笹本寅(時事新報)。作家たちに愛されて、文学史の一大事に居合わせる。
直木賞に名が残る直木三十五さんとは、いったいどんな人だったのか。これはもう、けっこういろんな人がいろんな文献で紹介しています。この程度の作家にしては語られすぎだろ、というくらいです。
作品の内容はともかく、直木って人はいくら語っても尽きないほどに面白い人だったんだな、ということかもしれません。直木さんの特徴といえば、何よりもまず、その人物の特異さです。それが、昭和初期にほんの数年で新聞・雑誌にドバーッと活躍の場を広げて流行児になった、大きな理由なんじゃないかとさえ思います。
ともかく直木さんは人から愛されました。というか、まわりの人から面白がられました。作家、評論家、編集者……。そして、もちろん、そこに新聞記者も含まれます。ということで今日は、直木賞の前史、直木さんが生きていた頃に文壇と併走していた文芸記者のおハナシです。
とくに直木さんの周辺にいた文芸記者のなかで、仲のよかった5人グループがあります。それぞれ別の新聞社に勤めていましたが、おれたちゃ署名なしの原稿もたくさん書くけど、それじゃどうしても責任感が稀薄になる、自分たちの名前で雑誌を出すことで、もっと責任をもって勉強していこうじゃないか……と話し合って、昭和8年/1933年夏に、雑誌発刊の計画を立てた若き文芸記者の面々。報知新聞の片岡貢、東京朝日新聞の新延修三、読売新聞の河辺確治、都新聞の豊島薫、そして時事新報の笹本寅さんです。
とりあえずその全員、重要人物ですので、折をみて順次取り上げていきたいと思いますが、今週注目するのは、のちに直木さんばりの歴史物・時代物を書いて大衆作家となり、そのなかの一冊『維新の蔭』が第9回(昭和14年/1939年上半期)直木賞の予選で審議されたことがわかっている人。時事新報にいた笹本寅さんです。
笹本さんの直木さんに対する肩入れぶりは、ちょっと異常に思えるほどで、相当その人柄に惚れ込んでいたようです。昭和8年/1933年12月、笹本さんは時事新報を退社、これはほとんど社のやり方に反対する意をこめた、辞表を叩きつけるテイの退社だったみたいですが、ここにも直木さんが絡んでいます。
「時事新報退散記」(昭和9年/1934年3月・橘書店刊『文壇手帖』所収)によると、回数の制限はない、という条件で直木さんに連載小説を依頼し、「大阪落城」を書いてもらっていたところ、急に社の都合で「中休み」をお願いしたい、となったとき、最初の約束をたがえるようなことを言い出すわけにはいかない、もし直木さんの連載を終了させなければならないのなら、私は担当記者として詰め腹を斬ります、と義理を通して、けっきょく時事新報を辞めるにいたったそうです。
美しいと見るべきか。アホらしいとあきれるべきか。わかりませんけど、義理と仁義こそ、たしかに笹本さんの人となりを示すトレードマークです。
別の言葉で、大宅壮一さんはこんな笹本寅評を書いています。
「私が『人物評論』という雑誌を始めるころで二十年も前のことである。
大衆作家の笹本寅は、当時『時事新報』の文芸部の記者だった。(引用者中略)笹本は、新劇俳優の草分けの一人として知られた笹本甲午の弟で、若いころはサトー・ハチローなどとともに浅草を根城にした仲間である。気だては悪くないがけんか早い。それに人相もあまりよくない。」(昭和31年/1956年10月・角川書店刊、大宅壮一・著『人生旅行』所収「旅の相棒物語」より ―引用原文は『大宅壮一全集第七巻』)
「気だては悪くないがけんか早い」……というのは、当時もいまもよく見る類いの人種です。そして、こういう人ほど、まわりから愛されるのが、この世の習いでしょう。喧嘩っぱやさゆえに、笹本さんはきちんと給料をもらえていた時事新報社を、わずか勤務3年たらずで辞め、文芸記者稼業からも短期間で足を洗うことになりますが、人から可愛がられ、面白がられる性格のせいか、その後も文芸界に踏みとどまって、多くの仕事を残しました。
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笹本寅。明治35年/1902年5月25日生まれ、昭和51年/1976年11月20日没。直木さんから見て、だいたい10歳ぐらい年下の年代です。出身は佐賀県唐津で、昔うちのブログで『玄海派』という同人誌を紹介したとき、少し名前が出てきたことがありますが、東洋大学を中退後、春秋社に入社したのが大正14年/1925年のこと。同社から出ていた『大菩薩峠』中里介山さんの担当編集者となって、中里さんと交流を深めます。
そんな笹本さんが新聞の文芸記者になったのは、昭和5年/1930年に春秋社を飛び出し、昭和6年/1931年頃に時事新報社に入ってからですが、先に挙げたように昭和8年/1933年暮で退社しているので、およそ30歳前後の3年弱。短い在職でした。
しかし、この記者時代に「笹本寅ここにあり」と、名を上げたことは間違いないところです。
近代作家研究叢書『文壇手帖』(平成1年/1989年10月・日本図書センター刊)の中島河太郎さんの解説によると、昭和7年/1932年6月6日から『時事新報』に「文壇郷土誌」を連載します。「芸術派」「文芸春秋の巻」「文芸時代」「不同調」などと進んだあと、「大衆文学篇」「既成作家篇」「プロ文学篇」(プロレタリア文学篇)と、昭和8年/1933年春まで続きました。こりゃえらく面白い読み物だな、と作家を含め読者からも大好評だったそうです。
気だては悪くないがけんか早い、愛すべき30歳前後の笹本さんは、巷で、酒場で、旅先で、精力的に動き回り、取材をしながらガンガン、ゴシップ方面に強くなっていきます。
時事の編集局長だった和田日出吉さんが、美貌で知られた矢田津世子さんと毎週のようにデートしていて、それを書き込んだ手帳をたまたま拾った笹本さんが、何も知らずにそのゴシップネタを吹聴しているのを聞いて、坂口安吾、ガーンと青ざめる……といったことがあったのも、笹本さんが文芸記者だった頃です。あるいは、プロレタリア文学に関心のあった笹本さんは、蔵原惟人さんを自宅に匿ってあげたこともあったんだとか。そして何より、いちばんのエピソードは、昭和8年/1933年2月21日、社にかかってきた「小林多喜二が急死」の電話に驚いて、その場にいた大宅壮一さん、貴司山治さんといっしょに築地署に行き、文学史上とんでもない事態の現場を取材した、という一件でしょう。
昭和8年/1933年2月、多喜二の死は間違いなく日本の文学の潮流を変えた一大事です。その1年後、直木三十五の死は、日本の文学の潮流を変えた……かどうか、まあそこまでのことではないかもしれません。ただ、文学賞の歴史にとっては、その年、そのタイミングで直木さんが死んだことが大きな分岐点だった、と見ることはできます。
となると、そのどちらの場面にも身近にいた笹本寅さんの、圧倒的な存在感! あ、いや、圧倒的な「あんた、何でまた、そこにいるの!?」感がまぶしすぎて仕方ありません。文芸記者として大切な才を持っていた、ということでしょう。記者を辞めてしまったのは勿体ない、と言うしかありませんが、それでは笹本さん、その後どんなふうに小説家として飯を食っていくようになるのか。という第二章は、またいずれ機会があれば取り上げてみたいと思います。
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