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2021年11月14日 (日)

川合仁(新聞文芸社、日本学芸新聞)。文学賞のことを細かく報じる学芸専門紙をつくった人。

20211114

 直木賞は文藝春秋社がつくったものですが、『文藝春秋』や『オール讀物』だけ追っていても全体像はわかりません。

 いや、間違えました。直木賞の全体像が何なのか、ワタクシも知っているわけじゃないので、「全体像はわかりません」などと偉そうに断言してはいけませんね。文春の出版物をまとめても、それで直木賞の全部がわかるわけじゃない。と、そんなふうなことを言いたかっただけです。

 とくに戦前の直木賞は、文春のなかでも影の薄い存在でした。調べれば調べるほど泣きたくなってきます。となると、よその文献で補っていくしかありません。そんなときに頼もしいのがこれ。『日本学芸新聞』です。

 同紙は昭和10年/1935年11月5日の創刊号から昭和18年/1943年7月1日の第155号の終刊まで、復刻版が不二出版から出ています。直木賞やもうひとつの兄弟賞はもちろん、その当時ぞくぞくとつくられては消えていった悲しき短命の文学賞のことも報じられていて、一般紙を見てもよくわからない文学賞隆盛の時代が刻まれています。この唯一無二の文学賞文献を発行していたのが、川合仁さんです。

 紙面全体をながめてみると、かなり硬派なたたずまいです。文学賞なんちゅう下品な話題ばかり載せていたわけではありません。しかし、文芸とその界隈のことをジャーナリスティックに報道しようという意気が熱く、そのおかげで他ではあまり見かけないような文学賞の記事がいろいろ見当たります。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年・上半期)の芥川賞で、受賞と決まった高木卓さんが辞退した、という有名なニュースの一件です。

 『日本学芸新聞』の記者も高木さんを直撃して、その談話を記事にしているんですが(第91号、昭和15年/1940年8月10日「芥川賞拝辞の弁 高木卓」)、「此辞退は芥川賞の権威とそれを狙ふ新人作家の反省に複雑な波紋を投げるものと信ずる。」とか何とか大いに煽ったうえで、高木さんに「なぜ辞退したのですか。学校の方の関係ですか?」「生活がさし当って困らないからですか?」「しかし、委員会で授賞に決定したといふのにそれを受けてゐないのは却って委員会乃至は芥川賞を冒涜することになりはしませんか?」などなど、やたらとぶしつけな質問をして、高木さんからコメントを引き出しています。高木さんが紳士な方だったからよかったものの、うるせえよ、何が権威だくだらねえ、と突っ返されても文句は言えないところでしょう。

 直木賞でいうと、こんな記事も載っています。第3回(昭和11年/1936年上半期)、海音寺潮五郎さんが受賞した直後です。直木賞に関する感想や批評が、新聞で読めるのは当時としてはまずレアなんですが、さすが『日本学芸新聞』の、文学賞への目配りはひとあじ違うな、と感嘆してしまいます。

「第三回直木賞を海音寺潮五郎氏が獲得したのは当を得てゐる。しかし考ふべき事は、オール讀物と日の出に発表した氏の二長篇が特に傑出してゐたが故の受賞ではなく、これだけの仕事さへする新人が他に無かったといふ事実である

新人に舞台を与へないのか、与へようとしても、これに応ずる力倆のある新人がゐないのか、とにかく淋しい気がする。」(『日本学芸新聞』11号、昭和11年/1936年9月11日「大衆文芸時評 海音寺潮五郎氏の本格的な作品 九月号諸雑誌の作品」より ―署名:山下賢次郎)

 川合さんが書いた文章ではありません。ただ、山下さんの表現にならって言えば、こうして直木賞批評にきちんと舞台が与えられているのは、同紙発行人・川合仁さんのおかげです。

