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2021年11月の4件の記事

2021年11月28日 (日)

河辺確治(読売新聞)。直木三十五の死のそばにいた、善意にみちた新聞記者。

20211128

 直木三十五さんの売れっ子伝説に加担した、取り巻き文芸記者五人衆。すでに笹本寅さん片岡貢さんを取り上げました。三人目はこの人、河辺確治さんです。

 歴史的にみて『読売新聞』には名物記者(あるいは奇矯な人材)の出てくる土壌があります。なぜなのか、よくわかりません。それが企業風土ってもんかもしれませんが、昭和9年/1934年から始まる文学賞時代の、はじめのほうにも『読売』には存在感ある記者がいました。それが河辺さんです。

 存在感ある、というのは、語弊がありました。とにかく変わった記者だった、と大草実さんは振り返っています。

大草 河辺(引用者注:河辺確治)っていうのは、何も書かない新聞記者だった。こいつは偉かった。そのかわり、本当に度胸があったな。人が好くて。

萱原(引用者注:宏一) あれ、書かなかったの? 河辺は。

大草 ようやく、ちょっと書くぐらいでね、何も書かなかった。

(引用者中略)

大草 美男子じゃなかったが、おっとりしていた。

萱原 それで口数が少ない。

大草 新聞記者らしくは絶対ない。」(『経済往来』平成1年/1989年5月号「続・老記者の置土産(9) 昭和新聞人評論家の百態」より)

 そんな河辺さんは、笹本寅、片岡寅、新延修三、豊島薫といった他社のライバル記者たちと気が合って、昭和8年/1933年から自分たちの雑誌をつくろうと画策。途中で直木さんが、おれも雑誌をやろうと思っていたんだ、おれが金を出すからいっしょにやろうぜと割り込んできて、『日本文藝』創刊直前まで行った……というのは、すでに触れた話です。その関係からか『衆文』昭和9年/1934年4月号の直木追悼号には、五人それぞれが追悼文を寄せています。「何も書かない記者」河辺さんといえども、さすがに直木さんの死に接して、無言を通すわけにはいかなかったようです。

 その追悼文「人間的な魅力」によると、いっとき小林多喜二さんとツルんでいた河辺さんは、小林さんに直木さんを会わせたことがあったんだとか。小林さんの上京が昭和5年/1930年なので、その辺りのことでしょうか。小林さんは直木さんと何やら議論っぽく語り合ったあと、別れるなり河辺さんに「直木って面白い男だね」と言ったそうです。

 河辺さんって、小林さんからも、直木さんからも、よく好かれた人だったんだな。とわかるエピソードですけど、先に取り上げた笹本さんや片岡さんとは違って、この追悼文からは河辺さんの蔭日向ぶりが伝わってきます。我が強くない、と言いますか。前面に立とうとしない、と言いますか。まるで自分の思想も立場も打ち出さず、ただまわりを見守っている。大草実さんに言わせれば、それが「新聞記者らしくない」ところなのかもしれません。

 人付き合いはいいけど、仕事は何をしているのかわからない。酒場に行けば、いつもニコニコしながらそこにいる。会社のなかでは可もなく不可もなく、年功序列のレールに乗って出世する。晩年の直木さんを取り囲んだピリピリとした雰囲気のなかに、なぜ彼も加わっていたのか。不思議なくらいです。

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2021年11月21日 (日)

川合澄男(学芸通信社)。直木賞を活用して直木三十五の追悼忌を復活させる。

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 川合仁さんと来たら、次はだれか。そりゃ川合澄男さんを措いて他にはいません。

 直木賞に縁が深いのは、仁さんよりむしろ息子の澄男さんかと思います。このかたも「文芸記者」と見るのはけっこう違和感がありますが、新聞メディアとともに生きた人です。父・仁さんのあとを継ぎ、文化・学芸に関する記事(小説も含む)を用意して全国の新聞社に配信することでお金を得る、というなかなかの虚業を盛り立てて生涯をまっとうしました。

 交流のあった作家や評論家は数知れず。なかには直木賞をとる前の人とか、とった後の人とかもいて、いろんな作家の「直木賞エピソード」を傍らで見ていた人です。

 そもそも川合さん自身が直木賞(というか直木三十五さん)とは異様なパイプで結ばれています。「直木三十五との奇縁」(『大衆文学研究』96号[平成3年/1991年])で川合さんが書いているところですが、ざっくりまとめると、父の川合仁さんが始めた新聞文芸社で、第一回配信の「妖都」(三上於菟吉・作)につづいて第二回配信の連載小説を担当したのが直木三十五。作品は「正伝荒木又右衛門」です。それの原稿の受け取りに、妊娠中だった仁さんの妻・千代さんもたびたび出向いた、とのことで、胎内ですでに澄男さんは直木さんと会っていたことになります。

