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2022年2月の4件の記事

2022年2月27日 (日)

千葉亀雄(時事新報、など)。新聞人と文芸人を両立させた社会部長。

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 直木賞はもともと雑誌ジャーナリズムの発想でできています。言い換えると、菊池寛さんや佐佐木茂索さんのメディア感覚が出発点、というハナシになるんでしょうけど、二人に共通しているのは、新聞ジャーナリズムの世界を体験していることです。そのためか、直木賞のまわりには、大正期の新聞文芸やら文芸記者の名前やらがチラチラと目につきます。

 たとえば、その代表格が千葉亀雄さんです。

 大衆文芸における千葉さんの功績は――ということは、おのずと直木賞における千葉さんの功績とも重なりますが――あまりに言わずもがなすぎて、いちいち繰り返す気にもなれません。「大衆文芸」というワケのわからない文学運動を、定期的な懸賞募集をつづけることで、ひとつのかたちある筋道を立て、その入選者が職業作家としてお金を稼げるに至る、という意味での新人発掘を実現させた。まあ、偉人中の偉人です。

 新聞の世界においても、明治後半から大正にかけて、いくつかの新聞を転々としながらグイグイと活躍の足跡を残しました。直木賞に直結しているのは、『東日・大毎』時代の、いわば大衆文芸勃興期の業績ですが、そこからさかのぼって見ても、千葉さんの仕事ぶりは直木賞に通じるものが少なくありません。

 『東日・大毎』に来るまえ、千葉さんが勤めていたのは『読売新聞』です。大正8年/1919年、もうそろそろおれも筆一本でやっていこうかなあ、と思っていたところ、大庭柯公さんに乞われて『時事新報』から『読売』に移籍。社会部長でありながら文芸部長兼任という役目を担って大正中期・後期の文芸界を、新聞というマスコミで取り扱います。

 この時期の文芸で、ひとつ大きな波があったとすると、職業化していく作家たち、という流れが挙げられます。文学は芸術である。とともに売れる商品でもある。大衆受けする文学、というやつを出版人も新聞人も意識せざるをえなくなった、そんな時代です。

 ここで『読売』の文芸欄を任された男一匹、千葉亀雄。どんな手を打ったんでしょうか。

 商品価値からすれば、名の知れた大家やスターに書かせるのが常道だろうね。だけど、おれは何と言われようと無名の書き手を使うんだ、と頑張ったというのです。

「或る新聞の文藝欄を受持つて編輯して居た頃の私は、訳があつてあまり知名でない人々の論文や感想を度々掲げた。無名な筆者なら原稿料が安くて済み、それだけ幹部の顔を好くされるなんて、そんな欲得づくの遠慮でも何でも無かつた。

(引用者中略)

新聞の文藝欄は投書欄ぢやないんだぞ、それも解つてゐる。売り物には花をかざれた。大衆を呼び込むには中味より容れ物が肝心、無名氏で文藝欄を飾るなどはおよそ現代商品新聞製作術とかけ離れた骨頂だ! それ位が解らぬ私ではない。が、その二つの領域を侵さぬ範囲で、未知名氏の発見を心掛けた私の味噌は、それでも、あまりに素人だつたかな。たとへ、素人であらうと、私は未だに、その信念を撤回する気にはならない。

(引用者中略)

発見の出来ないのは、熱意と方法の欠陥による。」(昭和10年/1935年9月・岡倉書房刊、千葉亀雄・著『ペン縦横』所収「既成と未知名作家」より)

 最後の一文が利いていますね。これぞという書き手がなかなか現われないだの、名もないやつに書かせたって商売にならんだの、不平不満は誰にでも言えます。おそらく大正期もたくさんいたでしょう。そういう連中に、ズバッと言い放つこの一文。しびれます。

 けっきょく『読売』のあとも、千葉さんは『東京日日』の顧問となって、『サンデー毎日』史上もっとも光り輝いた企画「大衆文芸懸賞」の選を引き受けます。そこで見出された作家は数知れず。熱意と方法の勝利、と言うほかありません。

