川合澄男(学芸通信社)。直木賞を活用して直木三十五の追悼忌を復活させる。
川合仁さんと来たら、次はだれか。そりゃ川合澄男さんを措いて他にはいません。
直木賞に縁が深いのは、仁さんよりむしろ息子の澄男さんかと思います。このかたも「文芸記者」と見るのはけっこう違和感がありますが、新聞メディアとともに生きた人です。父・仁さんのあとを継ぎ、文化・学芸に関する記事(小説も含む)を用意して全国の新聞社に配信することでお金を得る、というなかなかの虚業を盛り立てて生涯をまっとうしました。
交流のあった作家や評論家は数知れず。なかには直木賞をとる前の人とか、とった後の人とかもいて、いろんな作家の「直木賞エピソード」を傍らで見ていた人です。
そもそも川合さん自身が直木賞(というか直木三十五さん)とは異様なパイプで結ばれています。「直木三十五との奇縁」(『大衆文学研究』96号[平成3年/1991年])で川合さんが書いているところですが、ざっくりまとめると、父の川合仁さんが始めた新聞文芸社で、第一回配信の「妖都」(三上於菟吉・作)につづいて第二回配信の連載小説を担当したのが直木三十五。作品は「正伝荒木又右衛門」です。それの原稿の受け取りに、妊娠中だった仁さんの妻・千代さんもたびたび出向いた、とのことで、胎内ですでに澄男さんは直木さんと会っていたことになります。
幼い頃に澄男さんが住んだ吉祥寺の家には、隣に直木さんと別れた佛子須磨子さんが住んでいた。とか、後年、立風書房で直木さんの『由比根元大殺記』などを復刊するときには澄男さんも協力した。とか、そういう縁を得て、やはり何といっても澄男さんの最大の功績は、いまもつづく「南国忌」の礎を築いたことでしょう。
もとをたどると昭和51年/1976年。直木賞でいうと第74回(昭和50年/1975年下半期)に佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』が選ばれ、第76回(昭和51年/1976年下半期)三好京三さん『子育てごっこ』が選ばれる直前のころです。中間小説誌は全盛を迎え、出版界も高級なものから低俗なものまで、下手な鉄砲のようにあらゆる種類の書籍・雑誌が出て、気色わるいほど賑わっていました。ちなみに芥川賞に村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』が選ばれたのが、ちょうどこのころ、昭和51年/1976年7月。50万部だ100万部だと、受賞作が馬鹿みたいに売れ、チリ紙のように捨てられた、そんな時代です。
この年に澄男さんは「よこはま文化苑」という集まりに入会し、そこで企画された「直木三十五墓前祭と文芸講演会」に参加します。あれだけ隆盛を誇った流行作家・直木三十五。いまもなお直木賞というよく知られた文学賞の名前になっている。なのに、横浜市富岡にあるお墓に詣でる人は少なく、朽ち果てている。みなさん、彼の魂をなぐさめ、また自分の魂を高めるために、直木の墓前に集まりましょうよ。ということで、第一回の墓前祭が開かれます。直木賞はよく知られている、なのに直木三十五は忘れ去られて久しい、というのは、それから50年近くたったいまでも、直木さんを語るときの常套句です。
そのころは、直木さんの墓石は富岡・長昌寺の裏山、ガケぎわの木陰にひっそりとあって、山道を歩いていくのにも危険があった、ということですから穏やかではありません。誰もが顧みなくなった大衆作家の墓としては、それはそれでお似合いだった気もしますけど、澄男さんをはじめとして、せっかく墓前祭もやることだし、もっと安全な場所にお墓を移してはどうか、という意見が持ち上がって、募金を集めたり、もろもろ面倒な諸事を乗り越えたすえに、昭和57年/1982年9月19日に新墓所完成の記念行事を開くまでに至ります。最初の墓前祭から6年がたっていました。
ここで偉いなと思うのは、日本文学振興会とか、直木賞の受賞者たちに積極的に声をかけて、新墓所の改修やそれにつづく「南国忌」の発足を実現させたところです。
直木賞と直木三十五。両者のつながりは、そこから名前を採ったというだけのことで、もはやまったく別モノです。現実はそうなんですが、しかし直木さんの墓所を無理やりにでも直木賞という威光・ブランドに結びつけ、講演者として直木賞受賞者にも臆せず声をかけるうちに、身内の胡桃沢耕史さんがついに受賞をもぎとって、ますます大にぎわい。今年2月は、新型コロナ感染拡大の影響でいったん休止となりましたが、それでも毎年毎年、100名以上の参集者を呼べるイベント「南国忌」を続けている、その始まりに川合澄男さんたちがいたのは大きかった、と思います。
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川合澄男。昭和5年/1930年10月12日生まれ、平成13年/2001年1月15日没。早稲田大学文学部を出て、学習研究社に勤めますが、すぐに父親の学芸通信社に入社。原稿とりや、記事の制作配信に身を入れはじめた矢先、昭和38年/1963年に父の仁さんが62歳で急逝したため、同社の社長に就くことになります。
純文芸畑の人たちともいろいろ交流はあったんでしょうけど、川合さんの回想によく出てくるのは大衆文壇であったり、あるいは直木賞につらなる人たちです。南国忌と直木賞というと、胡桃沢耕史さんの涙と遺恨の受賞劇……が思い浮かびます。しかし、これはもうよく知られたハナシすぎて、いまさらここで触れても何の新味もありません。別の直木賞受賞者について触れておきます。
立野信之さんです。立野さんと川合さんとは、かなりの深い付き合いがあったらしく、川合さんに「立野信之の思い出」という一文もあります。
立野さんといえばガッチガチのプロレタリア文学出身、川合仁さんも似たような出自の書き手だったので、昭和初期から親しく接していたらしいです。仁さんが亡くなったときの葬儀委員長を務めたのが立野さん、また息子である澄男さんにも何くれとなく手を差し伸べ、澄男さんが結婚したときの媒酌人をしてくれたり、学芸通信社の経営についてもアドバイスをしてくれたり、ずいぶん親身に接してくれたとか。「花の位置」「昭和軍閥」「日本占領」「首相官邸」などの新聞小説は、川合さんの学芸通信社が担当して配信されました。
立野さんの生涯と作家的な歩みも、なかなか波瀾に富んで面白いと思うんですが、ちょっと作風が堅めで地味だし、伝わる人柄もそこまでブッ飛んだものがないせいか、時を経れば経るほど埋没しがちなのは否めません。昭和46年/1971年、立野さんが亡くなる前、たまたま入院中だった川合さんはこんなふうに回想しています。
「ようやくのことで葬儀には出席したが、なにもできず心残りであった。その後、心臓手術をして元気になってから、新橋第一ホテルで開かれた立野信之追悼会を手伝ったが、万分の一の恩返しも果たせていない。
寺崎浩から「立野信之の命日を“叛乱忌”と名付けて毎年追悼会をしよう、君も手伝え」と提案があったが、結局実現しなかった。」(平成9年/1997年11月・学芸通信社刊、川合澄男・著『新聞小説の周辺で』所収「立野信之の思い出」より ―初出『大衆文学研究』102号[平成6年/1994年])
叛乱忌。……そんな名前の追悼イベントが実現していれば、直木賞にとっても大切な一里塚になったことでしょう。しかし、いま立野さんの小説を好んで読む人などいるんでしょうか。川合さんが仲間といっしょに、忘れ去られた直木さんのことをあの手この手を使って現在に残したように、また誰か、忘れ去られた立野さんの追悼忌をイベントに仕立てる人が現われるといいな、と思います。
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