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2021年12月26日 (日)

高野昭(読売新聞)。直木賞の受賞者取材から、作家との縁が深まることもある。

20211226

 今年ももうじき終わりです。年が明ければすぐに第166回(令和3年/2021年・下半期)の直木賞が決まります。いろいろ気になることは多いんですが、とりあえずうちのブログは、現状とはとくに関係のないことを書くのみです。いつものことです。

 少し前のエントリーで百目鬼恭三郎さんを取り上げたとき、丸谷才一さんの文章に触れました。『小説新潮』昭和50年/1975年10月号に載ったものですが、それを読むと、当時直木賞を取材していた報道陣に、読売新聞文化部の高野某なる記者がいたことがわかります。

 オモテ立って触れられることが少ない人なので、ワタクシもよく知らないんですが、読売の高野昭さんも、昭和の半ばに新聞文芸界の裏方として活躍した、と言われています。

 文化部に配属されたのは昭和32年/1957年だったそうです。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の芥川賞を石原慎太郎さんがとってから、だいたい1年ほどが経ったころに当たります。

 どんな時代か。といえば、直木賞+芥川賞が近づくと、文芸記者たちが候補者のまわりをうろつき始める、いわゆる「やりすぎ報道」が過熱化していく時代です。読売新聞社の『週刊読売』が両賞の候補になった人たちを根ほり葉ほり取材して、とれりゃ栄光、とれなきゃ悲惨、と囃し立てた異様なるゴシップ記事「芥川・直木賞残酷物語」を掲載したのは、昭和38年/1963年8月10日号です。

 高野さんも仕事ですから当然取材に駆り出されます。のちに親しくなる城山三郎さんと出会ったのも、直木賞の取材過程でのことでした。

「城山さんに初めて会ったのは、文化部記者として「総会屋錦城」の直木賞受賞(引用者注:第40回、昭和34年/1959年1月20日決定)を取材したときだった。そして、城山さんが私と同じ年に生まれ、同じように海軍を志願したことを知った。城山さんは特別幹部練習生、私は飛行予科練習生である。」(昭和55年/1980年9月・新潮社刊『城山三郎全集第8巻付録 月報8』所収、高野昭「たしかな戦友」より)

 それ以後、文春の池島信平さんがつくった「文人海軍の会」に共に参加。同じ時代に生まれ、同じ時代に青春を過ごし、似たようなかたちで戦争と向き合って終戦を迎えた同志として、活気づく日本の昭和をともに歩みます。かたや直木賞をとった作家、かたや文芸を飯のタネにする新聞記者。仕事上での付き合いは、そこまで多くなかったようですが、『硫黄島に死す』(新潮文庫)とか『忘れ得ぬ翼』(文春文庫)といった文庫の解説を任されるほどには縁があった、という二人です。

 その心の結びつきの最初にあったのが、直木賞の取材だった、というのは高野さんの人生にとっても得難い出会いだったと思います。直木賞の報道は機械がやっているわけじゃない。生きた人間がやっているんだ。……城山さん×海軍志願生×高野さんという、後年にまでつづく結びつきは、そのことを感じさせてくれます。

 そういう観点で見てみると、高野さんにはいまひとつ、直木賞の取材から出発した作家との交流がありました。第55回(昭和41年/1966年・上半期)受賞の立原正秋さんとの関係です。

 立原さんが初めて新聞の連載小説を引き受けたのは『読売新聞』夕刊の「冬の旅」(昭和43年/1968年5月15日~昭和44年/1969年4月21日)で、このとき立原さんの起用を強く推したのは、文化部長の平山義信さんとデスクの高野さんだったらしいです。実際の担当は同部の記者、木村英二さんに任されますが、「冬の旅」開始ごろからの立原さんと『読売新聞』のエピソードには、多く高野さんが登場します。立原さんも相当、高野さんに信頼をおいて接していたことが伝わります。

 その出発点となったのが、立原さんが直木賞と決まったときの取材だった。というのですから、直木賞オタクとしては心がトキメかないわけがありません。

          ○

 高野昭。昭和2年/1927年2月13日生まれ、平成23年/2011年4月26日没。東京に生まれ、戦中には飛行予科練習生。早稲田大学英文科を卒業後、昭和26年/1951年に読売新聞社に入社します。昭和32年/1957年に文化部記者となってからは、次長、部長と順調に出世して、昭和51年/1976年に同社編集局参与。昭和58年/1983年ごろには日本文芸家協会の事務局長に就き、文芸を裏で支える人生をコツコツと送ったと言われます。

 さて、立原正秋さんとのハナシが途中でした。『読売』夕刊に連載された「冬の旅」は、「文壇のトラブルメーカー」の異名をもつ(もっていないかもしれませんけど)立原さんの本領が発揮され、連載中から炎上を起こします。やれ、あんな不愉快な作品載せるなだの、やれ、やめなきゃ購読やめてやるだの、脅迫めいた投書がばんばん届き、文化部の人たちもそのクレーマー処理で大変だったろうと思います。

 連載中に立原さんは「「冬の旅」あれこれ はじめて新聞小説を書いて」(『読売新聞』昭和43年/1968年12月20日)を寄稿。そういった苦情の声を紹介しながら、小説を読む訓練ができていないドシロウトな読者が、感情的にギャーギャー言ってきているみたいだけど、こういう読者は作者の想像力なんか何もわかっていないよね、うんぬん、と切り返して見せています。さすがの立原さんです。

 で、この作品は連載終了後、新潮社から上・下巻で刊行され、またたく間にベストセラーに駆け上ります。みごと「『冬の旅』の立原」として知名度も向上し、やったね、読売新聞、と関係者万々歳となりました。立原さんが直木賞をとって2~3年の出来事です。

 この「冬の旅」の連載に関する話は、盟友とも言える武田勝彦さんが「非行と教育――「美しい城」から「冬の旅」へ」(昭和57年/1982年10月・創林社刊『立原文学への道』所収)で丹念に詳しく書いています。そこに、こうあります。

「当時の読売新聞社の文化部では、一つの連載小説が始まって一月か二月かすると次の作品を誰に依頼するかを部長やデスクを中心として考えることになっていた。(引用者中略)若手ないしは中堅どころに執筆を依頼しようという新機軸を平山部長(引用者注:平山義信)は打ち出したのであった。この案にデスクの高野氏以下の部員が賛意を表明したところで、平山氏は立原正秋の名を挙げた。何をテーマとして、どのような作柄の小説を書いてほしいと要望するかは別として、全員がこの人選を支持した。だれもが立原の力量をよく知っていたからである。中でも高野氏は、立原が直木賞を受賞した直後の記者会見の折に、各新聞社の代表としてあれこれ質問をした体験があった。それだけに立原作品は初期のものからその当時のものまで実によく読み、小説らしい小説を書く作家として高く評価していた。」(『立原文学への道』所収「一 現代社会のひずみ」、武田勝彦「2 非行と教育――「美しい城」から「冬の旅」へ」より)

 記者会見のことが出てきます。どの記者もそういう態度で臨んでいるかどうかはわかりませんが、ときには作家の作品をじっくりと読み込み、次に自社の仕事につなげる想定をもったうえで、質問の席に就く文芸記者もいるわけですね。

 受賞会見というと、どうしても受賞者に目が行きがちです(当たり前か)。それでも、そこで質問する記者も単なる賑やかしでなければ、引き立て役でもない、同じひとりの人間なんだ。と思って見ると、ぐっと面白さも深まります。高野さんのことも、もっともっと知りたくなってきました。

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