百目鬼恭三郎(朝日新聞)。文芸記者界随一の、偏見と毒舌で知られた男。
直木賞と文芸記者にはいろいろと共通点があります。そのひとつが、拭いきれない「虚しさ」です。
一過性のもの、とでも言いましょうか。効果がつづくのはだいたい短期的、長くても当人が生きているあいだの数十年だけです。やがてパタリと風がやみ、一気に風化して、顧みられることもなくなります。
まあ、ワタクシも含めて人類みんな必ず死ぬわけですから、人間とはすべて一過性だ、と言えなくもありません。誰もがひとりひとり背負っているその虚しさを、直木賞も当然もっています。文芸記者にも哀愁がまとわりついています。時代のながれの渦中で生きるわれわれ全員の宿命です。
ということで、それぞれの時代に大活躍した、ある種のスター文芸記者にも目を向けたいんですが、ここに名前が挙がる人として『朝日新聞』百目鬼恭三郎さんは外せません。舌鋒するどく他人に対する批判をガンガン繰り出し、その攻撃性ゆえにいっときは世間の一部から好まれて、面白がられました。おそらく知識も豊富だったんでしょう。深い洞察力もお持ちだったことと思います。ただ、時代が流れ、本人もこの世にいなくなった現在、もはや百目鬼さんの言っていたことをまともに取り上げる人も消え失せ、友人知人にエコひいきした偏見だらけのクソ評論家、としてのみ知られています。
というのはさすがに言いすぎました。すみません。と謝っておくとしまして、強烈な個性をもった有名文芸記者だったことは間違いありません。うちのブログで昔「直木賞(裏)人物事典」というテーマを書いていたときも、あまり文芸記者は立項しなかったんですが、百目鬼さんを無視するわけにはいかず、一週分取り上げたことがあります。直木賞にとっても重要人物です。
百目鬼さんと直木賞のつながりは、さまざまにあります。そのひとつ、ワタクシもあまり知らなった逸話をここでは挙げておきたいと思います。1970年代ごろ、直木賞も芥川賞も、選考委員はまともに候補作を読まずに選考している、と言われていた時代に、百目鬼さんは毎回みっちり目を通して取材に当たっていた(らしい)ということです。
ご友人、丸谷才一さんがこんなふうに紹介しています。
「とにかく大変な勉強家で、仕事熱心である。
読売文化部の高野さん(引用者注:高野昭)から聞いた話だが、芥川賞・直木賞の決定の日、新橋第一ホテルに集る各社の記者のうち、両賞の候補作全部に目を通してゐるのは彼ひとりだけ。
そこで彼は、一篇々々のあら筋を説明し、批評する。コテンパンに論ずる。
気の早い記者たちは、両賞ともナシに決った、なんて予定記事を書き上げる。
と、そのとき、芥川賞・直木賞各二人などと受賞者が発表されるのである。」(『小説新潮』昭和50年/1975年10月号 丸谷才一「新・今月の3人 友よ熱き頬よせよ」より)
選考委員はともかく、新聞の文芸記者たちも両賞候補作の全部を読んでいた人は、そうそういなかった、ということらしいです。そのなかで百目鬼さんは事前に取り寄せ、すべてを読み、記者たちを前に一席ぶっていたようなんですが、おそらく批評のレベルが高すぎたか、もしくは自分なりに思う文学の幅が狭かったか、予想屋としては大した才能はなかったのかもしれません。偏見の強さが、この紹介文からもにじみ出ています。
偏見、そして毒舌。ここに「天下の朝日」というブランドもくっつくんですから、人気が出るのもよくわかります。『週刊文春』の匿名書評はそのブランドがないので、天下の朝日は関係ないかもしれませんけど、偏見と毒舌だけでも百目鬼さんの大きな特徴になり得ます。よく言ってくれた、とスカッとする読者がおそらくいたでしょうし、ファンもたくさんできたでしょう。
そして、偏見と毒舌っていうのは、だいたいその時代に接するからスカッとするだけです。少し時が経ってみると、その効力は一気に廃れます。百目鬼恭三郎という名前に、そこはかとなく虚しさがしみ付いているのは、彼を有名記者に押し上げたそのストロングなスタイルにも一因があるのかもしれません。
○
