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2021年10月31日 (日)

槌田満文(東京新聞)。電話で済ませず執筆者のもとを訪れる慇懃な記者。

20211031

 『東京新聞』の文化部も、なかなかのツワモノぞろいです。

 まだ『都新聞』と名乗っていた頃に文化部で働いていた記者が、のちに続々と作家として羽ばたいていった、という黄金の歴史もあります。すでに取り上げたところでは、中日新聞社の豊田穣記者が、吸収合併した『東京新聞』に移るや否やツキが回ってきて、ついには直木賞をとってしまう、なんてこともありました。

 純文壇のことは知りませんけど、少なくとも直木賞にはやたらと縁のある『東京新聞』。ここらでもう一人、名物文芸記者を挙げておきたいところです。

 槌田満文さんです。昭和31年/1956年、29歳のときに『東京新聞』の文化部に中途入社してから昭和50年/1975年春に退社するまで、およそ20年間文化部に勤めました。頼尊清隆、平岩八郎という強烈な先輩作家の下で、徐々に頭角を現わし、在社中から自分でも昔の小説や芸事、風俗について物を書くうちに『東京』の槌田って、なかなかヤルな、と名が知られるようになります。

 少し『東京新聞』のことを振り返っておきますと、大きく分けて3つの期があります。第一期は明治17年/1884年『今日新聞』として創刊されてから『みやこ新聞』を経て明治22年/1889年『都新聞』となり、昭和17年/1942年に『国民新聞』と統合させられるまで。第二期は、昭和17年/1942年『東京新聞』の創刊から昭和42年/1967年に中日新聞社に営業権を譲渡するまで。第三期はそれ以降です。

 その第二期に当たるおよそ25年の歴史は、とくに社史もなく、まとまった記録が残されていない。何ということだ、おれたちわたしたちが命をかけてつくっていたアノ時代の『東京新聞』のことは、このまま歴史のもくずに消え失せてしまうのか。……という危機感をもった当時のOBたちが相談し、お金を出し合ってつくったのが『内幸町物語――旧東京新聞の記録』(平成12年/2000年7月・内幸町物語刊行会刊)です。その「編集委員会代表」として新庄哲夫さんと並んで名を連ねたのが槌田さんで、彼が中心のひとりとなってこの本がつくられた、と言います。

 槌田さん自身も同書にいくつかの原稿を書いています。見出しだけ挙げると「中断された安吾の「花妖」」「文学論争の仕掛人」「さむらい記者列伝=文化部座談会=伝統を支えた誇り高き男たち」(座談会出席者のひとり)「連載小説の話題作」「私家版『ほのぼの君』」「「オセロ」と渡米歌舞伎」「孤軍奮闘の花柳徳兵衛」です。

 そのなかの「連載小説の話題作」に、直木賞という単語が出てきます。

「梅崎春生の「つむじ風」(三十一年三月~十一月、中尾彰・画)は、直木賞受賞後最初の新聞小説。今東光の「山椒魚」(三十二年三月~三十三年五月、佐藤泰治・画)も、受賞直後の登場だった。

戸板康二「松風の記憶」(三十四年十二月~三十五年五月、佐藤泰治、坂口茂雄・画)と、杉森久英「回遊魚」(三十七年七月~三十八年四月、中尾彰・画)は、いずれも連載中に作者が直木賞を受ける幸運に巡りあわせている。」(『内幸町物語――旧東京新聞の記録』「連載小説の話題作」より ―署名:文化部 槌田満文)

 直木賞をとる以前の、まだ小説を(推理小説を)書き始めたばかりの戸板さんに、いきなり新聞連載を依頼するというのも、大胆不敵なやり口ですが、もちろん戸板さんに長いあいだ劇評を担当してもらっていたつながりが強く利いていたんでしょう。作者連載中に(別の作品で)直木賞受賞、というのは『東京新聞』ならではのラッキーパンチ、と言っていいでしょう。戸板さんの例に限っていえば。

 そして、戸板さんの回想(「東京新聞と私」、初出「綜合ジャーナリズム研究」昭和59年/1984年10月、平成19年/2007年11月・東京創元社/創元推理文庫『中村雅楽探偵全集5 松風の記憶』所収)によれば、このときの連載小説「松風の記憶」を担当していたのが槌田さんだった、とのこと。『東京』文化部のお偉方も下の記者もみんな大喜びだったみたいです。

 文学賞を取材する立場でありながら、小説の原稿をいただき作家に併走する編集者でもある。文芸記者にとって、直木賞の受賞という報は、作家とも出版編集者とも、あるいは一般読者とも違う、別種の感覚を持つものなんでしょう。そりゃあ、読者とのズレも生ずるわけです。

          ○

 槌田満文。大正15年/1926年12月3日生まれ、平成23年/2011年5月31日没。東京高等師範学校を出たあと、都立九段高校で教えながら慶應義塾大学の国文科に学び、大学卒業後に創元社に入社して編集者として働きます。そこで2年足らずのあいだ、宮崎嶺雄、平田寛、辻村明、池田健太郎などと机をならべてしごかれたあと、昭和31年/1956年に『東京新聞』文化部に入社。文芸記者として活躍するうちに、立正女子大学短期大学部文芸科の講師として教壇にも立ち、中日新聞社東京本社を退職後は、大学の先生として研究に執筆に、じっくり腰を据えた生活を送った……ものと思います。

 槌田さんの名前は、一度うちのブログにも出したことがあります

 これも『東京新聞』(というか『都新聞』)つながりの直木賞受賞者、安藤鶴夫さんに触れたときです。須貝正義さんの『私説安藤鶴夫伝』(平成6年/1994年5月・論創社刊)から引用するかたちで、要は安藤鶴夫ってやつは名誉欲にとりつかれ、直木賞をもらった辺りから人が変わって謙虚さがなくなった、みたいなハナシの証言者として、槌田さんの発言を紹介しました。急に人付き合いや態度を変える人間がいれば、そりゃ誰でもイヤなものでしょうけど、とくに槌田さんなどは、そういう相手はかなりお気に召さない性格だったようです。

 対して、同じ演劇&『東京新聞』&直木賞の雄、戸板康二さんとはその後も長く交友がつづきました。と、これも先に引用した戸板さんの「東京新聞と私」に書いてあることですが、槌田さん、長谷川卓也さん、石井幸之助さんの名前が「親しくしてもらった」東京新聞の人として挙がっています。

 戸板さんと親交が深まった、ということは、おそらく槌田さんにガサツな部分が少なく、丁寧さや真摯さが性格に備わっていたからなんでしょう。武蔵野女子大に槌田さんを誘い入れた大河内昭爾さんによれば、記者時代の槌田さんは、

「毎週の原稿うけとりはオートバイの若い人が来たが、電話で用件をすませる風潮が次第に一般化しつつあったけれど槌田さんはいつでも訪ねて見えた。私などより先輩なのに、そのいんぎんな様子は全面的な信頼感を抱かせるに十分だった。」(『武蔵野日本文学』6号[平成9年/1997年3月] 大河内昭爾「槌田満文教授のこと」より)

 ということだそうです。文芸記者だからといって、いつも人のゴシップをあさることに夢中な、イヤらしい人ばかりなわけじゃないんですね(って、どんな偏見だ)。

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