河辺確治(読売新聞)。直木三十五の死のそばにいた、善意にみちた新聞記者。
直木三十五さんの売れっ子伝説に加担した、取り巻き文芸記者五人衆。すでに笹本寅さん、片岡貢さんを取り上げました。三人目はこの人、河辺確治さんです。
歴史的にみて『読売新聞』には名物記者(あるいは奇矯な人材)の出てくる土壌があります。なぜなのか、よくわかりません。それが企業風土ってもんかもしれませんが、昭和9年/1934年から始まる文学賞時代の、はじめのほうにも『読売』には存在感ある記者がいました。それが河辺さんです。
存在感ある、というのは、語弊がありました。とにかく変わった記者だった、と大草実さんは振り返っています。
「大草 河辺(引用者注:河辺確治)っていうのは、何も書かない新聞記者だった。こいつは偉かった。そのかわり、本当に度胸があったな。人が好くて。
萱原(引用者注:宏一) あれ、書かなかったの? 河辺は。
大草 ようやく、ちょっと書くぐらいでね、何も書かなかった。
(引用者中略)
大草 美男子じゃなかったが、おっとりしていた。
萱原 それで口数が少ない。
大草 新聞記者らしくは絶対ない。」(『経済往来』平成1年/1989年5月号「続・老記者の置土産(9) 昭和新聞人評論家の百態」より)
そんな河辺さんは、笹本寅、片岡寅、新延修三、豊島薫といった他社のライバル記者たちと気が合って、昭和8年/1933年から自分たちの雑誌をつくろうと画策。途中で直木さんが、おれも雑誌をやろうと思っていたんだ、おれが金を出すからいっしょにやろうぜと割り込んできて、『日本文藝』創刊直前まで行った……というのは、すでに触れた話です。その関係からか『衆文』昭和9年/1934年4月号の直木追悼号には、五人それぞれが追悼文を寄せています。「何も書かない記者」河辺さんといえども、さすがに直木さんの死に接して、無言を通すわけにはいかなかったようです。
その追悼文「人間的な魅力」によると、いっとき小林多喜二さんとツルんでいた河辺さんは、小林さんに直木さんを会わせたことがあったんだとか。小林さんの上京が昭和5年/1930年なので、その辺りのことでしょうか。小林さんは直木さんと何やら議論っぽく語り合ったあと、別れるなり河辺さんに「直木って面白い男だね」と言ったそうです。
河辺さんって、小林さんからも、直木さんからも、よく好かれた人だったんだな。とわかるエピソードですけど、先に取り上げた笹本さんや片岡さんとは違って、この追悼文からは河辺さんの蔭日向ぶりが伝わってきます。我が強くない、と言いますか。前面に立とうとしない、と言いますか。まるで自分の思想も立場も打ち出さず、ただまわりを見守っている。大草実さんに言わせれば、それが「新聞記者らしくない」ところなのかもしれません。
人付き合いはいいけど、仕事は何をしているのかわからない。酒場に行けば、いつもニコニコしながらそこにいる。会社のなかでは可もなく不可もなく、年功序列のレールに乗って出世する。晩年の直木さんを取り囲んだピリピリとした雰囲気のなかに、なぜ彼も加わっていたのか。不思議なくらいです。
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