百目鬼恭三郎。大正15年/1926年2月8日生まれ、平成3年/1991年3月31日没。生涯にわたって逸話も数多く、ウィキペディアンの編集ゴコロをくすぐるタイプの人でもあります。文壇エピソードはいっぱいネットに残される、だけど彼の文章をいまさら読み返す人はいない。人間は生きているうちが華、という古びた常套句をそのまま体現したような文芸記者です。
その百目鬼さんが関わったエピソードで、知れ渡っている話のひとつが、筒井康隆さんを批評した一件です。筒井さんは筒井さんで、根っからの偏見&毒舌タイプの書き手ですから、その文章でのやり合いを見ても、どっちもどっちの泥仕合、という感じが否めませんが、このときの百目鬼さんの言葉は、筒井批評でありながら直木賞批評でもありました。うちのブログでも過去に取り上げた気がしますけど、いちおう触れておきます。
『朝日新聞』に昭和48年/1973年2月から昭和50年/1975年3月に「作家 Who's Who」という連載記事が載りました。書き手は百目鬼さんでしたが、初出時は匿名での記事です。一回につき一人ずつ現代作家を紹介していく、というテイで、褒めたりケナしたり、ずいぶん評判の高かった記事だと言われています。
そこで取り上げられたのが筒井さんで、タイミングとしては半村良さんが第72回(昭和49年/1974年下半期)直木賞をとった直後のこと。ハナシは、SFで直木賞をもらうなら、半村よりも星新一とか小松左京とか、ふさわしい人はもっとたくさんいる、いや筒井康隆こそ最適ではないか、との声が高い……というところからSFが(筒井さんが)なぜ直木賞をとれないのか、を解説しています。
いわく、筒井のスラプスティック・コメディ、いわばドタバタ喜劇は歯止めが利いていない、というのが百目鬼さんの見解です。
「ドタバタ喜劇が、単なるドタバタに終わらないためには、現代に対する鋭い諷刺を中核としていなければならない。(引用者中略)ベトナム戦争さえ観光化される未来を描いた「ベトナム観光公社」が、現在の作られた観光ブームを徹底的にからかっていることはいうまでもないし、「アフリカの爆弾」では、戸数百足らずの小さなアフリカの新興国が核ミサイルを買う、という奇想天外なアイデアによって、核の拡散を鋭く諷しているのだ。
だが、これらの作品は、途中から急に求心力を失って、羽目を外したドタバタの混乱になってしまうのである。」(昭和50年/1975年10月・新潮社刊、百目鬼恭三郎・著『現代の作家101人』「筒井康隆」より)
たしかにそうだな、と思います。いちおう百目鬼さんは、旧来の文学観の延長線上でものを考える「文学賞」脳の持ち主なので、これでは文学賞はとれないだろう、と言っています。じっさい、この作風を筒井さんが継続していたら、のちの文学賞ホルダーへの道はなかったと推測できますし、百目鬼さんにしては珍しく、そこまで的外れなことは書いていません。
しかし、なにぶん百目鬼さんの文章は、偉そうです。「おれは何でもわかっているんだ」臭がぷんぷんします。
筒井さんがこれに応戦して、グダグダの泥仕合になっていくのも、そもそも百目鬼さんの偉そうな分析口調があったればこそ。そして、このことで百目鬼さんの名前を知る人がさらに多くなったのは間違いありません。ときには偉そうな口を聞いて、辛口の鎧をまとう百目鬼さんのようなやり方も、ありっちゃあり、ということでしょう。けっきょく人間は洩れなく死んで、忘れ去られていくのですから。
| 固定リンク
「直木賞を支えた文芸記者たち」カテゴリの記事
- 豊島薫(都新聞)。往年の直木三十五よろしく「ゴシップ」書きに長けた男。(2022.05.29)
- 白石省吾(読売新聞)。直木賞と芥川賞のバカ騒ぎは峠を越した、と言ってしまった人。(2022.05.22)
- 平野嶺夫(東京日日新聞、など)。直木賞のウラに、なぜだか関わりのある人。(2022.05.15)
- 浦田憲治(日本経済新聞)。直木賞はエンターテインメントの賞だと言われてきた、と言い続ける。(2022.05.08)
- 足立巻一(新大阪)。記者時代に知り合ったライバル紙の記者が、直木賞受賞。(2022.05.01)
コメント