小塙学(共同通信)。芥川賞(と直木賞)にマスコミが群がり始めた当時の証言者。
こないだ、『没後15年 文芸評論家・小松伸六の仕事』(令和3年/2021年7月・北方文学研究会刊)をつくった盛厚三さんに会ったんですけど、その席でこんなことを言われました。「冊子のこと、Twitterで紹介してくれたみたいだね。だけど、川口さんのツイートって反響まったくないんだね」。ずいぶん、あきれた様子でした。
そもそも何で、ワタクシのやることに反響がある、と盛さんが勘違いしていたのか。思い当るふしもなく、盛さんにガッカリされて正直こちらこそ困惑します。反響がなきゃ普通の人間は20年もサイト&ブログ運営をつづけないだろう、という推測なのかもしれません。残念ながら、直木賞が好きでやっているだけです。
ということで、今年の6~7月は、ワタクシも小松伸六さんのことを自分なりに調べて、いろんなものを読みましたが、小松さんと縁のあった作家に井上靖さんがいます。井上さんは『朝日新聞』に「氷壁」を連載中の昭和32年/1957年、取材のために穂高の山麓を歩いて以来、たびたび仲間たちと山行を楽しんだ人です。およその目的は、年に一度、北アルプスの涸沢に登ること。その集まりは、いつからか「かえる会」と呼ばれるようになり、「氷壁」の挿絵を担当した生沢朗さんのほか、野村尚吾、瓜生卓造、福田宏年、長越茂雄などの諸氏のほか、新聞社・雑誌社の編集者や、少し年配の井上さんと親しい文筆家・作家の人たちもぞくぞくと参加します。
「氷壁」の担当記者だった『朝日新聞』森田正治さんの回想録『ふだん着の作家たち』(昭和59年/1984年6月・小学館刊)によると、そこに小松伸六さんも「名誉会員」として名を連ねていたらしいです。「かえる会」には、森田さん以外にも数々の新聞記者がいたようで、今週は井上靖さんと親しかった「かえる会」会員の文芸記者を取り上げたいと思います。
共同通信社に勤めた小塙学さんです。
文芸記者にもさまざまなタイプがあります。うちのブログの視点でいうと、大衆文芸・エンタメ小説界に強い文芸記者か、そうでない記者か、という分類法が思い浮かぶところですけど、小塙さんはおそらく後者。純文芸の文壇に広く顔を売っていた人かと思われます。「直木賞」の歴史に登場することはありません。
……ないんですが、芥川賞のほうではその限りではなく、昭和30年代ごろの「芥川賞>>>>>直木賞」という芥川賞偏向ジャーナリズム時代にその中核で記者を務めてきた、文学賞史の重要な証人のひとりです。
昭和34年/1959年、文春のライバル新潮社の『新潮』(3月号)が「芥川賞の候補者たち」と題する随筆ミニ特集を組みました。編集部に求められて寄稿したのは、落選組から有吉佐和子さん、澤野久雄さん、そして受賞者の小島信夫さんの他に、文芸記者の小塙さんでした。
自ら報道する立場でありながら、小塙さんの基本姿勢は、芥川賞報道には戦後ジャーナリズムの異常性が現われている、というものです。半年に一回、芥川賞の季節になると、報道機関がワッと受賞者、候補者、選考委員たちのまわりにたかる。それで心を病み、あるいは過信・錯覚したすえにつぶれていく新人作家を生み続ける非人道的な現象。わかっているんだ。おれだって、それが異常なことは理解しているんだ。だけど、群がることをやめられず、えらそうに文学賞を分析・解説してしまう文芸記者の悲しき習性が、よく出ている文章です。
その悲しさがわかるところがあります。芥川賞を盛り上げてきた共犯者たる文芸記者の責任を棚に上げ、けっきょく違うところを責め立てて、自分の原稿を終えている点です。
「芥川賞や直木賞はあくまでもピック・アップ方式によつて、銓衡が進められている。作家、批評家たちから広く作品の推せんを受けて、それを厳選したものが「予選通過作品」だとはいつても、その作品を書いた本人の“意志”とはやはり無縁である。候補に上げられればもちろん嬉しいだろうし、候補に上つた以上は、受賞したいという“願望”も持つだろうが、それはどこまでも間接的な“願望”である。勝手にピック・アップされ、勝手に論議されたあげく、ボイコットされて、あとはおかまいなしというのでは、少し残酷すぎはしないかという。
(引用者中略)
「予選通過作品」の決定だけは、もつと慎重にやつてほしいと思う。」(『新潮』昭和34年/1959年3月号 小塙学「残酷な文学賞」より)
いやいや、主催者に責任を転嫁するより、まず自分のところの会社が、直木・芥川賞だけ異常に注目する姿勢をやめればいいじゃないか。……と思うのですが、小塙さんも文芸記者としての矜持があるんでしょう。もしくは会社員として、自社や自分の業界を批判しちゃっては出世に響きますから、そちらに矛先を向けられない事情もわかります。まったく悲しいとしか言いようがありません。
○
小塙学(こはなわ・まなぶ)。大正10年/1921年6月23日生まれ、平成6年/1994年12月15日没。慶應義塾大学の文学部を出て、昭和21年/1946年に共同通信社に入社すると、文化部の記者として活躍。メキメキと出世しまして、画信部長、第二文化部長、編集委員室長などを歴任した、と伝えられています。
黒田佳子さんの『父・井上靖の一期一会』(平成12年/2000年2月・潮出版社刊)には、昭和20年代、大井森前町にあった井上靖さんの家に、たびたび宿泊していた小塙さんのエピソードも少し出てきます。いわく「(引用者注:慶応大学の)恩師からたくさんの結婚話を世話されていたと聞いている小塙さんは、共同通信に勤め、結婚話に恵まれすぎてか、かなりの晩婚になった」とのこと。晩婚の結果、まわりから冷やかされた、という姿からは人から愛される小塙さんの人柄が感じ取れます。
また、『三田文学』平成7年/1995年春季号(5月刊)に寄せられた小塙さんへの追悼文は、杉森久英さんの「小塙君のこと」、半田拓司さんの「「ハナちゃん」追想」の二つありますが、やはり小塙さんの愛すべき人柄を偲ぶ内容では共通しています。
杉森さんは、例の「かえる会」での小塙さんの愛敬ある言動を回想。歌をうたい、場を盛り上げるタイプの人だったとか。
さらに故人のイメージをより詳しく記録しているのが半田さんです。小塙さんを「独特の風格を持つ人」と言う半田さんは、学芸欄担当のデスクだった時代、上司である文化部長の田英夫さんからも、下に従える新井直之さんや、高井有一こと田口哲郎さんなど、後輩記者たちからも「ハナちゃん、ハナちゃん」と呼ばれていた、という逸話を紹介しています。このあたり、記者としての優秀さの他に、組織をうまく動かせる人間性も垣間見えるところです。
芥川賞や直木賞がジャーナリズムの餌食になってからも、そんなものつぶれればいい、とは、おそらく小塙さんは思っていなかったでしょう。生まれてしまったものは仕方ない。そういうものがある前提で、いかに報道していくか。穏健な小塙さんの姿勢は、『新潮』に寄せた「残酷な文学賞」の文章にも十分にじみ出ています。
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