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2022年1月の6件の記事

2022年1月30日 (日)

木野工(北海タイムス)。人が受賞したときの予定稿を書き、自分もまた予定稿を書かれた候補者。

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 直木賞を調べていくと、多いようで少ないのが、文芸記者出身の候補者です。

 いやまあ、少ないのが当たり前だろ、という気はします。いまや文芸担当の新聞記者が作家になる、という例はほとんどありませんし、そういうイメージが活きていたのは、おそらく昭和の前半、昭和30年代ごろまでじゃないでしょうか。その後、経済成長にひっぱられて出版文化も大繁栄、文筆とは無縁な職業の人たちにも作家デビューのルートができていきます。いっぽうでは新聞社の「おれたち一流企業だぜ」感もぐんぐんと伸びていき、創作とは別の興味をもつ学生たちが大量に新聞社に採用されるようになった結果、文芸記者から作家になる道はみるみる涸れ果てた、というわけです。

 なので、直木賞の候補者で文芸記者の経験者を探すと、どうしても昔の人になってしまいます。今回の木野工さんも、大正9年/1920年生まれ。正真正銘、昔の人です。

 昔の人なので(……ってクドいですね、すみません)、大衆文芸を書いてやろう、なんて気はほとんどなかったと思います。親から泣く泣く頼まれて、大学は工学専攻に進みましたが、ふつふつと湧き上がる文学熱が抑えられず、夏目漱石とか寺田寅彦、芥川龍之介あたりを読み漁る、カンゼンなるキモい文学青年になってしまい、大学一年のときに短編「雪国」を三笠書房の『文庫』懸賞小説に応募して、入選したりします。戦後になって本格的に創作に打ち込みはじめ、新聞記者として働くかたわら、昭和24年/1949年に旭川の同人誌『冬濤』に参加、昭和27年/1952年に同誌の編集責任者となってからは、世の「文芸同人雑誌拡張時代」に乗って、がぜん注目される存在となった……ということは、以前『冬濤』と直木賞のことを書いたエントリーでも触れました。

 木野さんが初めて芥川賞の候補になったのが第30回(昭和28年/1953年・下半期)、いわゆる石原慎太郎ショックがやってくる前の時代から、第36回(昭和31年/1956年・下半期)、第44回(昭和35年/1960年・下半期)、第46回(昭和36年/1961年・下半期)とコンスタントに候補になったあと、第47回(昭和37年/1962年・上半期)ではなぜか突然、直木賞のほうの候補に入り、第66回(昭和46年/1971年・下半期)までおよそ20年弱。両賞を見る世間の目が、急激に右肩あがりでキラッキラ光りつづけたこの時代に、木野さんは「万年候補」をやりつづけました。

 と同時に貴重なのは、木野さんがこの二つの賞を報道する立場でもあったことです。

 直木賞のまわりを見ていて感じるのは、賞の場面で浮かれているのは、おおよそ出版社とか本屋の人です。一般の読書好きな人たちも、そっちに入るかもしれません(ワタクシもそうです)。対して冷静なのは、主催している人たちや、候補になった(あるいは受賞した)作家の人たち。そして、新聞を中心とする記者たちです。

 しかも記者たちは、冷静な顔をして盛り上げに加担しようとしています。自分は姿を見せずに、淡々と取材して、世の中を踊らせる。傍から見ていると、やっぱ彼らがいちばん怖いです。

 木野さんは第66回の直木賞で候補になって落ちたとき、自身の働く『北海タイムス』の連載エッセイで、そのことに触れました。ジャーナリストとして文芸を記事にすることもある人間が、注目される対象の側にまわっての心境を書いています。以下は、木野さんが「紙の裏」で芥川賞の候補になった3度目のときのことだそうです。

「ほかの賞には事後通知だけなのに、主催者の商略が実に巧みなため、ジャーナリズムがこの両賞だけは新聞の社会面(本来は学芸、文化などの面にほんの小さなニュースとして載るべきものなのだろうが)に相当のスペースをさき、写真もつく。だから、予定記事の事前取材に各社から手紙が来たり、電話が来たり、学芸記者の来訪を受けたりもする。さらにラジオが取材に来る。テレビは『もし、きまったら』と出演時間と番組の打ち合わせまでしに来てくれる。これで平然としていられたら余程の大人物である。」(平成6年/1994年10月・南風社刊、木野工・著『東京風信』所収「『失神の告白』」より)