 ちなみに、昭和9年/1934年に直木三十五さんが亡くなって、この年、直木賞の企画ができあがりますが、さすがに千葉さんの関与はなかったと思います。始めた頃は、もうひとつの文学賞のかげに隠れたまま、まじめな文学者たちからは黙殺され、言うほど「売り物」にはなりませんでした。だけど、既成のものを嫌い、手あかのついていない書き手を発掘しようという方向が間違いではなかった、と創設から年を経るごとに明らかになっていきます。「熱意」はどうかは知りませんけど、文学賞を利用するという「方法」をとったのは、文藝春秋社の手柄です。

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2022年2月20日 (日)

中田浩二(読売新聞)。同時期に候補になった作家たちと、のちに一緒に仕事した文芸記者。

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 歴史的にみて直木賞は、候補のなかにプロ作家とアマチュア作家が入り乱れていた頃がいちばん面白い。というのは、完全にワタクシの主観です。

 そもそも近年では、すでに何作も(何十作も)商業作品を書いている純プロ・半プロ作家ばかりがズラッと候補に並びます。そこから選ばれるだけなんちゅう、泡の抜けたような選考を見て、いったい何が面白いんでしょうか。

 いや、それはそれでムチャクチャ面白いんですけど、そこに2人、3人と、手あかの付いていないピカピカの無名作家が混じっていれば、グッと直木賞も引き締まって最高なのになあ、と惜しまれます。もはやそんな時代が戻ってくることはないでしょう。すみません、ないものねだりの戯れ言です。

 こうなると、最高の直木賞を感じるには昔を掘り起こすしかありません。

 第57回(昭和42年/1967年・上半期)などは、候補者の名前を見るだけで、有名人から無名人までよりどりみどり。一人ひとりの作家活動を調べていくだけでも、一生かかるんじゃないか、っていうぐらいに豊潤です。

 そのなかに「ホタルの里」(『三田文学』昭和42年/1967年1月号)で候補になった中田浩作さんが混ざっています。これが初めての候補で、以後何冊か本を出しましたが、けっきょく小説家としてはプロになれなかった一人です。

 「ホタルの里」は、宮城県の北部にある辺地分校を舞台にしています。語り手は、将来の昇給のためにあえて辺地校への赴任を望んだ30歳すぎの教師、久我敬一。まわりに山と田園しかないド田舎の学校には、たった一人、老教師の津田林平が勤めています。津田は長年、辺地ばかりを渡り歩いてきた教師で、いまはホタルの人工孵化の研究に熱心に取り組んでいるのですが、いっしょに住んでいる妻のマサの様子や、仙台の大学に通うひとり娘英子の言葉などから、次第に津田をめぐる背景が見えてきて……というおハナシです。

 直木賞の選考では、石坂洋次郎さんと源氏鶏太さんがけっこう高評価をくだしたようです。とくにこの回に委員になったばかりの石坂さんが、早くもその自由奔放さを発揮しています。

「私は今期からはじめて直木賞の審査員を仰せつかった。私はほかの文学賞の審査員もやっているが、直木賞の予選通過作品が手もとにまわって来て、ちょっと面くらったのは、量と質の関係である。具体的に言うと、単行本が三冊、雑誌の切り抜きが六部、計九篇で候補作品として送られて来たのであるが、そうなると、どうしても量にこだわる気持になりやすい。少し迷ったあげく、量にこだわらず、読んで自分がひかれた作品をひろい上げることにした。じっさいの審査会に出席してみると各審査員とも、質本位で作品を選んでいることが分ってホッとした。

さて、私は九篇の候補作品の中から、十点が満点で、中田浩作「ホタルの里」(三田文学一月号)、平井信作の「生柿吾三郎の税金闘争」(現代人・12)生島治郎「追いつめる」(光文社刊)の三篇に八点をつけ、この中から審査で選んでもらいたい気持で出席した。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号 石坂洋次郎「はじめて審査に参加して」より)

