« 小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。 | トップページ | 由里幸子(朝日新聞)。芥川賞の歴史における女性作家を語らせたら第一級。 »

2021年9月19日 (日)

辻平一(大阪毎日新聞)。新聞社から売れる週刊誌をつくり上げた大衆文芸界の偉人。

20210917

 ワタクシは直木賞のファンです。直木賞のことだけ見つめていたいのです。ところが世間は、そう単純じゃありません。

 「直木賞を知りたければ、直木賞以外のものを見ろ」という格言があります。ありましたっけ。よくわかりませんが、たしかに直木賞は、「じゃないほう」の存在として長命を保ってきた、という側面があります。「芥川賞(純文学)じゃないほう」「エロ・グロじゃないほう」「通俗読み物じゃないほう」「売れスジじゃないほう」……ってことは、直木賞を知るには、「じゃあるほう」の芥川賞とか純文学、エロ・グロ・通俗、あるいはそのときどきで「ブーム」と呼ばれる現象を起こしてきた多種多様な小説ジャンルを知っておかないと、ハナシになりません。こちらは直木賞を見つめたいだけなのに、まったく世間の複雑さにはうんざりします。

 それで、仕方なしに昔の文壇回顧物とか大衆文芸の歴史とかを調べることになるんですけど、このとき必ず通ることになるテッパンの本があります。『文芸記者三十年』(昭和32年/1957年1月・毎日新聞社刊)や『花にあらしのたとえもあるぞ』(昭和57年/1982年8月・私家版)……『サンデー毎日』記者として活躍した辻平一さんの作家交友録です。

 辻さんと直木賞といえば、いろいろエピソードがあります。『サンデー毎日』の懸賞でデビューして「直木賞初の懸賞出身受賞者」になった海音寺潮五郎さんとの生涯にわたる交流とか、戦後、直木賞をとるまえの新進作家だった源氏鶏太さんを『サンデー毎日』の読み切り連載に大抜擢したとたん、源氏さんが直木賞をとって、直木賞に先んじて売れる作家に目をつける慧眼を発揮した件などなど。

 ともかく『サンデー毎日』は、大正期から昭和前半に「大衆文芸」を日本に定着させた、ということだけで歴史に名を刻まれてもいい、直木賞にとっても大恩あるメディアですが、そのなかで千葉亀雄さんと辻平一さんという二人の人物が関わっていたことが、いかに重要だったか。以前うちのブログでもさんざん取り上げたように覚えています。

 この二人には共通した特質がありました。すでに名の知れた流行作家や大家ばかりを起用するのではなく、新しい書き手を愛し、我が身を削って新人発掘に賭けたこと。……これに尽きるでしょう。

 新人発掘が大事だ、なんてことは、おそらく雑誌の編集者や新聞社の記者たち、多くの人がわかっていることです。なので、べつに千葉さんと辻さんの、二人だけに特有のハナシではないんですけど、「大衆文芸」懸賞に送られてきた何千編という応募原稿を全部ひとりで読み尽くして入選作を決めていた、という千葉さんの「狂っている」としか思えない伝説的な逸話などは、やはり新人発掘に身を削っていた証しでしょうし、辻さんもまた、新しい作家に入れ込んで支援を惜しまなかった姿が、さまざまに伝えられています。

 と、そんな辻さんのことを知るに当たってありがたいのが、息子にあたる辻一郎さんの『父の酒』(平成13年/2001年3月・清流出版刊)という一冊です。なぜありがたいのかというと、昔の有名作家とどんな交流をしていたか、というような、巷に腐るほど出ている文壇裏バナシの本とは一線を画し、「辻平一」という文芸記者の生態に、いちばんの焦点を当てて書かれているからです。

 ここにも、新人好き・発掘好きだった辻さんのことが、当然出てきます。

「出版界の大立者、この池島(引用者注:文藝春秋の池島信平)と父(引用者注:辻平一)をならべたのでは、非常識のそしりをまぬがれまい。しかしそうではあってもふたりは多くの点でよく似ていた。ただ残念ながら池島が身につけていた豪快さを、父はもちあわせていなかったが、雑誌づくりを〈骨の髄から好き〉な点では同じだった。それだけではない。池島は新しい作家を見出し、育てることを何よりの楽しみにした人物だったが、その点でも同じだった。それだけに意気投合することも多かったのだろう。手帖によれば、よく一緒に飲んでいる。」(辻一郎・著『父の酒』所収「父の酒」より)

