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2021年12月12日 (日)

松本昭(毎日新聞)。吉川英治の病状を心配しながら、杉森久英の受賞を聞く。

20211212

 新聞社にもいろいろあります。直木賞に最も縁が深いのは、どの新聞なんでしょう。

 ……正直どうでもいい設問です。しかも、直木賞はあと数年で創設90年を迎えるおジイちゃんな文学賞でもあります。時代によってさまざまな性質を求められ、そのつど変転してきましたので、いま「直木賞はこうだ」と一概に言えることなど、ひとつもありません。

 ただ、そういうなかでも『毎日新聞』は特別な存在です。大衆文芸を育てた立役者ですし、また文藝春秋社と持ちつ持たれつの関係にあった、という意味では、最も重要な新聞社と言えるでしょう。なにせ『大阪毎日』&『東京日日』は菊池寛さんと太いつながりがあります。

 ということで、ブログテーマが「文芸記者と直木賞」なら、取り上げるのは『毎日』の記者だけでもいいくらいです。しかし、記者の多くは裏に隠れて、実態がよくわかりません。歴代『毎日』でどんな文芸記者が活躍してきたのか。それを知るだけでひと苦労です。

 今週とりあげる松本昭さんも、元『毎日』学芸部の記者で、吉川英治さんのことをよく書いていた人……という程度のことしか、ワタクシも知らないんですが、吉川さんは亡くなるまで直木賞委員の籍にあった人です。担当記者だった松本さんも、多少は直木賞の動向の近くにいたことだろうと思います。

 吉川さん最後の大作長編『私本太平記』は、昭和33年/1958年1月18日~昭和36年/1961年10月13日に『毎日新聞』で連載されました。当時、松本さんは30代なかば。「吉川係」を命じられ、毎日のように吉川さんちの書庫に通っては、「太平記」に関わる資料の整理をしていた、ということなんですが、それを振り返るにこんな表現をしています。

「昭和三十六年夏のこと。(引用者中略)当時、私は学芸部で文壇を担当し吉川係として常任、吉川邸にゴロゴロしていた」(『新評』昭和42年/1967年9月号 松本昭「観音様を女房にした吉川英治」より)

 毎年夏、吉川さんは軽井沢の別荘に書斎を移すのが通例で、この年も渋谷の松濤にあった本邸では、松本さんなどの関係者が留守預かりのようなかたちでゴロゴロ生活した、ということなんでしょう。

 吉川さんほどの作家の連載小説です。全社を挙げての期待がそそがれています。若き(?)担当記者とすれば、べったり吉川さんのことに集中したいところ……だと思うんですが、学芸部勤めのサラリーマン、そうは甘くはなかったようです。その連載期間中、『毎日』に関わる小説が直木賞の候補になってしまうのです。直木賞、吉川さんも選考委員を務めています。ドキドキです。

 候補になったのは、杉森久英さんの『黄色のバット』です。『毎日新聞』昭和34年/1959年2月14日~9月6日、こちらは夕刊に連載された小説で、同年11月に角川書店で単行本されたところ、第42回(昭和34年/1959年・下半期)直木賞の予選を通過しました。

 杉森さんは芥川賞での候補経験はありますが、直木賞では初の候補。作家自身は冷静でも、だいたい文学賞ではまわりのほうが興奮しがちです。杉森さんの回想でも何だかそんな感じで書かれています。松本さんも出てきます。

「そのころ(引用者注:昭和34年/1959年)は候補になるだけで大分世間で注目されるようになっていたし、私の候補作品の『黄色のバット』が毎日新聞に連載されたものだったので、毎日の学芸部の人たちが自分のことのように気をもんでくれたので、本人も落着かなくなった。

詮衡委員会の日は、毎日の学芸部のデスクの宮良高夫さんと松本昭さんが私につきっきりで、毎日新聞の社屋(有楽町にあった、もとの建て物)の近くのフジアイスで夕方からビールを呑みながら待っていた。(引用者中略)