 生島治郎さんの『追いつめる』のどこが気に入ったのか、くわしくはわからないんですけど、いっしょに挙げた中田さんと平井さんは、明らかに石坂さん本人と縁があります。中田さんは同じ慶應の出身で、「ホタルの里」の載った『三田文学』には、石坂さんも「私のひとり言(VI) 菊池寛賞をいただく」を寄稿していて親近の情があったでしょうし、平井さんは同郷青森の人。自分に近しい人や、青森に関係する人、学校教師を描いた作品が候補になると、やたらとエコひいきする、というのがのちのち明らかになる石坂さん流の「情実だらけの直木賞選考」です。ここは思わず笑っちゃうところでしょう。

 その中田浩作さんは、本名・中田浩二。慶應義塾大学の国文科を卒業して、読売新聞に入ってまもない現役の記者でした。世代としては、以前取り上げた高野昭さんより少し後に当たり、ちょうどこれから文化部の記者として、連載小説を受け持ったり企画を立てたりする、そのための修業時代、といった頃でしょう。ここで本人が直木賞なんかとっていたら、大きく運命も変わっていたはずですが、候補に挙がっただけで十分だ、と思ったのか、中田さんはプロ作家になるようなそぶりを見せず、文芸記者の道を選びます。

 中田さんが候補になった前後の直木賞は、その歴史に華やかな光を当てたプロの作家たちがぞくぞくと受賞した頃です。生島さんは当然のこと、第55回の立原正秋さん、第56回の五木寛之さん、第58回の野坂昭如さんと三好徹さん。名前を並べるだけでもわかります。血気盛んなウルセエ連中ばっかりです。

 こういう人たちと、作家と記者の関係を崩さずに付き合いつづけて、新聞の文芸を上手に盛り立てたのですから、中田さんの苦労がしのばれます。

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2022年2月13日 (日)

菊池寛(時事新報)。文学の話題は社会的なニュースの一部である。そんな環境で育った人。

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 先週、『東京朝日新聞』の新延修三さんを取り上げました。そのまま、ついでに菊池寛さんのことに触れておきたいと思います。

 いや、「ついで」で触れるような人じゃなかったですね。失礼しました。

 「直木賞を支えた文芸記者」をテーマにするなら、本来、佐佐木茂索さんと、この菊池さんの『時事新報』での記者生活をもっと重点的に語らなきゃいけません。直木賞(と芥川賞)が、どうしてこんなに新聞や文芸記者と相性がいいのか。いまのいままで文芸記者とズブズブなのか。それは、賞をつくったのが、記者上がりの人たちだったからです。

 菊池さんは作家のなかでも有名な部類なので、履歴やエピソードはいくらでも出てきます。くわしくは、そちらを調べてもらえればいいんですが、『時事新報』に入社したのが大正5年/1916年10月。京都帝大を卒業して上京後、友人の成瀬正一さんのツテのなかから紹介されて、記者となります。在社のあいだ、まじめに働きながらポツポツと作品を書いていたところ、例の「中央公論の滝田樗陰(から命を受けた)人力車が家にやってくる」という感激の経験をして、同誌に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」を発表。文壇でも注目され、筆一本での生活に光が見えたのを確認して、『時事新報』を退社しました。それが大正8年/1919年4月、記者生活を送ったのは2年半だった、ということです。

 所属したのは「社会部」ということになっています。菊池さんも、記者時代の回想の多くは、だれからに取材しに会いに行く「訪問記者」としての姿を書いています。ただ、新聞の歴史を見れば、文芸欄も学芸欄も、もとは社会欄から分化したようなものです。

 なにしろ、当時の『時事』社会部長は千葉亀雄さんで、自身、海外文学の研究や文芸評論をしていた人です。菊池さんも文壇の話題を取材したり、記事に書いたりしていた、と言われています。

