福田定一(産経新聞)。おっとりとして、記者らしくない人当たり。実は敏腕文化部記者。
「直木賞を支えた文芸記者」のテーマは、だいたい来年2022年5月ごろまで続ける予定です。それまでに、絶対に触れなきゃいけない人が何人かいます。司馬遼太郎さんも、そのひとりです。
天下御免の有名人。ありとあらゆる人が、ありとあらゆる視点から取り上げていて、身長・体重から、白髪の数まで、およそのことは知れ渡っています。いや、白髪が何本あったのかワタクシも知りませんけど、「司馬遼太郎」、この五文字にはもはや何の新鮮味もありません。今週、さらっと撫でて終わりたいと思います。
何といっても、司馬さんの――ここはあえて本名、福田定一さんと呼んでおきます――、その福田記者についてまとめた本まで出ているのですから参ります。それを読めばいいじゃん、というハナシです。
『新聞記者 司馬遼太郎』(平成12年/2000年2月・産経新聞ニュースサービス刊)は、敗戦後の昭和20年/1945年12月、福田さんが大阪で新世界新聞の記者になってから、京都の新日本新聞へ、そして産経新聞社へと転職した過程をはじめとして、同社内での京都支局時代、大阪本社地方部時代、昭和28年/1953年5月に文化部に移ってからも美術・文学を担当してメキメキと働くことおよそ7年、昭和35年/1960年1月に文化部長だったときに直木賞を受賞するまでの経緯が、さまざまな証言とともに紹介されています。
中身を読むと、当然といいましょうか、福田さんの才能と人柄に対する礼讃に次ぐ礼讃で、読んでいるこちらは食傷ぎみになること請け合いの、タイコ持ち本の一種です。それでも、文芸記者として直木賞を受賞し、「受賞者の横顔」記事を自分で書いてしまったカッチョいい伝説の他にも、文化関係の部署にいたからこそ作家としてデビューできた、その背景がわかりやすく記録されています。貴重な書なのは間違いありません。
新聞記者として、福田さんは毎日取材に走り回って特ダネを抜くような社会部のほうに行きたかった、と言われています。文化部に回されてガッカリしたんだそうです。しかし、ここに『新聞記者 司馬遼太郎』の書き手は疑念を呈しています。
「司馬は地方部に十カ月ほどいただけで異動になり、再び取材部門に復帰した。しかし、今度も、ひそかに希望していた社会部ではなく、文化部だった。
〈文化部へまわされましてね。美術批評を書かされたんでしたが、それがいやで、なんのために新聞記者になったのかというと、火事があったら走っていくためになったんで、もう落魄の思いでした〉(「自伝的断章集成」)
自身の述懐だが、はたして本当のところはどうだったのだろう。文化部への異動がそれほど不本意なものだったのか……。仕事ぶりをみると、美術担当がいやだったとも、落胆していたとも思えないのだが。」(『新聞記者 司馬遼太郎』「第4章 文化部の机にて」より)
イヤイヤやっている、と言いながら、じっさいは結果を残して出世街道まっしぐら。と、ハナシを聞くだけだと、相当イヤミでイヤな奴だという気がしますが、会う人会う人、だいたいが福田記者のトリコになった、という証言はおそらく嘘ではありません。行動力もある、好奇心もある、知識も深い、文章も書ける、そのうえ人当たりがよくてユーモアもある、となれば、鬼に金棒のスーパー文芸記者だったのだろうと思います。
新聞記者から作家になった人は、たくさんいます。直木賞が始まってからに絞っても、受賞者、候補者、何人かの名が浮かぶところです。しかし、福田さんほど、文芸記者としての優秀さを存分に発揮して、まわりからも褒められっぱなし、という人は他に見当たりません。
記者を続けていても、おそらくコラムに解説記事にと活躍し、大阪界隈ではチヤホヤされる記者上がりのエッセイスト、ぐらいの地位にはなれたかもしれません。それはそれで、誰でもがなれるわけじゃないので、直木賞をとらない人生でも、きっと福田さんは一部から尊敬のまなざしで仰がれたことでしょう。
○
福田定一。筆名、司馬遼太郎。大正12年/1923年8月7日生まれ、平成8年/1996年2月12日没。産経新聞社の文化部長になったばかりの昭和35年/1960年1月、36歳で第42回(昭和34年/1959年下半期)直木賞を受賞。その春には出版局の編集部長に転任しますが、作家として筆一本でやっていける目途がついたか、昭和36年/1961年3月で同社を退社。新聞記者生活に別れを告げます。
直木賞を受賞したときの、『産経新聞』の受賞者紹介記事は、福田さんが自分でサラサラと書き上げたそうです。その現場を目のまえで見ていた後輩記者の三浦浩さん、のちに直木賞の候補者となって選考委員・司馬遼太郎と相まみえることになるアノ三浦さんに言わせると、「あっという間に書き上げた。」「素晴らしい出来栄えだった。」(平成8年/1996年9月・勁文社刊『菜の花の賦 小説 青春の司馬さん』)とのこと。どれほど素晴らしい文章だったのか、いろいろな本で紹介されているので、ぜひゲンブツを読んでみてください。
しかし、他の新聞にも文芸記者がいて、彼らもこの競合紙のデキる福田記者のことをジッと見つめていました。いったい外から見た福田記者はどのような印象だったのか。ここでは、そのなかの一紙『朝日新聞』の「人」を引いておきます。
「産業経済新聞大阪本社文化部長というチャキチャキの新聞記者だが、どことなくおっとりしていて、記者という感じがあまりしない。その作品も「ペルシャの幻術師」とか、戦国時代の忍者を扱った「梟の城」など、空想的というか浪漫的というか、およそ新聞記者らしくない作品ばかりだ。この点、同じ大阪の新聞記者出身でも、記者的な取材に重点をおく山崎豊子などとは、まさに対照的だといえる。」(『朝日新聞』昭和35年/1960年1月24日「人 第四十二回直木賞受賞の司馬遼太郎」より ―無署名)
と、そのあとで、いや実は『梟の城』は新聞各紙の購読者ぶんどり合戦を、戦国の忍者に置き換えて書いたものなんですよ、うんぬん、という司馬さんの解説がつづいていくんですが、そうか、『梟の城』って文芸記者の目から見ると、記者が書く小説っぽくないのか。そう言われれば、そうかも、という感じです。
優秀な職業人は、自分の優秀さをこれみよがしに周囲に見せつけたりしない。そこに福田記者の美学も感じます。こういう人を慕うほうの気持ちも十分わかりますので、そりゃあタイコ持ち本の一冊や二冊(いや、数十冊ぐらいはありますか……)つくられたっておかしくないよな、と思います。
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