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2022年1月 2日 (日)

頼尊清隆(東京新聞)。直木賞授賞式の席で、自身の激励会の構想が持ち上がる。

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 2022年、最初に取り上げる文芸記者は、やはり派手な人でいかなくっちゃな。そう思って、この方にしました。『東京新聞』の頼尊清隆さんです。

 どこが派手なんだ! と、ひとりでボケてひとりでツッコむパターンなんですけど、戦後の文壇を調べて名前の出てくる記者といえば、だいたい相場は決まっています。その代表的なひとりが頼尊さんです。いわゆるテッパンというやつです。

 頼尊さんの回想録『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』(昭和56年/1981年6月・冬樹社刊)には、直木賞のことはほとんど出てきません。芥川賞も同様です。そういう切った張ったの賞ごとが省いて書かれているからか、全編どこか悠々とした空気がただよっているんですが、多少なりと直木賞に関係しそうな作家では、吉川英治、梅崎春生、井伏鱒二、木山捷平などが出てきます。まったく、ドイツもコイツも悠々としています。

 「悠々」というのは、適切な表現じゃないかもしれません。だけど、たとえば頼尊さんの描く梅崎春生さんは、無理して前に出ようとせずに、うしろにじっと控えることを徳としています。直木賞のイメージにありがちな「流行作家へまっしぐら」とは、相当ズレています。

「梅崎君は、いつも“後列精神”というものを説いていた。つまり、教練などで並ぶときにはういつでもさっと後列にすべりこむのがいい、人の前に出てはいけない、というのである。それは彼のはにかみや気の弱さからの発想ともいえる。

それに、「僕らうさぎ年生まれの男は気が弱くって損をする。“うさぎの会”を作って、お互いに励ましあうようにしないか」という話を、飲んでいるときに僕に持ちかけてきたのも彼である。」(『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』より)

 なるほど、うさぎ年生まれの男は気が弱いのか。……と思って、直木賞の受賞者で卯年生まれの男性を並べてみました。

 立野信之、今日出海、戸板康二(梅崎さんとは同年生まれで「うさぎの会」メンバー)、結城昌治、城山三郎、藤沢周平、葉室麟、浅田次郎、朱川湊人、重松清、京極夏彦、池井戸潤、道尾秀介……。うーん、何となく言われたらそうかもしれないな、という気はします。損をしているかどうかはわかりません。ちなみに、直木三十五さんも明治24年/1891年、卯年の生まれ。本来、この干支こそ十二のなかで最も直木賞っぽい、と言ってもおかしくないでしょう。

 とまあ、梅崎さん得意の戯れ言はさておいて、頼尊さんのことに戻りますが、この方と縁の深い直木賞候補者といって、まず青山光二さんは外せません。

 頼尊さんは京都の三高、そして東大と、青山さんよりも二年後輩の同窓生。そのころから親しい間柄でしたが、青山さんに言わせれば、自分の作家人生が変わるような一件に加担したのが頼尊さんだったらしいです。

 戦後知り合った花田清輝さんと話しているうちに、丹羽文雄ひきいる「早稲田派」と呼ばれた連中の仕事ぶりが、いかに情けないものか、ということで盛り上がった青山さん。そうだそうだ、青山さん、そういう批判文を書きなさいよ、と花田さんに言われて、さあどうしようかと思っていたところ、ふとその話を頼尊さんに洩らしてしまいます。

 そこで、文芸記者のアンテナがピピンと働いたらしく、頼尊さんはぜひ『東京新聞』に早稲田派批判、書いてくれよ、と依頼。いまの丹羽さんは天下の大将だ、丹羽批判をしたらまわりの連中が黙っちゃいないだろうから、腹をくくって書いてね、と派手な論争が起きることを期待して、頼尊さん舌なめずりした(らしい)ということです。

 青山さんは「ワセダ派文学を批判す」(『東京新聞』昭和22年/1947年10月7日、8日)と題する、完全に喧嘩を売るつもりの批評を書き、望みどおりに早稲田派の北條誠さんが反論を書いて、バチバチッと火花が散ります。「物議をかもしたのも頼尊君と謀議の上のこと」(青山光二「懐かしき記者二人」、平成12年/2000年7月・内幸町物語刊行会刊『内幸町物語――旧東京新聞の記録』所収)だったとも言いますが、また別の場所ではこうも振り返りました。