 新聞のなかでの「文芸」は、もとをたどると社会面の記事やら、三面の雑報から分かれて独立していった。だから社会部が文芸の話題を扱っても不思議じゃない時代があった。……というのは、けっこう見逃せないハナシです。文学を社会的な事件をしたのは、文学賞(とくに戦後の芥川賞)だった、と言われたりしますけど、明治から大正にかけては、文学が社会的なニュースなのは当たり前だった、と言ってもいいからです。

 菊池さんはそんな時代に社会部の記者をしていました。『時事新報目録 文芸篇 大正期』(平成16年/2004年12月・八木書店刊)をまとめた池内輝雄さんの「「時事新報」断章」では、「大正期の編集者・記者」のひとりとして、菊池さんにスポットが当てられています。

「千葉(引用者注:亀雄)によれば、菊池は編集会議で、社会面の一部に短い社会批評を毎日掲載することを提案したという。社会面だけでなく、大正期文芸欄にはコラムに類する短批評が頻繁に載せられ、これが「時事新報」の特色ともなっていく。菊池の提案が実行されたのかもしれない。

また、菊池は「記事の早いのと、要点をぴしりと握む記事の製作にはたしかに類を抜いて居」り、社会面に「利根川紀行」(「利根川の旅」)を書き、「友人として久米さんに対する友情」を貫き、「松岡さんが筆子さんと結婚する記事を思ひ切つて書いた」ともいう。」(『時事新報目録 文芸篇 大正期』所収 池内輝雄「「時事新報」断章」より)

 基本、記事の多くは無署名です。だれが何を書いたのかはわかりません。それでも池内さんは千葉さんや菊池さんの回想から推測して、菊池記者が書いたであろう「文芸に関する記事」を列挙してくれています。助かります。

 たとえば「湯浅君と同意見さ」=永田新警保局長の見た文芸取締(大正5年/1916年10月13日)、「文壇一方の権威漱石氏胃潰瘍にて死す 享年実に五十歳」(同年12月10日)、「漱石氏の葬儀」(同年12月13日)、「神近市子法廷に立つ」(大正6年/1917年2月20日)、「其の日其の日 閨秀文壇唯一の翻訳家―松村みね子夫人」(同年3月10日)、「二青年詩人溺死す 銚子君ヶ浜にて遊泳中に 早稲田大学出身の三富朽葉と今井白葉氏」(同年8月4日)、「夏目漱石氏令嬢の結婚 新郎は漱石門下生なる新進作家松岡譲氏」(大正7年/1918年4月12日)、「松井須磨子縊死す」(大正8年/1919年1月6日)……などなどです。

 社会部記者でありながら、ある種、文芸記者の役目も果たしていた、といっていいでしょう。

 どうもその出自が、その後の菊池さんの言動からはチラチラうかがえます。作家となって『文藝春秋』をつくったあとも、新聞各紙が自分や雑誌のことをどう取り上げるか、やたらと気にしつづけたことなどは、そのひとつです。

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2022年2月 6日 (日)

新延修三(東京朝日新聞)。入社6年、直木三十五の魅力にハマッた男。

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 昭和8年/1933年ごろ、直木三十五さんはぜえぜえあえいでいました。体調不良です。人気作家のまわりには編集者が寄ってきて、鼻の下を伸ばしながらおべっかを使う、というのはステレオタイプな文壇像ですけど、直木さんの場合、そこに何人かの新聞記者も加わります。

 そんな文芸記者として、うちのブログでは、笹本寅さん(時事新報)片岡貢さん(報知新聞)河辺確治さん(読売新聞)の3人について触れました。今週は、彼らと徒党を組んで若き日の情熱を燃やしていた4人目の記者、『東京朝日新聞』の新延修三さんを取り上げます。