 幼い頃に澄男さんが住んだ吉祥寺の家には、隣に直木さんと別れた佛子須磨子さんが住んでいた。とか、後年、立風書房で直木さんの『由比根元大殺記』などを復刊するときには澄男さんも協力した。とか、そういう縁を得て、やはり何といっても澄男さんの最大の功績は、いまもつづく「南国忌」の礎を築いたことでしょう。

 もとをたどると昭和51年/1976年。直木賞でいうと第74回(昭和50年/1975年下半期)に佐木隆三さんの『復讐するは我にあり』が選ばれ、第76回(昭和51年/1976年下半期)三好京三さん『子育てごっこ』が選ばれる直前のころです。中間小説誌は全盛を迎え、出版界も高級なものから低俗なものまで、下手な鉄砲のようにあらゆる種類の書籍・雑誌が出て、気色わるいほど賑わっていました。ちなみに芥川賞に村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』が選ばれたのが、ちょうどこのころ、昭和51年/1976年7月。50万部だ100万部だと、受賞作が馬鹿みたいに売れ、チリ紙のように捨てられた、そんな時代です。

 この年に澄男さんは「よこはま文化苑」という集まりに入会し、そこで企画された「直木三十五墓前祭と文芸講演会」に参加します。あれだけ隆盛を誇った流行作家・直木三十五。いまもなお直木賞というよく知られた文学賞の名前になっている。なのに、横浜市富岡にあるお墓に詣でる人は少なく、朽ち果てている。みなさん、彼の魂をなぐさめ、また自分の魂を高めるために、直木の墓前に集まりましょうよ。ということで、第一回の墓前祭が開かれます。直木賞はよく知られている、なのに直木三十五は忘れ去られて久しい、というのは、それから50年近くたったいまでも、直木さんを語るときの常套句です。

 そのころは、直木さんの墓石は富岡・長昌寺の裏山、ガケぎわの木陰にひっそりとあって、山道を歩いていくのにも危険があった、ということですから穏やかではありません。誰もが顧みなくなった大衆作家の墓としては、それはそれでお似合いだった気もしますけど、澄男さんをはじめとして、せっかく墓前祭もやることだし、もっと安全な場所にお墓を移してはどうか、という意見が持ち上がって、募金を集めたり、もろもろ面倒な諸事を乗り越えたすえに、昭和57年/1982年9月19日に新墓所完成の記念行事を開くまでに至ります。最初の墓前祭から6年がたっていました。

 ここで偉いなと思うのは、日本文学振興会とか、直木賞の受賞者たちに積極的に声をかけて、新墓所の改修やそれにつづく「南国忌」の発足を実現させたところです。

 直木賞と直木三十五。両者のつながりは、そこから名前を採ったというだけのことで、もはやまったく別モノです。現実はそうなんですが、しかし直木さんの墓所を無理やりにでも直木賞という威光・ブランドに結びつけ、講演者として直木賞受賞者にも臆せず声をかけるうちに、身内の胡桃沢耕史さんがついに受賞をもぎとって、ますます大にぎわい。今年2月は、新型コロナ感染拡大の影響でいったん休止となりましたが、それでも毎年毎年、100名以上の参集者を呼べるイベント「南国忌」を続けている、その始まりに川合澄男さんたちがいたのは大きかった、と思います。

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2021年11月14日 (日)

川合仁(新聞文芸社、日本学芸新聞)。文学賞のことを細かく報じる学芸専門紙をつくった人。

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 直木賞は文藝春秋社がつくったものですが、『文藝春秋』や『オール讀物』だけ追っていても全体像はわかりません。

 いや、間違えました。直木賞の全体像が何なのか、ワタクシも知っているわけじゃないので、「全体像はわかりません」などと偉そうに断言してはいけませんね。文春の出版物をまとめても、それで直木賞の全部がわかるわけじゃない。と、そんなふうなことを言いたかっただけです。

 とくに戦前の直木賞は、文春のなかでも影の薄い存在でした。調べれば調べるほど泣きたくなってきます。となると、よその文献で補っていくしかありません。そんなときに頼もしいのがこれ。『日本学芸新聞』です。

 同紙は昭和10年/1935年11月5日の創刊号から昭和18年/1943年7月1日の第155号の終刊まで、復刻版が不二出版から出ています。直木賞やもうひとつの兄弟賞はもちろん、その当時ぞくぞくとつくられては消えていった悲しき短命の文学賞のことも報じられていて、一般紙を見てもよくわからない文学賞隆盛の時代が刻まれています。この唯一無二の文学賞文献を発行していたのが、川合仁さんです。