 これが落ちて、それからあとの機会ではあまり胸さわぎも起きず、選考会の当日は麻雀を打ちながら悠々と待っていた、と続けています。

 木野さんが他の候補と違うのは、別の回では、自分が候補者を取材して、相手の感情を波立たせる身でもあったことでしょう。

「新喜楽という料亭の記者だまりにも行ったことがあるし、私自身が沢田誠一氏の時など予定稿をすべて用意した。また、総選挙では開票前にセンセイ諸公にはすべてバンザイの写真と『当選の抱負』なども書かせたりした。自分でそんなことをやっていても、『紙の裏』の時は『失神』した。どうもオマツリ化したこの両賞の季節、健康には甚だよろしくない。」(同上)

 甚だよろしくないのなら、やめればいいのに。けっきょくこうして流してしまうところが、長年記者としておマンマを食ってきた木野さんの限界かもしれません。いや、やめればいいとわかっているけど、心情的に悪の道から引き返せない、人間のもつ哀しみが表れている、とも読み取れます。

 すべて世のなかのことは、論理的に白黒をつけて動くものなど何もない。直木賞のまわりで、候補者たちに過剰な負担を強いる報道合戦もまた、だれかが候補中の取材を苦にして自殺するとか、そういうオオゴトにならないと、このままズルズル続いていくんでしょう。候補者と取材記者、両方を経験した木野さんがやめられなかったことです。この麻薬を絶つのは、なかなか難しいのだな、と思います。

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2022年1月23日 (日)

川村律文(読売新聞)。最近5年間で最も多く、受賞者会見で質問マイクを握った人。

 こないだ第166回(令和3年/2021年・下半期)直木賞の受賞記者会見がありました。

 第144回(平成22年/2010年・下半期)の芥川賞をとった西村賢太さんによる、伝説の「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」会見が、およそ10年前。その回からニコニコ動画(ニコニコ生放送)で、直木賞の受賞者会見がナマで中継されるようになり、第152回(平成26年/2014年・下半期)からはYahoo!ニュースのTHE PAGEでも同様に、生中継が始まります。

 これらネット中継の功績は、いろいろとあるとは思います。なかで、ひとつ確実に挙げなくちゃいけないのは、両賞のまわりにひっついてン十年を数える「文芸記者」と呼ばれる人たちを、公衆の面前に引き出したことです。おそらくそのために生中継が始まったわけじゃありませんが、副産物としてはかなりの儲けものでしょう。

 直木賞という舞台の、第一の構成員が作家、第二が出版社の人たちだとすると、第三はメディアの記者たちです。それなのに、いったいどんな人が取材して切り取って報道しているのか、文芸記者の顔はなかなか観衆の目に見えません。ネットの生中継が始まったことで、チラチラッと映る質問者の影と、その声を聞くことができ、ほんとに生身の人間がまわりで直木賞を支えてきたのか! ということが実感としてわかるようになりました。

 ただ、映像だと、どうしてもカメラは受賞者のほうを中心にとらえてしまって、会見で質問する記者たちにフォーカスしてくれません。あそこで質問している人がいる。だけど、具体的にどんな姿かたちの人なのか、よくわからない。何年か前からワタクシも可能であれば受賞会見場に足を運びはじめましたが、その最大の理由は、質問する記者たちの生身の姿をどうしても間近で見たかったからです。コロナ禍が始まってしまい、ここしばらく自粛して行けていませんけど、またこの状況が改善したら、「受賞者に質問を投げかける文芸記者」を見るために、あの場に行けたらいいなと思います。

 とまあ、文芸記者、文芸記者と言っていますが、彼らもひとりひとり実体を伴う別々の人間です。受賞会見ではかならず、数名の文芸記者が質問をする。じゃあ、いったいどこの何という人が質問しているのか、直木賞オタクとしては当然気になります。

 今度の第166回までのほんの5年間(10回分)だけですが、直木賞受賞者に会見で質問した人たちをリスト化してみました。これで、いま現在のリアルタイムな「直木賞に縁ぶかい文芸記者」が誰なのか、おのずと浮かび上がってきます。

