佐佐木茂索(時事新報)。直木賞創設までに、文芸記者として鳴らした経験あり。
直木賞の歴史を追いかけていくと、どうしても新聞という媒体に行き着きます。
いわば、日本の文学賞の根っこには新聞文化がある(あった)……というわけですが、こと直木賞でいえば、文藝春秋社のそもそもの成り立ちに、新聞メディアと文学者の太い関係性があったことを注目しないわけにはいきません。
そうなると、当然、同社トップの菊池寛さんが、新聞記者だった話を出さなきゃいけないんですけど、順序が逆転しちゃうのを承知のうえで、まずは佐佐木茂索さんを先に取り上げたいと思います。直木賞創設者として見たとき、単にワタクシが、菊池さんより佐佐木さんのファンだからです。
佐佐木さんは大正期に相当期待された小説家として知られています。ただ、小説家とは言っても小説だけ書いて食っていけるのは全体のごく一部、というのは、いつの時代も変わりません。佐佐木さんが若かった頃もやはりそうで、大正7年/1918年に新潮社に入社したのが23歳のとき。金子薫薗さんの紹介だったそうです。翌年、新潮社佐藤義亮さんの推薦で、田口掬汀さんの中央美術社に移籍。編集のかたわら、小説修業に励み、この年(大正8年/1919年)「おぢいさんとおばあさんの話」(『新小説』)で世に出ます。
雑誌編集と作家業、二足のわらじで歩きはじめたかと思ったら、大正9年/1920年が明けて早々、今度は『時事新報』の文藝欄を編集してほしい、という話が舞い込んできます。どうやら前に同社で記者をしていた菊池寛さんが推薦したらしいです。いやいや、中央美術に移ったばっかだし、他の人がいいんじゃないの、ほらたとえば小島政二郎とかさ、と佐佐木さんはスマートにかわそうとしますが、小島さんは頑として固辞したらしく、佐佐木君ならできるよ、やってみろよ、と菊池寛さんや加藤武雄さんに背中を押され、けっきょく文芸部主任のかたちで新聞づくりに関わることになりました。以来大正14年/1925年9月まで、25歳から30歳まで、貴重な20代後半の社会勉強の時期に、文芸記者として邁進します。
どうやったら充実した文藝欄がつくれるか。どうやったら文藝をマスメディアの扱う一ジャンルとして発展させていけるか。試行錯誤、いろいろと頭を悩ませながら働いたこの5年間が、佐佐木茂索という稀代の雑誌出版プロデューサーを生み出す礎になったことは、おそらく間違いないでしょう。
文芸部主任だった当時、佐佐木さんが新聞の文藝欄にどんな姿勢で臨んでいたか。こんなことを語っています。
「私が新聞の文藝欄に関係してゐて、何が文藝欄に第一に必要だと感じてゐるか。いゝ批評である。凡そ今日の如く、いゝ批評家のゐない時節はない。
今日の批評が、おほむね印象批評であるだけに、しかもこの批評が直に価値判断を下さんとするものであるだけに、人が一段と獲難いのである。」(『人間』大正11年/1922年1月号 佐佐木茂索「羅布断章」より)
だそうです。ちなみにこの頃の『人間』の編集兼発行人は植村宗一=のちの直木三十五さんだった、というのは、とりあえず措いておきますが、創作は創作だけがあるのではなく、隆盛のためには、いい批評が絶対不可欠だ、力ある批評家よ出でよ、と言っています。どんな時代でも言われがちな、ないものねだりのスローガンかもしれません。ただ、文芸ジャーナリズムの編集側に立ったことで、佐佐木さんがより批評の重要性を感じた、とは言えそうです。
『時事新報』の文藝欄は、佐佐木主任の時代にさまざまに趣向を凝らし、そして大正後期のこの頃、ずいぶんと評判となったと言われています。だいたい謙遜ぎみの回想をする佐佐木さんをして「相当評判のよい文藝欄を作つてゐた」(「新聞記者時代」)を書かしめるぐらいですから、推して知るべし、という感じです。
とくに「いい批評」ということで言うと、川端康成さんに時評を書かせたことが挙げられます。どこの馬の骨ともわからない……と言うと言いすぎですが、大正11年/1922年、『新思潮』同人の東大生というペエペエの青二才だった川端さんに文藝時評をまかせ、批評家・川端康成に光を当てたのは、佐佐木さんの慧眼だったと考えられます。
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佐佐木茂索。明治27年/1894年11月11日生まれ、昭和41年/1966年12月1日没。生まれ、学歴、職歴、その他出世作や代表作については、いろいろ参照できる文献の多い有名人ですので、ざっくり割愛します。
『時事』文芸記者時代の佐佐木さんといって、かならず出てくる功績があります。新人作家を積極的に発掘しようとした、ということです。
その具体例のひとつが「賞」の開催。と来たら、これはやはりのちの直木賞を想像しないではいられません。大正後期のこの時代は、まだ日本に既成作家向けの文学賞というものは根づいておらず、佐佐木さんが企画したのは無名の人にメディアを通してスポットを当てる「懸賞小説」のかたちでしたけど、しっかりと後に残る作家を発掘しています。佐佐木さん自身の回想文だと、こうです。
「短篇小説の懸賞募集をした時は二千篇以上も集つて、その予選には随分厄介だつた。しかし、その時の一等が宇野千代氏で二等が確か横光利一、尾崎士郎氏などといふところで、つまり新進発見の役目を果したわけだつた。
長篇小説の時は、池谷信三郎の「郷愁」が一等になつたが、欧州を舞台にとりせつかく新風みなぎる作風であるのに「郷愁」では古くさいと思つたので「望郷」と改めた。この無断改題は確かによかつたと今でも思つてゐる。」(昭和42年/1967年12月・文藝春秋刊『佐佐木茂索随筆集』所収「新聞記者時代」より)
新聞メディアが、紙面の活性化と売上増強のために懸賞企画を活用しまくった、というのは古く明治からの伝統で、佐佐木さんが先駆者ではありません。しかし裏を返せば、佐佐木さんが懸賞というものに作家を発掘する力があるのを認めて、それをうまく使えば文運隆昌の一助になる、と考えるようになったのは、みずからその企画を運営した新聞記者時代の経験が大きかったのかもしれないな、と思えるところです。
直木賞をつくるまで、それから10年少し。懸賞小説ではなく文学賞へ、とそこに一歩踏み出すまでには、新聞社を辞め、ブラブラし、『文藝春秋』に誘われて編集実務の責任者になって、さらにいろいろな時代の移り変わりと、佐佐木さん自身の意識のスパークがあったことでしょう。
どうやって直木賞の、例のかたちにたどり着いたのか。これだけでは、なかなか説明は難しいと思いますけど、しかしそこに文芸記者としても優秀だった佐佐木さんの、企画を構築する力、表現する力が欠かせなかったのは、たしかです。広く見れば、『時事』時代の経験が、直木賞創設の影にはあったはずだ、となると、つくられた当時からこの賞が新聞ジャーナリズムと親和性が高かったのもうなずける……と言い切っておきたいと思います。
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