扇谷正造(朝日新聞)。学芸部勤務になって一転、精力的に文壇に足を踏み入れる。
文芸記者に有名度ランクを付けるとしたら、トップクラスに挙がるのが扇谷正造さんでしょう。
「すげえ編集者だったよ」の伝説は数知れず。文芸記者と呼ぶのも違和感があります。だけど、文藝春秋「中興の祖」池島信平さんとはツーカーの間柄で、直木賞史に何かと出てくる人なのは間違いありせん。
扇谷さんが文芸界に現われだしたのは、戦後のことです。死にもの狂いで戦争から帰ってくると、まず扇谷さんは『週刊朝日』デスクとして力を見せます。昭和23年/1948年、太宰治さんの心中や、川田順さんの自殺未遂が起きたときには、事件記者あがりの嗅覚をびんびんに働かせ、『週刊朝日』に大々的に掲載。文壇ゴシップを社会的な話題に昇華させて、売上部数の飛躍に貢献します。
そもそも社会部の記者として出発し、自身も野次馬根性がウリだと自覚していた。……それこそ扇谷さんが、戦後の文壇を積極的に渡り歩き、成功したカギなのかもしれません。カギじゃないかもしれません。わかりません。
ともかく昭和24年/1949年暮、扇谷さんは『週刊朝日』から本紙学芸部の次長として異動になります。知り合いの作家なんて誰もいない、というところから、靴の底を減らして多くの作家を訪ね歩きました。獅子文六さんの『自由学校』とか川端康成さんの『舞姫』などは、扇谷さんのお願いが功を奏して連載実現にこぎつけたものだそうです。
文藝春秋新社の佐佐木茂索さんに、扇谷さんがはじめて会ったのも、その頃のことです。回想によると、文春から各新聞の学芸部デスクを料亭に招いてお話をうかがいたい、という誘いがあったそうです。いわゆる「接待」というやつですね。ビジネスの世界は、だいたいブラックです。
扇谷さんはこう書いています。
「若いころの私は、そういう会合には、潔癖なくらい潔癖で、社外のご接待は、いっさいおことわりという編集局外勤記者のルールを固く守り通していたのだが、この会だけは、広告部からぜひにというので出席することにした。私は、その時、自分にこういい聞かせた。
(たぶん、ごち走になるだろう。それがあとで新聞にハネかえるのは嫌だ。文春のことだから、そんなケチなことは考えてないだろうが、しかし、こちらが、精神的な負担を感ずるのはいやだ。その日のうちに、その場で決済はつけよう。それには、何か文春のために考えられるアイデアなりプランなりを三つ用意しよう。それが、文春にプラスになるか、ならないかは知らない。ただ、ベストをつくして、考えてみよう)」(昭和47年/1972年9月・六興出版刊、扇谷正造・著『吉川英治氏におそわったこと』所収「冴えた人、佐々木茂索氏」より)
新聞各社といかに良好な関係を築くか。その試行錯誤は、直木賞創設の頃から(あるいはもっと前から)の文藝春秋の伝統だったものでしょう。新聞記者もべつに誰かと喧嘩したくて生きているわけじゃない、と思うので、出版社とパイプを築きながら、自社の紙面を発展させ、儲けが出ればそれに越したことはありません。直木賞と文芸記者が歴史的に強い関係性をもってきたのは、こういう交流の蓄積のおかげなんだろうな、と改めて思います。
それはともかく、扇谷さんです。文壇づきあいはしない、と決めていた頃からは一転し、こうして出版社の人たちには会う、作家には会う、と精力的に動き回ります。まもなく学芸部から再び『週刊朝日』の担当に戻されたのが昭和25年/1950年のことで、ここから扇谷正造『週刊朝日』バク売れ伝説の、幕が切って落とされるのですが、その土壌に流行作家から新進作家まで含めた作家との交流があったことは明らかです。その結果、吉川英治、獅子文六という二人の作家と出会い、とくに傾倒し、終生慕うまでの仲になりました。扇谷さんの人生も、きっとそのことでさらに深みが増したことでしょう。
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扇谷正造。大正2年/1913年3月28日生まれ、平成4年/1992年4月10日没。東京帝国大学国史学科を卒業後、朝日新聞社に入社。社会部、中国・マニラ各特派員などを経るうちに終戦。最終的には論説委員まで勤め上げて昭和43年/1968年退社。その後は、評論家として数多くの講演、執筆をこなし、著作の数も多く重ねますが、いまとなってはわざわざ彼のものを好き好んで読もうという人は、よほどの変り者でしょう。週刊誌が勢力をもっていた時代はとっくに過ぎ去り、「大昔、週刊誌をたくさん売った人なの? ふうん、だから何?」という感じかもしれません。
扇谷さんがどれだけの功績を残したのか、それは塩澤実信さんの本などを読んでいただくとしまして、直木賞の専門ブログとして、取り上げておかなきゃいけない扇谷さんのエピソードがあります。星新一さんのことです。
これもまた大昔……60年以上まえの第44回(昭和35年/1960年・下半期)に、星さんのショート・ショート6篇が、直木賞の最終予選を通過しました。これに敏感に反応したのが扇谷さんだった、と言われています。
最相葉月さんの『星新一 一〇〇一話をつくった人』(平成19年/2007年3月・新潮社刊)によると、選考会が行われる直前に書かれた『週刊朝日』読書欄「みすてり・こうなあ」のコラム「星新一氏と直木賞」は、評者名が「舌」となっていますが、これは扇谷さんの筆だと星さんは確信し、まわりの人たちもそう思っていた、とのことです。
「星氏の作品の系列は、おそらく直木賞の今までのそれに比べると、全く異質のものといってよい。
それは、一言にしていえば、現代的ということだ。そういう意味での現代的ということに、選考委員会がどんな反応をみせるか。その反応の仕方が、実は、選考委員のこれからの仕事の奥行きをのぞかせることにもなる。(引用者中略)(舌)
(引用者中略)
「舌」はその後もたびたび新一を評価するコラムを執筆するが、戦後まもなく「週刊朝日」編集長として初めて百万部突破の記録をつくった扇谷正造だったのではないかといわれている。若手の探偵小説の書き手たちが集まった「他殺クラブ」で正体を探ったところ、そのメンバーだった大藪春彦が、扇谷が実名で書いた文章と「舌」のコラムの内容が重なっているいくつかの状況証拠を挙げ、みんながそれに同意したためである。」(『星新一 一〇〇一話をつくった人』より)
真偽はワタクシもわかりません。ただ、もしもそうだとしたら、たしかに面白いです。
というのも、(舌)の伝に従えば、当時の直木賞選考委員たちは、その後大して奥行きのない仕事しかできなかった、ということになるからです。ほんとにそうか。中山義秀、木々高太郎、大佛次郎、村上元三、源氏鶏太、小島政二郎、川口松太郎、海音寺潮五郎、そして吉川英治……。
『週刊朝日』の「新・平家物語」の連載を終え、このとき『毎日新聞』に「私本太平記」を絶賛連載中だった吉川さんも、星新一さんの候補には何の言葉も残しませんでした。ああ、扇谷さんは何と思ったんでしょう。
それを想像するだけで、直木賞がもたらすめぐり合わせの妙に(あるいは残酷さに)グッと来ます。
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