回・年度 受賞者 質問記者 受賞者 質問記者
第157回
平成29年/2017年
上半期
佐藤正午 読売新聞・川村川村律文 読売新聞・川村(再)川村律文
西日本新聞・小川小川祥平 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
朝日新聞・中村中村真理子 朝日新聞・高津高津祐典
毎日新聞・内藤内藤麻里子
第158回
平成29年/2017年
下半期
門井慶喜 読売新聞・川村川村律文 朝日新聞・吉村吉村千彰
読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫 朝日新聞・渡[ワタリ]渡義人
毎日新聞・内藤内藤麻里子 共同通信・森原森原龍介
第159回
平成30年/2018年
上半期
島本理生 日本テレビ(ZIP)・平松平松修造 日本経済新聞・郷原郷原信之
読売新聞・川村川村律文 ニコニコ動画・高橋
→質問者:東京都30代
高橋薫
毎日新聞・内藤内藤麻里子 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
共同通信・田村田村文
第160回
平成30年/2018年
下半期
真藤順丈 毎日新聞・内藤内藤麻里子 共同通信・森原森原龍介
読売新聞・川村川村律文 テレビ朝日・ナガノ
朝日新聞・宮田宮田裕介 読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫
東京新聞・樋口樋口薫
第161回
平成31年・
令和1年/2019年
上半期
大島真寿美 テレビ朝日・シマダ 中日新聞・松崎松崎晃子
読売新聞・十時[トトキ]十時武士 日本経済新聞・ヤマカワ
毎日新聞・内藤内藤麻里子 朝日新聞・宮田宮田裕介
NHK・カワイ 共同通信・瀬木瀬木広哉
読売新聞・鵜飼鵜飼哲夫 読売新聞・村田村田雅幸
ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県40代女性
高畑鍬名
第162回
令和1年/2019年
下半期
川越宗一 西日本新聞・一瀬[イチノセ]一瀬圭司 読売新聞・池田池田創
毎日新聞・須藤須藤唯哉 朝日新聞・山崎山崎聡
北海道新聞・大原大原智也 報知新聞・北野北野新太
日本経済新聞・ムラカミ ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県30代男性
高畑鍬名
第163回
令和2年/2020年
上半期
馳星周 北海道新聞・大原大原智也 日本経済新聞・マエダ
西日本新聞・平原[ヒラバル]平原奈央子 読売新聞・十時[トトキ]十時武士
朝日新聞・興野[キョウノ]興野優平 報知新聞・中村中村健吾
第164回
令和2年/2020年
下半期
西條奈加 共同通信・瀬木瀬木広哉 読売新聞・池田池田創
日本経済新聞・マエダ 産経新聞・海老沢海老沢類
北海道新聞・大原大原智也 ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県40代女性
高畑鍬名
第165回
令和3年/2021年
上半期
佐藤究 西日本新聞・平原[ヒラバル]平原奈央子 澤田瞳子 読売新聞・川村川村律文
朝日新聞・興野[キョウノ]興野優平 ニコニコ動画・高畑
→質問者:東京都40代女性
高畑鍬名
産経新聞・海老沢海老沢類 朝日新聞・上原上原佳久
ニコニコ動画・高畑
→質問者:富山県30代男性
高畑鍬名 毎日新聞・須藤須藤唯哉
共同通信・瀬木瀬木広哉
第166回
令和3年/2021年
下半期
今村翔吾 読売新聞・川村川村律文 米澤穂信 ニコニコ動画・高畑
→質問者:愛知県20代女性
→質問者:東京都30代男性
高畑鍬名
中日新聞・谷口谷口大河 共同通信・鈴木鈴木沙巴良
山形新聞・木村木村友香理 岐阜新聞・井上井上吉博
共同通信・平川平川翔 西日本新聞・佐々木佐々木直樹
富山新聞・?

 記者のフルネームは、ワタクシが勝手に類推して補完したものなので、間違っているかもしれません。誤りがあったら、ごめんなさい。

 ということで、最近5年にかぎって見ると、会見を司会する日本文学振興会の人にたくさん指され、最も多くの質問を放った記者は(ニコニコ動画担当を除けば)、読売新聞・川村律文さんだということがわかります。都合7回。直木賞の会見は川村さんのおかげで保たれてきた、と言っても過言ではないでしょう。……いや、過言でしょう。

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2022年1月19日 (水)

第166回直木賞(令和3年/2021年下半期)決定の夜に

 直木賞を長く見続けてきた人は、これまでもたくさんいたと思います。いまもいるでしょう。たぶん、そういう人にはわかってもらえると思うんですが、直木賞をずっと見ていると、どれが受賞するかなんて、どうでもよくなりますね。