「東京新聞に評論を書いた後、青山は、丹羽をはじめ早稲田派の作家としばらく絶交状態になったという。

「作家人生を変えるような出来事でしたね。丹羽さんは『わしの跡継ぎは青山光二だ』と周辺に漏らしていたようです。後になってから頼尊から聞きました。実際、そう言っていたと思います。そういう間柄でしたから」」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊、大川渉・著『文士風狂録――青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 青山さんが初めて直木賞の候補になる第35回(昭和31年/1956年・上半期)より、ずっと以前のハナシです。文芸記者と親しいことで、作家の人生もいろいろ変わる――それを体現してみせたのが青山さんだった、とも言えるでしょう。

          ○

 頼尊清隆(よりたか・きよたか)。大正4年/1915年5月14日生まれ、平成6年/1994年9月2日没。大阪に生まれ、三高から東大独逸文学科、同大学院へと進み、昭和15年/1940年に『都新聞』に入社。文化部に配属され、同紙が『東京新聞』となってからもずっと長く文壇、文芸を担当、「名物記者」の名をほしいままにし、昭和46年/1971年に退職した後も東京新聞編集局文化部に勤め、まわりから愛される文壇の生き字引として人生を送りました。

 愛される記者になるには「酒飲み」であることも、おそらく重要な条件です。作家や評論家がたむろする酒場やバーにふらふらと顔を出し、安酒をかっくらいながらいっしょに気炎を上げる。酒の大好きな頼尊さんは、そういう「いかにも文芸記者」のスタイルを難なくこなして、何かいつもそこにいる定位置に座りつづけます。

 そして、頼尊さんの愛され力ったらハンパないな、と思うのは、記者生活20年を記念してヨリタカ君の労をねぎらう会を開こうじゃないか、と文壇の連中が寄ってたかって声を合わせてパーティーを開いた、というのを知ったからです。

 ちなみに、ここには直木賞も多少関わっています。パーティー開催の言い出しっぺ、文春の池島信平さんが、これを思いついたのが、直木賞授賞式の席上だった(らしい)からです。

「一年以上も前に、たしか芥川賞、直木賞授賞式の席上だったが、池島さんと、カクテルグラスかなんかを手にしながら話していたら、池島さんが“よりたか君の学芸記者ももう二十年になるのじゃない?一度君の会をやろうじゃないか”という。(引用者中略)そういうことを思いつくと池島さんは性急で、たまたま傍に居られた吉川英治氏に“どうです、こんな会は面白いでしょう?”と例の調子でニコニコしながら話しかけ、吉川さんは吉川さんで例のニコニコした顔で、“うん、よりたか君は一風変った記者だからね、僕んとこへ来る記者では変っているね”とか何とか言って居られる。」(『日本』昭和36年/1961年7月号 頼尊清隆「文芸記者こそわが生命」より)

 それで井伏鱒二さんも世話人に名乗り出て、司会は田辺茂一さんが引き受けて、室生犀星・朝子おやこ、尾崎一雄、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一などなど、親しい文壇人が集まり、東京・中野の「ほととぎす」で文芸記者二十年戦士を激励する会が開かれます。

 このエピソードの核は、池島信平さんが直木賞(プラスもうひとつの賞)の授賞式で、頼尊さんの顔を見て思いついた、というところでしょう。授賞式は、受賞した作家をお祝いするのが主な目的であって、主役は常に受賞者です。そこに出席して毎回毎回、賞を取材し、世に伝えてきた記者は、絶対に主役にはなれません。主役にはなれない、だけどその仕事は賞にとっては重要だ、と池島さんの心のうちに常にあったからこそ、頼尊さん慰労会につながったに違いありません。

 まったくです。はたから見ていても、そう思います。主催の日本文学振興会や、そのバックにいる文藝春秋はおいとくとして、直木賞が長くつづいてきたのは、これを報道して世間の目を引かせてきた文芸ジャーナリスト、とくに新聞の文芸記者の働きがあったからです。池島さんが頼尊さんのために会を開いたのもうなずけますし、文芸記者たちとともに歩んできた直木賞、を印象づける一件だと思います。

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