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2022年1月 9日 (日)

松田ふみ子(毎日新聞)。困っている人がいたら、手を差し伸べずにはいられない人。

20220109

 もっと詳しく調べたいなあ、と思いながら、手のつかない作家がいます。どんどん増えていきます。堤千代さんもそのひとりです。第11回(昭和15年/1940年・上半期)の直木賞受賞者です。

 いっとき集中して調べたんですけど、そうこうするうちにコロナ禍が来てしまい、現状、中途で止まっています。いつかまた調査を進めたいな。そう思いながらも、他にもやりたいことはたくさんあって、整理がつきません。中途半端のまま、けっきょくワタクシも死んでいくのでしょう。

 それはともかく、堤さんです。その生涯を追っていくと、ひとりの文芸記者にぶち当たります。松田ふみ子さんです。

 この人もまた「文芸記者」と言っていいのかどうか微妙な人なんですが、中央公論社の編集者だったところから、戦争のせいで失職の憂き目に遭い、幸運にも毎日新聞社に拾われて「新聞社の記者」となりました。はじめから週刊誌の担当だったそうで、幅広い分野を扱わなければいけません。ただ、文芸方面の原稿取りや取材も行い、作家とのエピソードもふんだんにお持ちの方ですから、ここは「文芸記者」のくくりで取り上げたいと思います。

 松田さんと堤さんが急接近したのは、どうやら戦時中のことでした。戦争が激しくなって、東京の空にもポツポツと敵機が飛来。そのたびに空襲警報が鳴り響くんですが、堤さんはご存じのとおり生来からだが不自由ですし、防空壕に入るのも一苦労です。当時、都心のど真ん中に住んでいた堤さんは、ほとほと困り果て、どうにか地方に疎開できないかと思いはじめます。そこで手を差し伸べたのが、記者として出入りしていた松田さんだったそうです。

「丁度そのころ、私は家族全部が、山梨県の中巨摩郡鏡村に疎開して、静かな日々を送っておりました。結婚した妹一家も、やはりこの村から少しはなれた町に疎開していました。幸せなことにこの妹の家は二階が二間もあって、のんびりしていました。堤さんが、ひどく困っていられるというので、私は妙に義侠心を出して、妹夫婦にたのみこんで、その二階を空けさせました。堤さんが、この時の喜び方と云ったら、私は今でも忘れません。命の恩人のように喜んで、早速、実子さんという、まるで姉妹のように温い心で堤さんの面倒を見ている女中さんにつきそわれて、山梨県にやって来て、妹夫婦の家に入りました。」(昭和33年/1958年・文陽社刊、松田ふみ名義『夫婦の愛情に関する三十八章』所収「21 愛すればこそ ―堤千代氏夫妻(小説家)」より)

 昭和20年/1945年3月、東京大空襲の直後ぐらいのハナシです。松田さんの妹は確認できるだけで3人います。上記の文章には妹の夫は東京の新聞社に勤めている、とありますから、朝日新聞社にいた佐藤哲男さんの妻、栄子さんが、堤さんを受け入れてくれた疎開先の人ではないか、と思うのですが、確証はありません。

 それはそれとして、ここに松田ふみ子という人の性格がくっきり現われています。困っている人がいれば助けたくなる。また、その筆で松田さんは、堤千代・福留理一のペアのことを深く結ばれた素晴らしい夫婦、みたいに描きました。他人のことを悪くとらえない、善意にあふれる記者だったんだろうな、と思わされます。

 たしかに、病弱な堤さんが伴侶と出会ったことで幸せな生活を送った、というのはある種の美談です。しかし、身近にいた人にとっては、どうも美しいばかりで済まされない事情や感情があったらしく、その辺りのことに松田さんは触れていません。あまり堤家のことに首を突っ込まなかった、ということかもしれませんけど、世の夫婦の生態をたくさん取材し、それを記事にしていた松田さんが、あえて千代さんのダークな部分に踏み込まなかったのは、松田さんが善意で物事を見る人だったからなのでしょう。

 堤千代のダークな部分。それをはっきり書き残した身近な人がいます。大屋絹子さんです。

 千代の実妹、絹子さんには『オフェリアの薔薇 堤千代追想記』(平成3年/1991年5月刊)という回想録があります。ただ、この一冊だけでなく、それから約20年後に夫の大屋麗之助さんと連名で『山路越えて・一隅を照らす』(平成24年/2012年5月刊)という私家本を残しました。読んでみると、前者に比べて後者は、姉に対する愛情だけでなく、確執や決別のところにまで踏み込んで書かれています。