 楽しいのは直木賞そのものであって、当落への興味は徐々に薄れていく。20数年、直木賞のサイトをやってきて、ようやくその気持ちがちょっとずつわかってきました。いまさらかい。

 という、しょーもない感想はこれぐらいにして、直木賞です。第166回(令和3年/2021年下半期)です。今日、令和4年/2022年1月19日の18時すぎ、都内で最多の陽性者が出たとか何とかワーワー言われている隅っこのほうで、2人の受賞者がうまれました。2回連続です。新型コロナウイルスが蔓延したことと、直木賞の受賞者が増えたことに、特別の関係はありません。あるはずがありません。

 受賞した2人のほかに、3人の作家たちがいたおかげで、今回もまた直木賞は楽しく面白い文学賞になりました。当落なんて、正直どうでもいいです。感謝の気持ちのほんの少しだけしか書けませんけど、候補になることを承諾してくれた5人の方々に、下手くそなりに御礼を書き残しておきます。

 実を言いますと、今回の候補作5冊を手にしたとき、その重みにウンザリする気分がありました。それをキレイさっぱり拭い去ってくれたのが、彩瀬まるさんです。『新しい星』の一作、よかったですねえ。賞のことも別に知らないし興味もない、でも何か新しい小説を読みたい、というような人がいたら、ワタクシなら彩瀬さんのこの作品を勧めると思います。いいじゃないですか、直木賞の受賞作じゃなくたって。普通の読者は、そういうこと気にしないですもん。こういう小説、これからもどんどん書いてほしいです。

 それで、ウンザリその1。あまりに世評が高すぎて手を出しづらい。逢坂冬馬さんの『同志少女よ、敵を撃て』です。読めば絶対に「そんなに絶賛されるほどでもないな」と自分が思うことがわかっている。そんな自分の性格に、よけいに落ち込む。だから、評判の高すぎる作品は、そもそも読むのを敬遠してしまうんですけど、これが直木賞の候補作になってくれて助かりました。たしかに、面白いじゃん。逢坂さんのスタートに、一読者として立ち合えてありがたいです。今後は、逢坂さんの作品、敬遠せずに読んでいきます。直木賞の候補になるかどうかと関係なく。

 ウンザリその2。「現代医療の病巣」モノって、手垢がついていて読む気が起きない。柚月裕子さんの『ミカエルの鼓動』です。でも、いったん読み始めると手が止まらず、ぐいぐいと引き込まれてしまいました。柚月さんの手腕、まじでナメてました。直木賞は、候補回数を積み重ねていくうちに選考委員の評価も変わる、と言われます。ただいま柚月さん2回目。まだまだこれからですね。こういう手腕の持ち主が、今後も候補になり得る余地を残しているのですから、直木賞の未来は明るいぜ。

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2022年1月16日 (日)

第166回(令和3年/2021年下半期)直木賞候補作の、図書館貸出し予約件数ランキング。

 年も押し詰まった令和3年/2021年12月17日。だれもがクソ忙しい年末の朝に、第166回(令和3年/2021年下半期)直木賞の候補作が発表されました。

 そのとき、人々はどうしたか。おそらく日本人の9割以上が、こうだったはずです。「別に何もしなかった」。正常な感覚だと思います。

 しかし、行動を起こした人も、いくらかは存在しました。たとえば、わざわざ本屋に行って候補作を買った人たち。なかには5冊全部買っちゃう異常者もいたらしいです。まあ、ちょっとおかしな人たちですね。近づかないほうが無難でしょう。

 寒い思いをして出かけなくても、いまならkindleその他、電子書籍があります。長い小説でも重い本でも、ポチポチッと押せばすぐ手に入る。楽チンです。だけど、直木賞なんかにおカネを使っている点では同じです。あまり褒められたものではありません。

 となると、まだしも正常に近い人たちは、どうしたんでしょうか。図書館で候補作を借りる。やはりそういう選択に落ち着きます。

 いやいや、今どき直木賞を気にしているヤツなんか、いないでしょ。……と馬鹿にする人もいるでしょうが、意外に直木賞の影響もゼロではないようです。候補になれば、その効果で貸出し希望者が増え、あっという間に所蔵の全冊がハケてしまい、予約待ちに突入します。10件、50件、100件……。いったい、いつになったら読めるのか。自分の手元にくるころには、とうに直木賞が決まっている。それでもなお、貸出し予約をするぐらいの、淡ーい興味で直木賞に接する人が、日本じゅうにはけっこういるわけです。