 紙面全体をながめてみると、かなり硬派なたたずまいです。文学賞なんちゅう下品な話題ばかり載せていたわけではありません。しかし、文芸とその界隈のことをジャーナリスティックに報道しようという意気が熱く、そのおかげで他ではあまり見かけないような文学賞の記事がいろいろ見当たります。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年・上半期)の芥川賞で、受賞と決まった高木卓さんが辞退した、という有名なニュースの一件です。

 『日本学芸新聞』の記者も高木さんを直撃して、その談話を記事にしているんですが(第91号、昭和15年/1940年8月10日「芥川賞拝辞の弁 高木卓」)、「此辞退は芥川賞の権威とそれを狙ふ新人作家の反省に複雑な波紋を投げるものと信ずる。」とか何とか大いに煽ったうえで、高木さんに「なぜ辞退したのですか。学校の方の関係ですか?」「生活がさし当って困らないからですか?」「しかし、委員会で授賞に決定したといふのにそれを受けてゐないのは却って委員会乃至は芥川賞を冒涜することになりはしませんか?」などなど、やたらとぶしつけな質問をして、高木さんからコメントを引き出しています。高木さんが紳士な方だったからよかったものの、うるせえよ、何が権威だくだらねえ、と突っ返されても文句は言えないところでしょう。

 直木賞でいうと、こんな記事も載っています。第3回(昭和11年/1936年上半期)、海音寺潮五郎さんが受賞した直後です。直木賞に関する感想や批評が、新聞で読めるのは当時としてはまずレアなんですが、さすが『日本学芸新聞』の、文学賞への目配りはひとあじ違うな、と感嘆してしまいます。

「第三回直木賞を海音寺潮五郎氏が獲得したのは当を得てゐる。しかし考ふべき事は、オール讀物と日の出に発表した氏の二長篇が特に傑出してゐたが故の受賞ではなく、これだけの仕事さへする新人が他に無かったといふ事実である

新人に舞台を与へないのか、与へようとしても、これに応ずる力倆のある新人がゐないのか、とにかく淋しい気がする。」(『日本学芸新聞』11号、昭和11年/1936年9月11日「大衆文芸時評 海音寺潮五郎氏の本格的な作品 九月号諸雑誌の作品」より ―署名:山下賢次郎)

 川合さんが書いた文章ではありません。ただ、山下さんの表現にならって言えば、こうして直木賞批評にきちんと舞台が与えられているのは、同紙発行人・川合仁さんのおかげです。

 それによって直木賞がどうなったのか。……影響は全然なかった気もしますけど、実績を重視する直木賞に、何だか冴えない賞だなあ、と感じていた人がいたのはわかります。そういう感覚が、大衆文壇のまわりにも漂い、選考委員のなかにもくすぶった結果、大池唯雄さん(第8回・昭和13年/1938年下半期)とか河内仙介さん(第11回・昭和15年/1940年上半期)あたりの受賞につながった、と見るのは不自然じゃありません。

 当時、直木賞にどのくらいの温度で、どういった意見が批判的に出ていたのか。そういう声を後世に伝えるのも、報道機関としての新聞の役目でしょう。いまを生きるノンキな文学賞オタクが戦前の直木賞批評の一端に触れられるのも、川合さんの苦労の多い新聞経営あったればこそです。ああ、ありがたい。

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2021年11月 7日 (日)

重金敦之(朝日新聞)。雑誌記者でありながら新聞社に勤め、ジャーナリストを名乗る。

20211107

 「文芸ジャーナリスト」という肩書があります。人のことを肩書で見る行為は、たいてい馬鹿にされたり嫌われたりしますが、世の中に肩書が存在するのは、まぎれもない事実です。

 それはともかく、文芸ジャーナリストが謎だらけなことは、文芸記者に負けてはいません。レベルでいえば「直木賞研究家」や「文学賞研究家」と同じくらい、うさん臭い肩書ですが、とくに新聞社に勤めていた記者や編集者が、退職後に名乗る肩書として、よく見かけます。文芸評論家と言い張るのは心苦しい。文学研究家ではシロウトくさい。だけどライターと言ってしまうと軽すぎる。……そんな心の葛藤に折り合いをつけた、多少の重みと、多少の謙虚さを兼ねそなえている、なかなかよくできた肩書です。

 と、そろそろ「直木賞と文芸記者」もネタに詰まってきたので、今週は立派な文芸ジャーナリストに焦点を当てることにしました。かなりの逃げ球ですみません。重金敦之さんです。

 昭和の半ば、経済成長著しい時代に、立派な新聞社だった朝日新聞社に入社。「記者」というよりは編集者として『週刊朝日』に配属されますが、そこはそれ、出版社系の週刊誌とは多少色合いが違って、ジャーナリストふうのお仕事もしたものでしょう。取材に行き、自分でものを書きながら、かたわらで外部の作家たちを相手にして、原稿取りに勤しみます。

