記事の多くは無署名です。だれが何を書いたのかはわかりません。それでも池内さんは千葉さんや菊池さんの回想から推測して、菊池記者が書いたであろう「文芸に関する記事」を列挙してくれています。助かります。

 たとえば「湯浅君と同意見さ」=永田新警保局長の見た文芸取締(大正5年/1916年10月13日)、「文壇一方の権威漱石氏胃潰瘍にて死す 享年実に五十歳」(同年12月10日)、「漱石氏の葬儀」(同年12月13日)、「神近市子法廷に立つ」(大正6年/1917年2月20日)、「其の日其の日 閨秀文壇唯一の翻訳家―松村みね子夫人」(同年3月10日)、「二青年詩人溺死す 銚子君ヶ浜にて遊泳中に 早稲田大学出身の三富朽葉と今井白葉氏」(同年8月4日)、「夏目漱石氏令嬢の結婚 新郎は漱石門下生なる新進作家松岡譲氏」(大正7年/1918年4月12日)、「松井須磨子縊死す」(大正8年/1919年1月6日)……などなどです。

 社会部記者でありながら、ある種、文芸記者の役目も果たしていた、といっていいでしょう。

 どうもその出自が、その後の菊池さんの言動からはチラチラうかがえます。作家となって『文藝春秋』をつくったあとも、新聞各紙が自分や雑誌のことをどう取り上げるか、やたらと気にしつづけたことなどは、そのひとつです。

          ○

 菊池寛。明治21年/1888年12月26日生まれ、昭和23年/1948年3月6日没。プロフィールはざっくり省略しますが、大正8年/1919年に『時事新報』の記者をやめてから4年弱で『文藝春秋』を創刊。直木賞の創設は、雑誌の創刊から12年後のことになります。

 作家として売れて、大金を手に入れて、自分の雑誌をつくって、いろんな企画を打ち出すうちに文学賞づくりに手を出す。その間も、菊池さんの人生はつねに新聞とともにありました。小説「真珠夫人」が大当たりしたのも『大阪毎日』『東京日日』があったればこそですし、『大毎』や『報知』の客員になって、より新聞に近い書き手として活動したりもします。

 新聞が何をどう扱うのか、どう扱われるのか。気にせずにはいられないぐらいの近い距離に、ずっと菊池さんはいた、と言ってもいいです。

 先週の新延さんのエントリーでも少し触れました。きみんところの新聞は、おれのこと犯罪者扱いしたね、なのに小説の原稿は頼みにくるなんて、おかしいよ、と新延さんに不満を述べたというエピソードです。そのころはもう、新聞社内の機構上、社会面と学芸面は別モノになっていましたから、新延さんもそのように言い返したそうなんですが、いや、ひょっとすると菊池さんの頭には「そうはいったって、事件を扱う社会部も、文芸を扱う学芸部も、同じグループじゃないか」という前提があったのかもしれません。

 菊池さんが、作家でありながらジャーナリスト的な発想も優れていた、とはたぶんよく言われているところです。それが記者生活で育まれたのか、もともと持っていた才能なのか、よくわかりませんけど、ご本人も「今までぢつと新聞記者にゐたら社会部長ぐらゐにはなつてゐたらう」(『雄弁』大正11年/1922年5月号 岡栄一郎「苦労人の菊池寛君」)と言っています。世間のできごとから事件性を切り出して多くの人たちにそれを伝える、記者としての脳みそは、菊池さんにも多分にあったのでしょう。

 しかも、相棒の佐佐木茂索さんもこれまた、文芸記者として『時事』文芸欄の一時代を築き上げた人です。のちに『文藝春秋』の専務になっても、記者たちに対する理解を十分に持ちつづけ……というか、佐佐木さんの場合は、記者に仲間意識すら共有していたに違いありません。

 こうしたなかで二人がつくった文学賞が、もとより文芸記者の興味に沿っていたことは、自然といえば自然とも言えます。

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