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2022年1月30日 (日)

木野工(北海タイムス)。人が受賞したときの予定稿を書き、自分もまた予定稿を書かれた候補者。

20220130

 直木賞を調べていくと、多いようで少ないのが、文芸記者出身の候補者です。

 いやまあ、少ないのが当たり前だろ、という気はします。いまや文芸担当の新聞記者が作家になる、という例はほとんどありませんし、そういうイメージが活きていたのは、おそらく昭和の前半、昭和30年代ごろまでじゃないでしょうか。その後、経済成長にひっぱられて出版文化も大繁栄、文筆とは無縁な職業の人たちにも作家デビューのルートができていきます。いっぽうでは新聞社の「おれたち一流企業だぜ」感もぐんぐんと伸びていき、創作とは別の興味をもつ学生たちが大量に新聞社に採用されるようになった結果、文芸記者から作家になる道はみるみる涸れ果てた、というわけです。

 なので、直木賞の候補者で文芸記者の経験者を探すと、どうしても昔の人になってしまいます。今回の木野工さんも、大正9年/1920年生まれ。正真正銘、昔の人です。

 昔の人なので(……ってクドいですね、すみません)、大衆文芸を書いてやろう、なんて気はほとんどなかったと思います。親から泣く泣く頼まれて、大学は工学専攻に進みましたが、ふつふつと湧き上がる文学熱が抑えられず、夏目漱石とか寺田寅彦、芥川龍之介あたりを読み漁る、カンゼンなるキモい文学青年になってしまい、大学一年のときに短編「雪国」を三笠書房の『文庫』懸賞小説に応募して、入選したりします。戦後になって本格的に創作に打ち込みはじめ、新聞記者として働くかたわら、昭和24年/1949年に旭川の同人誌『冬濤』に参加、昭和27年/1952年に同誌の編集責任者となってからは、世の「文芸同人雑誌拡張時代」に乗って、がぜん注目される存在となった……ということは、以前『冬濤』と直木賞のことを書いたエントリーでも触れました。

 木野さんが初めて芥川賞の候補になったのが第30回(昭和28年/1953年・下半期)、いわゆる石原慎太郎ショックがやってくる前の時代から、第36回(昭和31年/1956年・下半期)、第44回(昭和35年/1960年・下半期)、第46回(昭和36年/1961年・下半期)とコンスタントに候補になったあと、第47回(昭和37年/1962年・上半期)ではなぜか突然、直木賞のほうの候補に入り、第66回(昭和46年/1971年・下半期)までおよそ20年弱。両賞を見る世間の目が、急激に右肩あがりでキラッキラ光りつづけたこの時代に、木野さんは「万年候補」をやりつづけました。

 と同時に貴重なのは、木野さんがこの二つの賞を報道する立場でもあったことです。

 直木賞のまわりを見ていて感じるのは、賞の場面で浮かれているのは、おおよそ出版社とか本屋の人です。一般の読書好きな人たちも、そっちに入るかもしれません(ワタクシもそうです)。対して冷静なのは、主催している人たちや、候補になった(あるいは受賞した)作家の人たち。そして、新聞を中心とする記者たちです。

 しかも記者たちは、冷静な顔をして盛り上げに加担しようとしています。自分は姿を見せずに、淡々と取材して、世の中を踊らせる。傍から見ていると、やっぱ彼らがいちばん怖いです。

 木野さんは第66回の直木賞で候補になって落ちたとき、自身の働く『北海タイムス』の連載エッセイで、そのことに触れました。ジャーナリストとして文芸を記事にすることもある人間が、注目される対象の側にまわっての心境を書いています。以下は、木野さんが「紙の裏」で芥川賞の候補になった3度目のときのことだそうです。

「ほかの賞には事後通知だけなのに、主催者の商略が実に巧みなため、ジャーナリズムがこの両賞だけは新聞の社会面(本来は学芸、文化などの面にほんの小さなニュースとして載るべきものなのだろうが)に相当のスペースをさき、写真もつく。だから、予定記事の事前取材に各社から手紙が来たり、電話が来たり、学芸記者の来訪を受けたりもする。さらにラジオが取材に来る。テレビは『もし、きまったら』と出演時間と番組の打ち合わせまでしに来てくれる。これで平然としていられたら余程の大人物である。」(平成6年/1994年10月・南風社刊、木野工・著『東京風信』所収「『失神の告白』」より)