 とにかく今の世のなか、マスコミや出版社や書店は、本を買え買えとうるさく宣伝します。正直、直木賞の候補作を買わなきゃいけない義務など、読者には一つもありません。だって、たかだか直木賞ですよ。そんなもんに貴重なカネを払えるかい。と、決然たる態度で図書館を利用する人たちこそ、人間として正常な精神の持ち主だと思います。信用できます。ワタクシも見習いたいです。

 すみません、また前置きが長くなりました。今回、直木賞の候補に選ばれたのは5つ。果たして、現代社会の賢者ともいうべき「図書館で借りて読む」派のグループは、どんな反応を示しているのでしょうか。全国7つの都市の図書館ホームページで、それぞれの所蔵数+予約数を調べてみました。

 札幌市仙台市東京都世田谷区名古屋市大阪市広島市福岡市。そのすべてを足した合計を上から多い順に並べたランキングが、こちらです。

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所蔵数+予約数 札幌 仙台 東京・
世田谷
名古屋 大阪 広島 福岡 合計
『ミカエルの鼓動』 431 407 584 436 490 284 212 2,844
『黒牢城』 231 173 624 318 448 209 209 2,212
『同志少女よ、敵を撃て』 202 164 421 190 299 110 113 1,499
『塞王の楯』 95 106 291 142 307 94 64 1,099
『新しい星』 98 92 234 120 112 44 86 786
(令和4年/2022年1月16日13:00調査)

 以下、蛇足ぎみに少々の感想を添えます。

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2022年1月 9日 (日)

松田ふみ子(毎日新聞)。困っている人がいたら、手を差し伸べずにはいられない人。

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 もっと詳しく調べたいなあ、と思いながら、手のつかない作家がいます。どんどん増えていきます。堤千代さんもそのひとりです。第11回(昭和15年/1940年・上半期)の直木賞受賞者です。

 いっとき集中して調べたんですけど、そうこうするうちにコロナ禍が来てしまい、現状、中途で止まっています。いつかまた調査を進めたいな。そう思いながらも、他にもやりたいことはたくさんあって、整理がつきません。中途半端のまま、けっきょくワタクシも死んでいくのでしょう。

 それはともかく、堤さんです。その生涯を追っていくと、ひとりの文芸記者にぶち当たります。松田ふみ子さんです。

 この人もまた「文芸記者」と言っていいのかどうか微妙な人なんですが、中央公論社の編集者だったところから、戦争のせいで失職の憂き目に遭い、幸運にも毎日新聞社に拾われて「新聞社の記者」となりました。はじめから週刊誌の担当だったそうで、幅広い分野を扱わなければいけません。ただ、文芸方面の原稿取りや取材も行い、作家とのエピソードもふんだんにお持ちの方ですから、ここは「文芸記者」のくくりで取り上げたいと思います。

 松田さんと堤さんが急接近したのは、どうやら戦時中のことでした。戦争が激しくなって、東京の空にもポツポツと敵機が飛来。そのたびに空襲警報が鳴り響くんですが、堤さんはご存じのとおり生来からだが不自由ですし、防空壕に入るのも一苦労です。当時、都心のど真ん中に住んでいた堤さんは、ほとほと困り果て、どうにか地方に疎開できないかと思いはじめます。そこで手を差し伸べたのが、記者として出入りしていた松田さんだったそうです。

「丁度そのころ、私は家族全部が、山梨県の中巨摩郡鏡村に疎開して、静かな日々を送っておりました。結婚した妹一家も、やはりこの村から少しはなれた町に疎開していました。幸せなことにこの妹の家は二階が二間もあって、のんびりしていました。堤さんが、ひどく困っていられるというので、私は妙に義侠心を出して、妹夫婦にたのみこんで、その二階を空けさせました。堤さんが、この時の喜び方と云ったら、私は今でも忘れません。命の恩人のように喜んで、早速、実子さんという、まるで姉妹のように温い心で堤さんの面倒を見ている女中さんにつきそわれて、山梨県にやって来て、妹夫婦の家に入りました。」(昭和33年/1958年・文陽社刊、松田ふみ名義『夫婦の愛情に関する三十八章』所収「21 愛すればこそ ―堤千代氏夫妻(小説家)」より)

