片岡貢(報知新聞)。直木三十五といっしょに雑誌をつくるはずだった人。
直木三十五さんのまわりにいた文芸記者五人衆。二人目に紹介するのは『報知新聞』の片岡貢さんです。
……と、いきなり言われても、何のこっちゃという感じでしょうが、五人衆については先に取り上げた『時事新報』笹本寅さんのエントリーをご参照ください。直木さんが亡くなる寸前、昭和8年/1933年~昭和9年/1934年ごろに仲良くしていた文芸記者のグループです。
笹本さんによれば、昭和8年/1933年の夏、最初は直木さんとは関係なく、日ごろから親密に付き合っていた5人の文芸記者が、自分たちの名前で責任をもって文章を書いて発表する媒体を持てないだろうか、と相談しはじめたのだそうです。はじめは『ヂヤーナリスト』という仮の誌名を構想していましたが、やがて『学藝往来』と題案が変わり、さらにそこに直木さんも加わって、いよいよ創刊の目途がつく頃には誌名を『日本文藝』とすることが決まりました。そのいきさつは、笹本寅さんの「「日本文藝」のこと――直木三十五氏追悼――」(『文藝』昭和9年/1934年4月号)に詳しいです。
その追悼文には、同誌創刊号の、およその目次アイディアも載っています。直木さんに関していうと、「元寇(歴史小説連載)」「文学評論」「新聞社会画評」「日本剣道史」「匿名小説(現代もの)」などの他、その目次に挙がっていないものでは、小説「私」の続篇とか、「私」に対する批評への感想(というかおそらく作者側からの反論)も書くつもりだったようです。ほんとに一人でこんなに書けるのかよ、と言いたくなるほどの文量ですが、書くよ書くよ、と口先ばっかり達者なくせに、けっきょく書けやしない人って、いまでもいるんですよねえ、と微笑ましくも思えます。
そこに「純粋文学盛衰記」を連載するつもりだった笹本寅さん、と並んで、発起人5人のうち寄稿予定者に名前を連ねたのが、片岡さんです。「世界ヂヤーナリズム紹介(第一回ヒツトラー治下のヂヤーナリズム)」と、「H・G・ウエルズの論文」の訳をするはずだった、とわかります。
片岡さんがどういう文学観をもち、どんな夢を抱いて自分も小説を書こうと思ったのか。よくわかりません。しかしこの頃、片岡さんはまだ30代半ば。国内外の文学(純文藝も大衆文藝も含む)のみならず、ジャーナリズム、社会、国家、歴史、などなど幅広い分野で、言いたいことや書きたいことがウズウズとたまって仕方なかったんだろうな、とは想像できます。
というのも、『日本文藝』を(お金の面からも)バックアップしてくれるはずだった直木さんが、創刊まぎわの昭和9年/1934年2月に死んでしまって、「余りに大きな精神的打撃」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 片岡貢「『日本文藝』のこと」)を受けてもなお、何か筆を使ってぶっ放したいぜ、という意欲が衰えず、翌昭和10年/1935年、今度はプロレタリア畑出身の大衆作家、貴司山治さんのもとに参集して、ついに雑誌創刊までこぎつけるからです。
それが昭和10年/1935年4月に創立された実録文学研究会が出した『実録文学』(同年10月創刊)です。
昭和9年/1934年に直木さんが亡くなり、その直後に直木賞が構想されるわけですが、前後して吉川英治さんが『衆文』『青年太陽』を出したり、三上於菟吉さんがサイレン社を興したり、また貴司さんが言い出して『実録文学』が生まれたりと、この頃の大衆文壇の動きはなかなか活発で面白いものがあります。単に「日本を礼讃する右翼傾向に偏った歴史認識」が大衆文芸界に跋扈した、とだけ見ていては、おそらくこの時代の直木賞周辺の動きをつかみそこねるんでしょう。
尾崎秀樹さんは『実録文学』について、このように解説しています。
「このグループ(引用者注:実録文学研究会)の主旨は、マスコミの走狗となり、文学本来の大衆性を失い、低俗化した一般の文学的風潮を批判すると同時に、新たに実録文学を提唱したものだった。そして全国各地方の郷土史料を蒐集し、正確に記録し、それをもとにしてつくり出される大衆小説、それが実録文学だというのである。同人には海音寺氏(引用者注:海音寺潮五郎)のほかに、岩崎栄、片岡貢、木村毅、貴司山治、大津恒吉、笹本寅、田村栄太郎、戸川貞雄、植村清二の諸氏の名前がみられる。」(昭和53年/1978年12月・朝日新聞社刊 尾崎秀樹・著『海音寺潮五郎・人と文学』より)
その後、貴司さんと、片岡・笹本コンビとのあいだに、何らかの亀裂が入ったらしく、この研究会は空中分解。片岡さんたちは、直木賞をとった海音寺さんとともに『文学建設』(昭和14年/1939年1月創刊)をつくることになって、新たな歴史文学の創造を築こうと悪戦苦闘していきます。戦前戦中、大衆文芸がどういう道を歩んでいくのか、困難な状況を抱えた時代に、片岡さんも相当悩んだでしょう。文学というより、国際分析、世界の歴史のほうへと関心の軸足を移していった模様です。
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片岡貢。明治36年/1903年12月1日生まれ、昭和35年/1960年8月17日没。早稲田実業を出たのち、報知新聞社に入社。学芸部に籍を置き、多くの作家と交流しますが、そのなかのひとりが直木三十五さんだった、ということは前段ご紹介したとおりです。
あまりに直木さんとの接触が強く、またその後『実録文学』だの『文学建設』だのに身を置いたため、どうしても大衆文壇との関係性で語りたくなる人なんですが、片岡さんを「文芸記者」という観点で見ると、大変残念なことに、芥川賞のほうでいくつか逸話を残しています。
大日本雄弁会講談社が出していた『雄弁』で、「時の人 話題の人」というコーナーを担当していた片岡さんが、昭和12年/1937年9月号で芥川賞受賞直後の尾崎一雄さんを取り上げたことなど、そのひとつです。一般的な感覚ではどうか知りませんが、少なくともワタクシの目から見ると、昭和10年代、はじまったばかりの芥川賞は、ものすごいスポットライトが浴びさせられ、それに比べて直木賞はまったく影に隠れた存在だった……と見えてしまいます。片岡さんなら、もうちょっと直木賞に目を向けてくれてもよさそうなのになあ、と残念でなりません。
それと、第1回(昭和10年/1935年上半期)芥川賞のほうでも、裏面史に片岡さんの名前が出てきます。証言者は、和田芳恵さんです。
「「星座」に載った石川達三さんの『蒼氓』を文芸春秋社に持って行ったのは「報知新聞」の文化部にいた片岡貢さんだった。片岡さんも、よく、このことを酒のうえの自慢話にしていた。編集にたずさわる者たちは、つまらぬところで慰めを見いだしている、稚心愛すべき存在なのであろう。」(昭和42年/1967年7月・新潮社刊 和田芳恵・著『ひとつの文壇史』より)
これについては、片岡さんの友人だった下村亮一さんも、やはり同じようなことを語っています。うちのブログでも、昔、萱原宏一さんを挙げたときに紹介していましたよ、とさっきGoogleに教えてもらいました。
なるほど、片岡さんはかなり「蒼氓」に入れ込んでいたみたいですね。第1回の芥川賞を石川達三さんにかっさらわれて、いまも憤りが収まらない太宰治狂信者のみなさんは、ぜひ片岡貢をバッシングしてやってください。おそらく、裏方の存在でもある文芸記者としては、そうやって攻撃・批判されたほうが本望だろう、と思います。
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