 新聞社に勤める制作サイドの人たちの、何ともヌエたるゆえんです。たとえば、先に『大阪毎日新聞』の辻平一さんを取り上げましたが、この人も『サンデー毎日』という週刊誌の編集者でありながら、自分の回想記のタイトルに「文芸記者」という用語を使っています(もしくは、出版担当の意向で、使わされています)。取材者であり、執筆者であり、編集者でもある。主たる仕事の領域が、文芸に関する話題なら「文芸記者」……。というわけですが、じゃあ「文芸編集者」と何が違うのか、線引きの難しいところがあります。

 重金さん自身、この辺りをどうとらえているのか。参考になるのが『編集者の食と酒と』(平成23年/2011年5月・左右社刊)です。

 正式入社する前の5か月間、『文芸朝日』で研修のようなかたちで働いた経験から書き起こされ、入社後に配属された『週刊朝日』での「編集者」体験が書かれています。そこでは、重金さんが「ジャーナリストを職業とするにあたって最も影響を受けた書物の一冊」として、戦後の文藝春秋(および直木賞)を発展させた池島信平さんの『雑誌記者』と、そのなかの一節が紹介されているのです。

 池島さんは、雑誌記者と新聞記者の違いを、前者は浅くて広い知識をもつ、後者は狭くて深い知識をもつ、と語り、また雑誌の記者には自分の媒体がいくらでつくられ、いくらで売れ、いくらの儲けが出て、といった経営感覚が必要だが、新聞記者はそれがない、と言っています。

 金銭勘定うんぬんを出してくるあたりは、さすが池島さんだなと思いますけど、それでは新聞社のなかで雑誌をつくる人種はどうなのか。雑誌記者でもあり新聞記者でもある、というやはりヌエのような性格・性質が求められるのかもしれません。

 だからこそ、それを遠目で見ているこちらは面白い、とも思います。本書では昭和から平成にかけての文壇事情や、文学賞のこともいくつか出てきますが、これを扱う重金さんの筆が、関係者でもなければ、さりとて部外者でもない、どっちつかずの立場からの文章が楽しめます。よく言えばジャーナリスティックな立場、とでも言いましょうか。

 第136回直木賞(平成18年/2006年下半期)の落選作にして、本屋大賞2007の受賞作、佐藤多佳子さんの『一瞬の風になれ』という作品があります。「直木賞と本屋大賞 文学賞の楽屋」のなかで重金さんは、この話題を取り上げ、文学を尺度にする既成の文学賞と、共感や売れ行きにシフトする新しい賞とを比べて語っています。「同列に並べて議論するつもりはないが」と予防線を張るところなどに、いかにも長く記者稼業をしてきた人の、イヤらしい「中立と公正を保ってますよ」アピールが出ていて笑ってしまいますけど、どう見ても両賞を比較して分析している文章です。

「一方は「文学」としての評価であり、片や「売りたい本」の選定だから、並行線をたどるのは自明の理であろう。(引用者中略)青春時代の情念の葛藤などのテーマは今の時代、漫画やテレビのメディアの方が進んでいて、小説(文学)を読むはるか以前に「通過儀礼」を果たしているのではないか。となると小説は後発のカタルシス・メディアとなり、「癒し」のためのツールとして作用する時代なのかもしれない。」(『編集者の食と酒と』所収「直木賞と本屋大賞 文学賞の楽屋」より)

 重金さんの指摘にも一理あるかもしれません。ただ、ワタクシがこの文章を読んで面白いな、と思ったのは、そこではなく、昭和の繁栄期を長く生き、流行作家たちとたくさん接してきた重金さんが、本屋大賞の相手として直木賞(のみ)を据えることを自然だと思っているところです。そうなんだ。直木賞、直木賞とそっちばっかに目が行って、吉川英治文学新人賞みたいな賞は、ガン無視なんだ。あれも、いちおうは文学としての評価をするはずの、プロの作家による文学賞なはずだけど……。

 ときに人間は、現状を解説・説明するための手段として、いろいろな枝葉を思い切って省き、単純な構図をつくり上げて記事にしてしまうことがあります。要点をしっかりと読者に伝えるための手段としては、そういう記述も必要でしょうし、とくに記者と呼ばれる職種の人にとっては、お手のものなんでしょう。文壇を代表する文学賞は少ないほうが記事としてまとめやすいですもんね。どうしても直木賞(ともうひとつの賞)を重視したがるのは、長く文芸記者、兼雑誌記者をやってきた人の宿命なのかと思います。

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