 昭和20年/1945年3月、東京大空襲の直後ぐらいのハナシです。松田さんの妹は確認できるだけで3人います。上記の文章には妹の夫は東京の新聞社に勤めている、とありますから、朝日新聞社にいた佐藤哲男さんの妻、栄子さんが、堤さんを受け入れてくれた疎開先の人ではないか、と思うのですが、確証はありません。

 それはそれとして、ここに松田ふみ子という人の性格がくっきり現われています。困っている人がいれば助けたくなる。また、その筆で松田さんは、堤千代・福留理一のペアのことを深く結ばれた素晴らしい夫婦、みたいに描きました。他人のことを悪くとらえない、善意にあふれる記者だったんだろうな、と思わされます。

 たしかに、病弱な堤さんが伴侶と出会ったことで幸せな生活を送った、というのはある種の美談です。しかし、身近にいた人にとっては、どうも美しいばかりで済まされない事情や感情があったらしく、その辺りのことに松田さんは触れていません。あまり堤家のことに首を突っ込まなかった、ということかもしれませんけど、世の夫婦の生態をたくさん取材し、それを記事にしていた松田さんが、あえて千代さんのダークな部分に踏み込まなかったのは、松田さんが善意で物事を見る人だったからなのでしょう。

 堤千代のダークな部分。それをはっきり書き残した身近な人がいます。大屋絹子さんです。

 千代の実妹、絹子さんには『オフェリアの薔薇 堤千代追想記』(平成3年/1991年5月刊)という回想録があります。ただ、この一冊だけでなく、それから約20年後に夫の大屋麗之助さんと連名で『山路越えて・一隅を照らす』(平成24年/2012年5月刊)という私家本を残しました。読んでみると、前者に比べて後者は、姉に対する愛情だけでなく、確執や決別のところにまで踏み込んで書かれています。

 絹子さんから見る堤千代&福留理一ペアは、とうてい松田さんが描いたような美談の主人公ではありません。

「絹子は、大袈裟な福留さんのナイト気取りが嫌でした。亡くなったお父さんがいつも口癖のように教えてくれた「巧言令色鮮し(少なし)仁」という論語の一節を思い出しました。言葉巧みに人の気を誘ったり、いつも人の顔色をうかがったりする人は仁徳に欠けている、という意味です。

(引用者中略)

絹子は、ここ(引用者注:第一ホテル社長・土屋計雄の家)にも訪ねてくる福留さんが嫌で、すっかり夫婦気取りの二人から、何とかして逃げ出したいという気持ちもありました。」(『山路越えて・一隅を照らす』所収「山路越えて」より)

 福留さんが見せた堤さんへの献身的な姿を、どう見るか。いっぽうでは松田さんのように、世にも稀な崇高な愛情ととらえ、いっぽうでは絹子さんのように、周囲のことを考えない身勝手なふるまいととる。立場によって、こんなにも物の見え方は変わるのか、と思わされるハナシが、堤さんのまわりにはゴロゴロ転がっています。だからこの人の生涯は面白いわけですね。

 ちなみに堤さんが亡くなった昭和30年/1955年11月よりあと、福留さんは二、三の取材を受けて、ぱたりと表舞台から消え去ります。「わたしが死んだら、だれかいい人と再婚して幸せになってね」というのが堤さんの願いだったそうなので、それを実践したのかもしれません。まもなく別の女性と結婚、二人の子供をもうけて、専門だった真空工学の会社で立派に勤め上げた……らしいです。

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2022年1月 2日 (日)

頼尊清隆(東京新聞)。直木賞授賞式の席で、自身の激励会の構想が持ち上がる。

20220102

 2022年、最初に取り上げる文芸記者は、やはり派手な人でいかなくっちゃな。そう思って、この方にしました。『東京新聞』の頼尊清隆さんです。

 どこが派手なんだ! と、ひとりでボケてひとりでツッコむパターンなんですけど、戦後の文壇を調べて名前の出てくる記者といえば、だいたい相場は決まっています。その代表的なひとりが頼尊さんです。いわゆるテッパンというやつです。

 頼尊さんの回想録『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』(昭和56年/1981年6月・冬樹社刊)には、直木賞のことはほとんど出てきません。芥川賞も同様です。そういう切った張ったの賞ごとが省いて書かれているからか、全編どこか悠々とした空気がただよっているんですが、多少なりと直木賞に関係しそうな作家では、吉川英治、梅崎春生、井伏鱒二、木山捷平などが出てきます。まったく、ドイツもコイツも悠々としています。