 新延さんの特徴とは何か。先に挙げた3人と大きく違うのはどこか。それは、途中で記者をやめずに、退職後、自分が出会った作家のことを回想のかたちで書き残したことです。

 その一冊に『朝日新聞の作家たち』(昭和48年/1978年10月・波書房刊、医事薬業新報社発売)があります。交流の深かった人からそこまででもなかった人まで、64人の作家の姿を、ちょっとした私的なエピソードをまじえながら綴られたものです。新延さん自身が昭和3年/1928年の入社組でもあり、古い人ではあるので、取り上げられている作家も「直木賞ができる以前から書いていた人」が多く、直木賞の受賞・落選にまつわる話題はあまり出てきません。

 となると、いちばんの注目は、直木三十五さんとのエピソードでしょう。

 「直木三十五は、僕の好きな作家の一人だった。」から始まる新延さんの回想は、直木さんに対する敬愛の情がたしかに滲んでいます。ただ、直木さんが死んで40年近く経っていますし、冷静に思い出を語っている反面、なんだか淡々とした筆致だな、という感は否めません。そりゃそうです。昭和9年/1934年当時、新延さんはまだ入社6年目の20代後半で、それから戦争があり、戦後の動乱があり、たくさんの作家と出会って、これを書いている新延さんはもう70歳をすぎています。淡々もするでしょう。

 ということで、ここでは直木さんの人柄に影響されて、まだまだ若かった20代の頃の、新延さんの文章を参照しておきます。書かれたエピソードは、作家と担当記者という間柄を超えた付き合いがあったこと、いやがる直木さんを説き伏せて病院を探して入院させたのが新延さんだったこと、直木さんの入院中に、新延さん自身の娘、千鶴子さんがちょうど同じ結核性網膜炎で入院し、4歳で亡くなったこと、などなど、おおむね同じなんですが、やはり熱量が違います。

「僕からしてみれば、直木さんの「風格」に、「風格ある文学」に、急速度に傾いて行き、原稿の交渉、取引きもさることながら、それを口実に、ヂカに、直木さんに触れる機会を、一回でも多く、そしてまた、一時間でも、永くと望んだことである。商売柄、数多くの文人諸氏に接する僕ではあるが、かういふことは正直のところ、菊池寛氏の外は、直木さんあるのみである。そして幸ひ、直木さんの知遇を辱うしたいと、僕は思うてゐる。」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 新延修三「直木さんの弱音」より)

 この思い入れの強さたるや。新聞報道に携わるものとして、そこまで一人の作家に傾倒するか、というぐらいの気迫があります。まあ、どの作家にも風見鶏のようにイイ顔を向けるような八方美人の記者よりは、こういう感じで気の合った人間にとことん入れ込む人のほうが、直木さんの気に入ったのかもしれません。

 それで、ここで名前の出てくる菊池寛さんも、『朝日新聞の作家たち』では一章割かれています。読んでみると、こちらも若武者ニイノベ、流行作家だから何なんだ、といった感じで果敢に作家にぶつかっていく遠慮のなさが、菊池さんにも愛されたらしいです。うちの近所に空き家ができた、足りないならおれが少し出してやるからそこに越してこないか、と誘いも受けたとか。相当、気に入られています。

 あるいは、菊池さんが賭け麻雀のことで新聞の社会面に取り上げられたときのことも、新延さんは回想しています。それこそ40年もまえのことなので、新延さんの記憶もどこまで正確なのか、かなり疑問の残るところではありますが、菊池さんが「おたくの朝日新聞はまったくけしからん、小説を書かせておきながら、あんなことでおれを罪人のように書き立てるんだから」と猛烈に怒った……という部分は、たしかに菊池さん自身もそんなことを書いていますし、じっさいに新延さんも経験したんでしょう。

 しかし、残念ながら、そこに直木賞・芥川賞の第一回発表が『朝日』だけ載らなかった、という直木賞七不思議のひとつについては言及がありません。昭和10年/1935年、新延さんは学芸部だったはずで、しかも菊池さんとはこれほど物を言い合える仲だったのに。どうして他の新聞は全社掲載したのに『朝日』だけ載せなかったのか。……謎です。

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