高野昭(読売新聞)。直木賞の受賞者取材から、作家との縁が深まることもある。

今年ももうじき終わりです。年が明ければすぐに第166回(令和3年/2021年・下半期)の直木賞が決まります。いろいろ気になることは多いんですが、とりあえずうちのブログは、現状とはとくに関係のないことを書くのみです。いつものことです。
少し前のエントリーで百目鬼恭三郎さんを取り上げたとき、丸谷才一さんの文章に触れました。『小説新潮』昭和50年/1975年10月号に載ったものですが、それを読むと、当時直木賞を取材していた報道陣に、読売新聞文化部の高野某なる記者がいたことがわかります。
オモテ立って触れられることが少ない人なので、ワタクシもよく知らないんですが、読売の高野昭さんも、昭和の半ばに新聞文芸界の裏方として活躍した、と言われています。
文化部に配属されたのは昭和32年/1957年だったそうです。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の芥川賞を石原慎太郎さんがとってから、だいたい1年ほどが経ったころに当たります。
どんな時代か。といえば、直木賞+芥川賞が近づくと、文芸記者たちが候補者のまわりをうろつき始める、いわゆる「やりすぎ報道」が過熱化していく時代です。読売新聞社の『週刊読売』が両賞の候補になった人たちを根ほり葉ほり取材して、とれりゃ栄光、とれなきゃ悲惨、と囃し立てた異様なるゴシップ記事「芥川・直木賞残酷物語」を掲載したのは、昭和38年/1963年8月10日号です。
高野さんも仕事ですから当然取材に駆り出されます。のちに親しくなる城山三郎さんと出会ったのも、直木賞の取材過程でのことでした。
「城山さんに初めて会ったのは、文化部記者として「総会屋錦城」の直木賞受賞(引用者注:第40回、昭和34年/1959年1月20日決定)を取材したときだった。そして、城山さんが私と同じ年に生まれ、同じように海軍を志願したことを知った。城山さんは特別幹部練習生、私は飛行予科練習生である。」(昭和55年/1980年9月・新潮社刊『城山三郎全集第8巻付録 月報8』所収、高野昭「たしかな戦友」より)
それ以後、文春の池島信平さんがつくった「文人海軍の会」に共に参加。同じ時代に生まれ、同じ時代に青春を過ごし、似たようなかたちで戦争と向き合って終戦を迎えた同志として、活気づく日本の昭和をともに歩みます。かたや直木賞をとった作家、かたや文芸を飯のタネにする新聞記者。仕事上での付き合いは、そこまで多くなかったようですが、『硫黄島に死す』(新潮文庫)とか『忘れ得ぬ翼』(文春文庫)といった文庫の解説を任されるほどには縁があった、という二人です。
その心の結びつきの最初にあったのが、直木賞の取材だった、というのは高野さんの人生にとっても得難い出会いだったと思います。直木賞の報道は機械がやっているわけじゃない。生きた人間がやっているんだ。……城山さん×海軍志願生×高野さんという、後年にまでつづく結びつきは、そのことを感じさせてくれます。
そういう観点で見てみると、高野さんにはいまひとつ、直木賞の取材から出発した作家との交流がありました。第55回(昭和41年/1966年・上半期)受賞の立原正秋さんとの関係です。
立原さんが初めて新聞の連載小説を引き受けたのは『読売新聞』夕刊の「冬の旅」(昭和43年/1968年5月15日~昭和44年/1969年4月21日)で、このとき立原さんの起用を強く推したのは、文化部長の平山義信さんとデスクの高野さんだったらしいです。実際の担当は同部の記者、木村英二さんに任されますが、「冬の旅」開始ごろからの立原さんと『読売新聞』のエピソードには、多く高野さんが登場します。立原さんも相当、高野さんに信頼をおいて接していたことが伝わります。
その出発点となったのが、立原さんが直木賞と決まったときの取材だった。というのですから、直木賞オタクとしては心がトキメかないわけがありません。
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