澤野久雄(朝日新聞)。文芸記者やりながら作家として売り出し、一気に芥川賞も卒業。
新聞社に勤める文芸記者が、自分でも小説を書いた、という例はよくあります。
すいません。言いすぎました。昭和20年代から30年代は、新聞記者が本業のかたわら小説を書いて、直木賞やら何やらの候補になるケースがけっこう生まれた、そのなかに文芸担当の記者も多少含まれていた……と言い直します。
21世紀のいまとなっては、遠い昔のハナシですね。新聞記者と小説家、もとをたどれば同じ穴のムジナ、という状況がまだ十分残っていた戦後まもない頃に、朝日新聞で文芸記者をしながら小説を書いたのが、澤野久雄さんです。
その後、次から次へと小説を書きまくり、昭和の中盤に作家専業になって、川端康成の劣化コピーだ何だと揶揄されながら(……いや、されたのか?)一家をなした人です。平成4年/1992年に亡くなったので、来年で没後30年。もはや名前を聞くこともすっかり絶えて、完全に消えた作家となってしまいました。
しかも残念なことに、澤野さんは直木賞とさほど関わりがあったわけじゃありません。うちのブログで触れるのはスジ違いなんですけど、しかし直木賞ならぬ芥川賞とは、強いつながりもあるし、その作家的履歴を見れば直木賞とカスっている、ということで、このまま続けることにします。
澤野さんが小説家として初めて注目されたのは昭和24年/1949年のときでした。藤沢桓夫さんのまわりでつくられていた大阪の同人誌『文学雑誌』に「挽歌」を寄せたところ、思いがけず第22回(昭和24年/1949年下半期)芥川賞の候補になります。
いつかうちのブログで吉井英治さんのことを取り上げました。この人も『文学雑誌』同人で現役の新聞記者でしたが、第23回に直木賞の候補入り。それを考えると澤野さんも、別に直木賞候補でもおかしくなかったと思います。しかし王道どおりと言いますか、まず芥川賞のほうで候補になってしまったのが、残念でなりません。
いわゆる人生の別れ目、ってやつです。澤野久雄37歳。
そこで直木賞の候補になっていたら、いったいどんな未来が待っていたのか。「挽歌」を候補作として読んだ芥川賞選考委員の川端康成さんから、じきじきに手紙をもらうこともなければ、文芸誌から注文が舞い込むこともなく、その後も文芸記者として職務をまっとうし、影から文壇と文学を語る人として生を終えたかもしれません。
仮定のハナシをしても仕方ないので、現実世界に目を向けます。澤野さんが芥川賞の候補になったのは、第22回を始め、第33回までに都合4度。昭和20年代後期のことです。直木賞(というか芥川賞)の歴史としては、「石原慎太郎登場以前の、原始の時代」と言われます。
しかし、澤野さんが異常だったのは、彼自身が文芸記者をしていたことです。いくら「直木賞・芥川賞は、騒がれてなかった」と言っても、文芸記者にとっては常識も常識、第22回の芥川賞は井上靖がとりそうだ、と事前に何となくわかっていましたし、第28回のときは、報道発表より先に受賞情報をつかんで、妻に話したりしています。
何よりこの当時、まわりの人たちが芥川賞のことをヤイノヤイノと話題にしていた、と当然のように書き残していて、驚きます。
「僕は(引用者注:昭和27年/1952年)当時、神奈川県大磯町に移つていたが、問題は僕一人のことではなくなつて来つつある。妻は近所の人たちから、「芥川賞候補になつている澤野さんというのは、お宅の御主人ですか?」という質問をうけるようになる。
(引用者中略)
芥川賞候補にさえならなければ、人からとやかく言われる筋はない。堅実なるサラリーマンであれば、なおさら平穏無事である。僕が物を書くばかりに、妻は近隣から、余計なことを言われなければならない。(『新潮』昭和34年/1959年3月号 澤野久雄「私設・残念賞」より)
一般読者が興味をもつ前(と言われる)原始の時代に、文学賞を支えていた最大の援軍は文芸記者たちでした。そのなかに澤野さんもいたから、おのずと隣近所の人たちも、文壇行事にすぎない芥川賞に、目ざとく注目していた……と思えなくもありません。しかし、けっこう大磯の人たちは、一般的な覗き見趣味の延長で、芥川賞の候補まで知っていた、とも読み取れます。慎太郎より以前であっても、局所的には芥川賞は普通のニュースレベルで知られていたのかもしれませんね。
○
澤野久雄。明治45年/1912年12月生まれ、平成4年/1992年12月17日没。旧制浦和中学から早稲田第二高等学院、早稲田大学国文科を経て、昭和11年/1936年に『都新聞』に入社、新聞記者として歩みはじめます。
しかし、どうも社内で上手に立ち回れなかったものか、『東京朝日』に転職したのが昭和15年/1940年12月のこと。すぐに大阪勤務を命じられ、妻と幼な子を抱えて、まったくなじみのない大阪に赴任します。応召されて軍隊に入れられますが、昭和20年/1945年9月、召集解除後に朝日新聞大阪本社に復職。昭和22年/1947年、整理部から学芸部に異動になったころに、大阪文壇のドン・藤沢桓夫さんと親交を結び、どや書いてみいひんか、と小説の執筆を勧められて、同人誌に参加したところから芥川賞の候補入り。そして作家としての道が開けます。
ちなみに、澤野さんは芥川賞4度目の候補のあと、文藝春秋新社の上林吾郎さんの訪問を受け、あなたの作品はもう候補にしません、と言われたらしいです。理由は、「あんた、本は出るし、映画は出来るし、芥川賞は新人賞ですからね」(前掲「私設・残念賞」)ということだそうで、わざわざそういう説明をしに出版社の編集者がやってくる、というところからも、すでに澤野さんが作家として大切にされ始めていたことがわかります。
朝日新聞を退社したのは、それからしばらくした昭和34年/1959年のことです。文芸記者でありながら小説家……という期間を10年ほど過ごしたことになります。
小説なんか書いてカッコつけやがって。たかが記者ふぜいが、コノヤロー。と、口さがない野次を飛ばす連中がいるのは、いまも当時も、事情はそんなに変わらないようです。まったく世の中はだいたいクソみたいなんですが、澤野さんはそこはグッとこらえて、まわりから文句を言われないように、本職の記者稼業をよけいに頑張ることを心がけた、といいます。何だか自己啓発本にでも出てきそうなハナシです。
はたで見ていた毎日新聞社の野村尚吾さんも、「連載小説を受け持っても、正確で、骨惜しみをしない。手を抜くようなことは、絶対にしまいと頑張りぬいていた。」(『新日本文学全集』昭和39年/1964年4月「月報27」所収「意地っ張り」)と証言しています。澤野さん、ほんとに頑張ったんでしょう。
結果、文芸記者の道からは降りて、作家専業になるわけですが、これもまた記者時代に頑張りぬいたのと同様、作家としても多くの媒体に、多くの連載を持ち、売れっ子のひとりとして物書き業を頑張ります。
芥川賞では卒業になっても、その後、直木賞のほうに鞍替えさせられる作家は、何人も見られます。その意味で澤野さんも、直木賞に擬せられて不思議ではなかったんですが、あまりに売れっ子ぶりが過ぎると、さすがに直木賞のほうでも声をかける芽はなくなります。澤野さんが直木賞の候補に挙がらなかった理由は、そんなところにもあるかもしれません。
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