 毎日ボーッと過ごしていると忘れがちなんですが、文藝春秋社の根本のどこかに、新人発掘の熱心さがあるのはたしかでしょう。直木賞とか芥ナンチャラ賞とかをつくって、この発掘企画を育ててきたのは、ひとつの現われです。新人起用に積極性を見せた『サンデー毎日』から、幾人もの直木賞候補者や受賞者が生まれていったのは、けっして偶然ではありません。文春の考えと相性のいい辻さんが、懸命に働いた結果だ、と見るのが自然でしょう。

          ○

 辻平一。明治34年/1901年8月4日生まれ、昭和56年/1981年8月9日没。大阪外国語学校の露語部を卒業後、昭和2年/1927年に大阪毎日新聞社に入社。京都支局、大阪本社学芸部を経て、昭和8年/1933年に大毎学芸部東京駐在を拝命して東京に赴任。『サンデー毎日』の編集に従事します。戦後しばらくまでのあいだ、『サン毎』の編集は基本的に大阪が主導権を握っていて、辻さんの勤務地も、東京であったり、また大阪に戻ったりと、たびたび変わりますが、昭和25年/1950年から東京で『サン毎』編集長、編集顧問を歴任し、昭和31年/1956年に定年退職。その後はフリーのような立場で原稿を書いたり、相談に乗ったりして、大衆文芸勃興期の生き字引として暮らしました。

 没後に息子の一郎さんが編んだ『花にあらしのたとえもあるぞ』には、辻さんのくわしい(くわしすぎる)年譜が載っています。その記者生活を追ってみると、目につくのは大衆文芸の隆盛だけではありません。大きな戦争にからむジャーリストや作家たちの動静や、大阪と東京それぞれに地盤をもつ新聞社の関係性など、直木賞の発展にまったく無縁とも思えない昭和前半の時代背景が濃密に表われています。

 そこから関連の話をたどり始めるとキリがないので、ここでは、うちのブログテーマに関係するものを拾っておきたいと思います。それは「週刊誌の編集をする新聞記者」という役柄についてです。

 今年、うちのブログでは「文芸記者」を扱っています。これまで登場したほとんどの人が属していたのは、日刊の新聞本紙でした。

 辻さんが「文芸記者」として活動したフィールドは、そうではありません。週刊誌。新聞社に入社し、新聞記者の顔を持ちながら、しかし任された仕事は週刊誌づくり。……辻さんの記者人生で、いちばん注目しなきゃいけないのは、まさにその点かもしれません。

 というのは、ワタクシみたいな外野が見れば、辻平一さんの仕事は、どれだけ讃えても足りないほどの偉業だと思うんですけど、どうも社での扱いはそれほどでもなかったらしいのです。

(引用者注:『サンデー毎日』の)売上げがどんなに伸びても、(引用者中略)平一は社内でまったく評価されなかった。それがいささかさびしかったようである。

(引用者中略)

新聞社には「新聞が本業だ」という思いが、全社に徹底してある。大事なのは新聞であり、週刊誌はいわば付録だという意識である。だから付録が多少売れようと売れまいと、さしたる大事ではないという認識である。」(辻一郎・著『父の酒』所収「第二部 ある新聞記者の物語」より)

 いまではどうか知りませんが、昭和前半の新聞社では、週刊誌編集などはある種の傍流だった、ということでしょう。そのことで辻さんは、悔しい思いや晴れない思いを抱えた日があったものと思います。

 ただ、「じゃないほう」だった週刊誌だからこそ、「じゃないほう」の大衆文芸が育つ余地があったのだ、そして新しい文化として発展していったのだ。と考えると、辻さんの文芸記者生活からは、「じゃないほう」の重要さがひしひしと伝わってきます。

|

« 小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。 | トップページ | 由里幸子(朝日新聞)。芥川賞の歴史における女性作家を語らせたら第一級。 »

直木賞を支えた文芸記者たち」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。 | トップページ | 由里幸子(朝日新聞)。芥川賞の歴史における女性作家を語らせたら第一級。 »