小山鉄郎(共同通信)。直木賞ぬきで1990年代の文学状況を語った人。
先週とりあげた河辺確治さんは、「何も書かなかった記者」と言われていました。著書は一冊もありません。こういう人こそ面白い、とは思います。思うんですけど、正直、そんな人ばかりを調べるのは手間がかかってしんどいです。
なので今週は、精力的に書きまくっている有名文芸記者のことでお茶を濁します。共同通信社の小山鉄郎さんです。
1990年代の芥川賞を語らせたらこの人の右に出る者は、おそらく100人ぐらいしかいない……と言ってもいいほどに、盛んに文芸報道していました。『芥川賞・直木賞150回全記録』(平成26年/2014年3月・文藝春秋刊)に原稿を寄せた文芸記者四銃士のひとりでもあります。
その原稿から伝わるのは、小山さんって直木賞には何ひとつ興味ないんだろうな、という雰囲気です。直木賞に関わらずとも、人間、しっかりと成長し生きていけるので、それは別にいいんですが、しかし直木賞に(しか)興味のないワタクシのような異常人からすると、平成の時代にここまで直木賞を抜かして文学現象を語るのはよっぽどだぞ、と違和感すら覚えてしまうわけです。
小山さんが『文學界』平成2年/1990年1月号~平成6年/1994年5月号に連載した「文学者追跡」が、すべて収められた『あのとき、文学があった――「文学者追跡」完全版』(平成25年/2013年3月・論創社刊)を読んでも、直木賞なんてほとんど出てきません。たとえば、以下の文章なんか、よっぽどもよっぽどです。
「今年二月十二日夜、東京・丸の内の東京会館で第百四回芥川賞の贈呈式があった。(引用者中略)その日は小川洋子さんという戦後初の二十代の女性芥川賞作家誕生という話題もあって、いつもの芥川賞直木賞の受賞パーティーより賑わっていて出席者は随分多かった。」(『あのとき、文学があった――「文学者追跡」完全版』所収「村上龍の映画熱――1991年6月」より)
あれ、第104回(平成2年/1990年・下半期)って直木賞の受賞者なしだったっけ、と思わず受賞一覧を見返してしまいましたよ。古川薫さんが『漂泊者のアリア』でしっかり受賞しています。
小山さんの目には、そんなトウの立った還暦すぎの老人が、昔の遺物を掘り起こしただけの歴史小説で賞をとったことは、語るに値しない、ってことなんでしょう。史上最多候補回数で受賞した、直木賞にとってはとびきりの話題性も、小山さんは「話題」とは見なさず、受賞パーティーにどれだけの人が来るかは、すべて芥川賞の話題性によって決まる、とばかりの言いざまです。いくら何でもひどすぎます。
いやいや、『文學界』の連載記事なんだから芥川賞メインで書くのは当たり前だろ。と思わないでもありません。だけど、古川薫さんだっていちばん初めは『文學界』で(同誌の同人雑誌評で)見出された作家じゃないか……とモヤモヤするのも、こちらが直木賞オタクだからなんでしょう、それは認めます。
ただ、小山さんの「直木賞を軽くみる」例はそれだけではありません。「文学者追跡」に色川武大さんのことに触れた文章があるんですが、これも直木賞ファンに喧嘩売っているような書きっぷりです。
「先日必要があって、二年前亡くなった色川武大さんについての資料を調べているうち、こんなことに気付いた。勤務先の通信社にファイルされている色川さん関連の新聞、週刊誌などの切り抜きは、数えてみると全部で五十三枚。(引用者中略)泉鏡花賞決定を伝える記事も十六年前のもの(引用者注:中央公論新人賞受賞の記事)とほぼ同じ大きさの僅か八行の記事だったが、その直後から、いろいろなインタヴュー記事などの切り抜きの増え方は圧倒的だ。一年を経ずして「離婚」で直木賞を受けたことも大きかったろうが、この切り抜きの量の大きな変化をみるだけでも、その後の色川さんにとって、泉鏡花賞という地方自治体(金沢市)が主催する賞ながら、存在感のある賞が果した役割は少なくないものがあると思えた。」(同書所収「文学賞の流行――1992年2月」より)
すみません、「喧嘩売っている」は言いすぎでした。直木賞ではなく泉鏡花文学賞に花を持たせたのは、大きな権威より小さな市井の営みに目を向ける、小山さん流のジャーナリスト精神なのかもしれません。
しかしですよ。それなら、いつも芥川賞という巨大な太陽の影に隠れがちな直木賞に、もう少し温かい目を向けてくれてもいいんじゃないでしょうか。けっきょく興味がなかったんだろうな、直木賞には……というところに落ち着かざるを得ません。
○
小山鉄郎。昭和24年/1949年生まれ。一橋大学経済学部を卒業後、昭和48年/1973年に共同通信社入社。地方の支局、社会部を経たのちに昭和59年/1984年に文化部に配属となります。
第91回(昭和59年/1984年・上半期)のときがはじめての芥川賞周辺取材だった、ということなので、歴史的にはさほど古い記者ではありません。受賞なしがやたらと断続していた時期の「芥川賞暗黒時代」が、文芸記者としての出発点でしたから、おそらくいろいろと苦労もしたでしょう。直木賞病の患者にゴタゴタ言われる筋合いはありませんね。
長い記者生活です。無数の作家にインタビューし、周辺をさぐってきたでしょうから、おそらく直木賞のことも(多少は)書いているものと思います。小山さんが書いた直木賞記事、何かないだろうか、と探してみたら、共同通信配信の「文学流星群」という連載記事がありました。
小山さんが取材してきた人たちのなかで、すでに亡くなった人の印象に残る言葉を紹介する記事です。令和1年/2019年5月から数か月にわたって、地方紙などに載った回が、川口松太郎さんに取材したときの言葉でした。
昭和60年/1985年、直木賞(と芥川賞)創設50年のとき、文芸記者になったばかりの小山さんは川口さんに話を聞いたそうです。第1回(昭和10年/1935年)、直木三十五さんの名前の付いた文学賞ができると聞いた川口さんは、無性にその賞が欲しくなって、菊池寛さんに直談判。「僕にください」と頼んだものの、いやいや直木賞は新人賞だ、おまえはもうダメだ、と拒否られます。しかし選考のふたを開けてみれば、その菊池さんがずいぶんと川口さんを推してくれたらしい、菊池寛っていうのはそういう人情家だったんだよ、と昔の思い出を語ってくれたのだとか。
この話を直接聞いたのに、小山さん、そのあと直木賞には大して興味が沸かなかったんだな、さびしいな、と思うのですが、それはともかくこの配信記事は、掲載する新聞社のほうで独自の見出しを付けて紙面となった模様です。そのなかで『西日本新聞』が令和1年/2019年11月19日夕刊に載せたときの見出しが、けっこうスゴすぎます。
「文学流星群 芥川賞「僕にください」 作家 川口松太郎」
どこでどう間違ったのか、川口さんが芥川賞を僕にくださいと言ったことになっている、という……。
おそらく小山さんの罪ではありません。しかし、こんなかたちでも直木賞との縁のなさが出ているのは、ほんと、よっぽどです。
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