 「悠々」というのは、適切な表現じゃないかもしれません。だけど、たとえば頼尊さんの描く梅崎春生さんは、無理して前に出ようとせずに、うしろにじっと控えることを徳としています。直木賞のイメージにありがちな「流行作家へまっしぐら」とは、相当ズレています。

「梅崎君は、いつも“後列精神”というものを説いていた。つまり、教練などで並ぶときにはういつでもさっと後列にすべりこむのがいい、人の前に出てはいけない、というのである。それは彼のはにかみや気の弱さからの発想ともいえる。

それに、「僕らうさぎ年生まれの男は気が弱くって損をする。“うさぎの会”を作って、お互いに励ましあうようにしないか」という話を、飲んでいるときに僕に持ちかけてきたのも彼である。」(『ある文芸記者の回想 戦中戦後の作家たち』より)

 なるほど、うさぎ年生まれの男は気が弱いのか。……と思って、直木賞の受賞者で卯年生まれの男性を並べてみました。

 立野信之、今日出海、戸板康二(梅崎さんとは同年生まれで「うさぎの会」メンバー)、結城昌治、城山三郎、藤沢周平、葉室麟、浅田次郎、朱川湊人、重松清、京極夏彦、池井戸潤、道尾秀介……。うーん、何となく言われたらそうかもしれないな、という気はします。損をしているかどうかはわかりません。ちなみに、直木三十五さんも明治24年/1891年、卯年の生まれ。本来、この干支こそ十二のなかで最も直木賞っぽい、と言ってもおかしくないでしょう。

 とまあ、梅崎さん得意の戯れ言はさておいて、頼尊さんのことに戻りますが、この方と縁の深い直木賞候補者といって、まず青山光二さんは外せません。

 頼尊さんは京都の三高、そして東大と、青山さんよりも二年後輩の同窓生。そのころから親しい間柄でしたが、青山さんに言わせれば、自分の作家人生が変わるような一件に加担したのが頼尊さんだったらしいです。

 戦後知り合った花田清輝さんと話しているうちに、丹羽文雄ひきいる「早稲田派」と呼ばれた連中の仕事ぶりが、いかに情けないものか、ということで盛り上がった青山さん。そうだそうだ、青山さん、そういう批判文を書きなさいよ、と花田さんに言われて、さあどうしようかと思っていたところ、ふとその話を頼尊さんに洩らしてしまいます。

 そこで、文芸記者のアンテナがピピンと働いたらしく、頼尊さんはぜひ『東京新聞』に早稲田派批判、書いてくれよ、と依頼。いまの丹羽さんは天下の大将だ、丹羽批判をしたらまわりの連中が黙っちゃいないだろうから、腹をくくって書いてね、と派手な論争が起きることを期待して、頼尊さん舌なめずりした(らしい)ということです。

 青山さんは「ワセダ派文学を批判す」(『東京新聞』昭和22年/1947年10月7日、8日)と題する、完全に喧嘩を売るつもりの批評を書き、望みどおりに早稲田派の北條誠さんが反論を書いて、バチバチッと火花が散ります。「物議をかもしたのも頼尊君と謀議の上のこと」(青山光二「懐かしき記者二人」、平成12年/2000年7月・内幸町物語刊行会刊『内幸町物語――旧東京新聞の記録』所収)だったとも言いますが、また別の場所ではこうも振り返りました。

「東京新聞に評論を書いた後、青山は、丹羽をはじめ早稲田派の作家としばらく絶交状態になったという。

「作家人生を変えるような出来事でしたね。丹羽さんは『わしの跡継ぎは青山光二だ』と周辺に漏らしていたようです。後になってから頼尊から聞きました。実際、そう言っていたと思います。そういう間柄でしたから」」(平成17年/2005年12月・筑摩書房刊、大川渉・著『文士風狂録――青山光二が語る昭和の作家たち』より)

 青山さんが初めて直木賞の候補になる第35回(昭和31年/1956年・上半期)より、ずっと以前のハナシです。文芸記者と親しいことで、作家の人生もいろいろ変わる――それを体現してみせたのが青山さんだった、とも言えるでしょう。

続きを読む "頼尊清隆(東京新聞)。直木賞授賞式の席で、自身の激励会の構想が持ち上がる。"

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