 絹子さんから見る堤千代&福留理一ペアは、とうてい松田さんが描いたような美談の主人公ではありません。

「絹子は、大袈裟な福留さんのナイト気取りが嫌でした。亡くなったお父さんがいつも口癖のように教えてくれた「巧言令色鮮し(少なし)仁」という論語の一節を思い出しました。言葉巧みに人の気を誘ったり、いつも人の顔色をうかがったりする人は仁徳に欠けている、という意味です。

(引用者中略)

絹子は、ここ(引用者注:第一ホテル社長・土屋計雄の家)にも訪ねてくる福留さんが嫌で、すっかり夫婦気取りの二人から、何とかして逃げ出したいという気持ちもありました。」(『山路越えて・一隅を照らす』所収「山路越えて」より)

 福留さんが見せた堤さんへの献身的な姿を、どう見るか。いっぽうでは松田さんのように、世にも稀な崇高な愛情ととらえ、いっぽうでは絹子さんのように、周囲のことを考えない身勝手なふるまいととる。立場によって、こんなにも物の見え方は変わるのか、と思わされるハナシが、堤さんのまわりにはゴロゴロ転がっています。だからこの人の生涯は面白いわけですね。

 ちなみに堤さんが亡くなった昭和30年/1955年11月よりあと、福留さんは二、三の取材を受けて、ぱたりと表舞台から消え去ります。「わたしが死んだら、だれかいい人と再婚して幸せになってね」というのが堤さんの願いだったそうなので、それを実践したのかもしれません。まもなく別の女性と結婚、二人の子供をもうけて、専門だった真空工学の会社で立派に勤め上げた……らしいです。

          ○

 松田ふみ子。明治38年/1905年3月19日生まれ、平成9年/1997年1月11日没。奈良県に生まれ、梅花女子専門学校、九州帝大法文学部大学院を経て、昭和12年/1937年(昭和14年/1939年とする文献もあり)、30歳をすぎて中央公論社に入社します。昭和19年/1944年にいわゆる「横浜事件」が起こって中公での職を失いますが、まもなく誘われて毎日新聞社に入社。『サンデー毎日』編集部で働きます。戦後は、貴重な女性記者・女性編集者として存在感を発揮して、昭和36年/1961年に退社したあとも評論家として活躍しました。

 記者時代から「強心臓」「こわいもの知らず」とウワサされ、他人が臆することでも取材のためならスッ飛んでいった、と言われています。いや、取材に限りません。これぞと思ったら、すぐに直接行って話をする。基本的には自分の仕事のためなんでしょうが、堤千代さんの逸話でもわかるように、人のために尽くすときも精力的であることは変わりません。信頼と実績の松田ふみ子、伝説になるべくして伝説になった女性記者、という感じです。

 直木賞とは、そこまで接点がありません。ただ、特筆しておいたほうがいいと思うのは、第34回(昭和30年/1955年・下半期)受賞者である新田次郎さんのデビューに松田さんが関わったことでしょう。

 知られるとおり、新田さんは先に妻の藤原ていさんのほうが物書きとして有名になりました。数々の編集者、記者たちが藤原さんのもとに出入りするなか、たまたまそこに松田さんもいたそうです。

 どうやら、ていさんの旦那も小説を書きたがっている。公務員の薄給では家族を養うのもギリギリで、とにかく原稿でお金を得たいらしい。と聞いた松田さんは「これぞ」と思ったのかどうなのか、新田さんにうちの雑誌の懸賞小説に応募してくださいよ、と勧めます。そうか、そんな募集があるのかと知って、新田さんが書き上げたのが「強力伝」。昭和26年/1951年、『サンデー毎日』創刊三十年記念懸賞小説で、これが見事一等となり、賞金20万円が新田さんの手に入ることになりました。

 ちょうど入選が決まったころ、吉祥寺の土地を買うハナシが舞い込んできます。うんうん、買いたいけど、いまあるお金じゃ少し足りない。と困った新田さんは、『サンデー毎日』に相談します。すみません、入選した者なんですが、早めに賞金くれませんか、と。

「「サンデー毎日」の編集部に出かけ、どうせ呉れる金なら早目に出して貰えないか、と交渉した。十日後の授賞式まで待っていられなかった。なんと厚かましい当選者かと気が引けたが、編集部の松田ふみ子が奔走し、希望通りに叶えてくれた。新田は松田に頭の下がる思いをした。」(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊、大村彦次郎・著『文壇栄華物語――中間小説とその時代――』より)

 「奔走」のことばが、まさに松田さんにはぴったりです。困っている人がいるなら、自分が動くことで助けてあげる。このちょっとした逸話からも、松田さんの善意があふれています。

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