ところが、八時ころになって、そろそろきまりそうなものだと思っても、電話がかかって来ない。松本さんが

「社へいって、様子を見てみましょう」

といって、出かけてしまった。」(『別冊文藝春秋』132号[昭和50年/1975年6月] 杉森久英「三度目の正直」より)

 しかし、松本さんは帰ってこない。次に宮良デスクが会社に戻る。これも行ったっきり。どうもそのときには、すでに杉森さん落選、戸板康二さんと司馬遼太郎さんの受賞は決まっていたらしく、二人とも杉森さんに「落選」を告げたくなくて逃げたものらしい、と直後に知った……と言うのです。

 盛り上がるだけ盛り上がっといて、落選と知るや候補者を置き去りにする、文芸ジャーナリズム(いや文芸ジャーナリスト)の非情さが、よく出ています。松本さんったら、もう。

          ○

 松本昭。大正14年/1925年10月30日生まれ、平成30年/2018年11月9日没。早稲田大学文学部卒、同大学院特別研究性を経て、毎日新聞社に入社。同社ではサンデー毎日、学芸部から政治部、事業部長と進み、昭和53年/1973年に退職してからは昭和女子大学で研究者および教育者となります。

 後年は、宗教民俗学、とくにミイラの研究者として名を馳せますが、文芸記者としてはやはり「吉川英治の担当記者」の顔が強く、吉川家の人たちにも信頼され、吉川さんを知るための何冊かの本も残してくれました。昭和62年/1987年9月・六興出版刊の『人間 吉川英治』(昭和59年/1984年9月・講談社刊『吉川英治 人と作品』の訂正加筆版)などは、戦前戦後の大衆文壇、大衆作家の動きを知るうえでも、やはりマストでしょう。

 吉川さんは常に自分の仕事でクソ忙しいです。なのになぜ、第1回から直木賞の選考委員を引き受けて、途中やめた時期がありながら、再度委員をやりつづけたのか。はっきりとその理由が書いてあるわけじゃありません。しかし、単に「大衆作家として有名だったから、引き受けざるを得なかった」という以上に、直木三十五さんとか菊池寛さんと、強い関わりがあったことがうかがえます。それが、死ぬまで直木賞の選考なんちゅう面倒な雑事を続けさせた一因かもしれないな、という推測も可能です。いわゆる友情ってやつです。

 とまあ、吉川さんのハナシは措いておいて、今週の主役は松本昭さんです。最後は、松本さんのことで締めたいと思います。

 さっき引用した杉森久英さんの直木賞に関する回想には、つづきがあります。第42回『黄色のバット』は、かなり惜しいところまで評価されながら落選しますが、それから2年半。第47回(昭和37年/1962年・上半期)にいたって『天才と狂人の間』で再び候補に擬せられると、今度は受賞の報が届きます。

 選考会が行われたのは、昭和37年/1962年7月23日です。吉川さんはいちおう委員に名は残っていましたが、病気欠席。『人間 吉川英治』によると、7月10日夜、急に言葉が発せられなくなり、11日に赤坂・山王病院に入院、19日に国立がんセンターへ移って、24日に再手術、とかなりの重大な局面を迎えていたらしいです。当たり前ですけど、一文学賞にかかずらわっている場合ではありません。

 松本さんだってあたふたしていただろうと思います。しかし、その大変な晩に受賞の報が外に出るやいなや、イの一番に杉森さんのところにやってきたのが、松本さんだったというのです。

(引用者注:文藝春秋から受賞の電話を受けて)十分ばかりすると、毎日新聞から前回の松本昭さんが駆けつけ、手を握って

「よかったよかった」

と言ってくれ、感想のインタービュウをはじめたので、だんだん受賞したらしい気分になって来た。」(前掲 杉森久英「三度目の正直」より)

 受賞した人間にはすぐ群がろうとするとは、何と文芸ジャーナリストの浅ましさよ……と見るのは、さすがに性格わるいですよね。そうじゃなくて、前回とれなかった悔しさを我がごとのように感じながら、捲土重来のめでたい瞬間に感激して駆けつける、松本さんの私情たっぷりな記者としての味を、このエピソードから読み取りたいと思います。

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