 それによって直木賞がどうなったのか。……影響は全然なかった気もしますけど、実績を重視する直木賞に、何だか冴えない賞だなあ、と感じていた人がいたのはわかります。そういう感覚が、大衆文壇のまわりにも漂い、選考委員のなかにもくすぶった結果、大池唯雄さん(第8回・昭和13年/1938年下半期)とか河内仙介さん(第11回・昭和15年/1940年上半期)あたりの受賞につながった、と見るのは不自然じゃありません。

 当時、直木賞にどのくらいの温度で、どういった意見が批判的に出ていたのか。そういう声を後世に伝えるのも、報道機関としての新聞の役目でしょう。いまを生きるノンキな文学賞オタクが戦前の直木賞批評の一端に触れられるのも、川合さんの苦労の多い新聞経営あったればこそです。ああ、ありがたい。

          ○

 川合仁。明治33年/1900年12月22日生まれ、昭和38年/1963年10月30日没。山梨県立農林学校を卒業したのち、一年志願兵として甲府連隊に入隊。大正12年/1923年に除隊すると、平凡社の社員を経て、日本電報通信社(電通)の文芸部に入ります。ここで、小説をはじめとする文芸関係の原稿を地方紙に配信する、という仕事に就いたことから、のちの川合さんの生涯が決まったようなものです。新聞と文芸の懸け橋を築く大変な道です。

 昭和4年/1929年に新聞文芸社を創立、最初の社員として川崎長太郎さんを迎えます。新聞に載る小説は、文芸誌や総合誌を飾る小説とは違って、多くの人を楽しませることも求められ、要は文壇からは偏見と侮蔑をもって見られていました……というのは言いすぎですけど、少なくとも新聞各紙が大衆文芸の繁栄をうながす一助となったのは間違いなく、まあ魂を悪魔(カネ)に売ったやつが儲かるようなメディアですよね、という印象は拭えません。

 そのなかで、現状の新聞小説にはどんな問題点があるのか。どんな可能性があるのか。「新聞小説」というものを、自分のつくった新聞を使って繰り返し検証したり批評したりしたのが川合さんです。「文芸記者」の仲間に入れるのは場ちがいなほどに、もっと大きな仕事をした人ですが、『日本学芸新聞』によると、東京の各新聞社の学芸記者が集う懇親会に、新聞文芸社から川合さんも参加していたそうです。なので、ここは文芸記者のひとりとさせてください。

 その川合さんの経歴をたどってみますと、もとは自分でまじめな小説や評論を書き、あるいはプロレタリア思想からアナーキズムに傾倒した経験を持っています。当時、大衆文壇にいた作家たちと似たような経歴、と言ってもいいでしょう。しかし他の作家と違い、川合さんは自分で執筆するより新聞メディアの制作へと全力を向けました。

 どうしてそんなに新聞づくりに命をかけるようになったのか。川合さんとともに働いた遠藤斌さんは、こう解釈しています。

「昭和十年十月号の「新聞文芸通信」のあと、十一月五日、「日本学芸新聞」第一号が発行された。(引用者中略)ようやく体調も回復して自信を持ちはじめた川合の心のうちに、正義を求め、自主性を主張する、もちまえのロマンティシズムが、またぞろ頭をもたげてきたのだ、と今にして私は思う。いいかえれば、かつての文筆を通じて社会的に活動しようとする情熱が、独立した文芸・思想新聞を刊行しようという意欲となって再燃したのである。」(昭和50年/1975年4月・川合澄男刊『回想・川合 仁』所収 遠藤斌「命をけずった「日本学芸新聞」」より)

 文学賞は(いや、直木賞は)新聞というメディアがなければ、こんなに発展を見せることはなかっただろう、という説があります。と同時に、作家も新聞がなければ、現在のような職業化された作家は発生・発達しなかっただろう、とも言えそうです。そう考えると、やっぱ川合さんのような文芸新聞人の存在はもっと顕彰されてもいいと思います。ワタクシが知らないだけで、すでにもう大きく顕彰されているのかもしれませんけど。

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