 これが落ちて、それからあとの機会ではあまり胸さわぎも起きず、選考会の当日は麻雀を打ちながら悠々と待っていた、と続けています。

 木野さんが他の候補と違うのは、別の回では、自分が候補者を取材して、相手の感情を波立たせる身でもあったことでしょう。

「新喜楽という料亭の記者だまりにも行ったことがあるし、私自身が沢田誠一氏の時など予定稿をすべて用意した。また、総選挙では開票前にセンセイ諸公にはすべてバンザイの写真と『当選の抱負』なども書かせたりした。自分でそんなことをやっていても、『紙の裏』の時は『失神』した。どうもオマツリ化したこの両賞の季節、健康には甚だよろしくない。」(同上)

 甚だよろしくないのなら、やめればいいのに。けっきょくこうして流してしまうところが、長年記者としておマンマを食ってきた木野さんの限界かもしれません。いや、やめればいいとわかっているけど、心情的に悪の道から引き返せない、人間のもつ哀しみが表れている、とも読み取れます。

 すべて世のなかのことは、論理的に白黒をつけて動くものなど何もない。直木賞のまわりで、候補者たちに過剰な負担を強いる報道合戦もまた、だれかが候補中の取材を苦にして自殺するとか、そういうオオゴトにならないと、このままズルズル続いていくんでしょう。候補者と取材記者、両方を経験した木野さんがやめられなかったことです。この麻薬を絶つのは、なかなか難しいのだな、と思います。

          ○

 木野工(きの・たくみ)。大正9年/1920年6月12日(戸籍上は15日)生まれ、平成20年/2008年8月3日没。旭川中学、北海道大学工学部と進み、昭和18年/1943年海軍予備学生として横須賀海兵団に入団。占守島への派遣を経て内地を転属するうちに戦争が終わります。昭和22年/1947年、旭川で田中秋声さんが声をあげた『北海日日新聞』創刊に参加したところから、新聞記者畑を歩きはじめ、昭和32年/1957年同紙の合併にともなって『北海タイムス』にそのまま在籍。文化部長をまかされたり、東京総局に異動になったり、同紙の文化面にびっちり足跡を残します。

 ジャーナリストがみなそうなのか、よくわかりませんが、木野さんの文章からにじみ出るのは、「おれは絶対に浮わつかないぜ」という強固な姿勢です。物事はおしなべて俯瞰する。これはさっき挙げた「『失神の告白』」というエッセイの冒頭に、直木賞・芥川賞の話題を書くにあたってわざわざ「文学、というよりは文壇について興味のない方にはどうでもいいことなのだが、」と書いてしまうところにも、よく表われています。

 そうなんですよね。直木賞を一歩引いて見てみれば、世間の9割以上は、べつにそんなものに関心はありません。

 ほとんどの人が関心がない。そこで小説を書いていたら、たまさか候補に挙げられてしまうし、新聞で働いていたら記事にしなきゃいけない。これらを実体験としてくぐり抜けながら、記者をやりつづけたのが木野工さんという人です。

 北海道新聞文学賞(昭和46年/1971年度)を受けたときのエッセイなどは、文学賞がもつ異様な性質を見事に描写していて、思わず笑ってしまいました。

「私にとってはまことに心外な、と言わねばならぬのだが、折角、初めて賞と名のつくものを貰ったのに、その作品、つまり『襤褸―らんる―』を是非読みたいと言って下さる方がほとんどいない。(引用者中略)実をいうと文学などに縁のないひと、文学など道楽者の閑文学と日頃はまともな文学作品などにほとんど親しんでいないひとほど、どうもお祝いがオーバーで、私を大いに狼狽させ照れさせた。」(『新聞研究』昭和46年/1971年12月号 木野工「北海道新聞文学賞を受けて」より)

 おめでとう直木賞受賞、とたとえばどこかの地方の役所だったり、学校だったりが、仰々しく垂れ幕を飾るニュースなどを最近では目にすることがあります。お祝いがオーバーな人ほど云々……というのは、木野さんの頃から半世紀たってもまるで変わっていないみたいです。

 正直、直木賞の候補になった「怪談」も「襤褸」も、そんなに面白い小説ではないんですが、木野さんのたどった記者人生と、そこでめぐり会った文学賞に対する実感のある感想は、やはり面白いです。

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