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2021年8月22日 (日)

金田浩一呂(産経新聞、夕刊フジ)。芸能化する直木賞で、記者会見の代表質問を任された男。

20210822

 これまでたくさんの文芸記者が生きてきました。たいていは裏方で、ほぼ無名な人たちですが、「名物記者」と呼ばれる人がときどき現われます。

 「名記者」ではありません。「大記者」でもない。あえて「名物記者」と呼ばれるからには、それなりの特徴があるはずです。人柄がユニークとか、表舞台で目立つことも厭わないとか。どこかネジの外れた変人クラスの記者に付けられる称号。それが「名物記者」です。たぶん。

 直木賞のハナシを調べていても、こういう人たちはやはり目に付きます。名物な人は、記者活動だけに終わらず、いろいろと文章を残し、著書というかたちで後世の人間も一端を知ることができたりします。ありがたいです。金田浩一呂さんもまた、その文壇交流の一部を『文士とっておきの話』(平成3年/1991年11月・講談社刊)にまとめてくれました。

 と、この本のなかみを紹介する前に、まずは金田さんがいかに直木賞と縁の深い人だったか。そこから触れてみます。

 時は1980年代。金田さんも十分に(?)記者として実績を積んだ50代のころ。直木賞は、爆発と炎上の時代を迎えていました。硬い文芸書の売れ行きが凋落するいっぽう、人気が出るのはポップで軽いものばかり。その風に流された文学賞(直木賞とか芥川賞ですね)もまた、やたらと芸能化が甚だしくなっちゃって、とても見ちゃいられない、などと揶揄され、馬鹿にされた時代です。

 そんなタイミングで『新刊展望』に「文学賞の話」というシリーズ読み物の連載が始まります。書き手は『夕刊フジ』学芸部の記者、金田さんです。

 昭和57年/1982年1月号から昭和58年/1983年8月号まで全20回。毎号ひとつずつ文学賞のことを取り上げ、その創設経緯や歩み、裏バナシなどを解説していくという内容です。連載の第1回目が、直木賞じゃなくて芥川賞なのは、両賞に対する一般的な風潮が現われていて、もう「そりゃそうだよな……」とため息をつくばかりですけど、このときに金田さんは直木賞をどう紹介したか。ちょうど第85回(昭和56年/1981年・上半期)の発表から半年経たず、といったタイミングでしたので、とにかく話題は「直木賞(と芥川賞)の芸能化」についてでした。

 受賞者の記者会見が行われた。こんなことを毎回やって記者が集まるのは、直木・芥川賞ぐらいのものだ。しかも第85回は、青島幸男さんが直木賞をとったというので、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京と、在京キー局6つが取材に来た。これは、両賞史上はじめてのことだった。さらに大きな特徴は、翌日の新聞は一般紙よりもスポーツ紙の芸能面のほうがこの受賞を大きく扱った。これもまた、いままでにはなかった現象だ。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の石原慎太郎の芥川賞受賞が、この賞を社会現象化させたのだとすると、以来25~26年、いよいよ文学の芸能化現象にまで到達したのだ。うんぬん。

 まったくです。この段階で、暗くてジメッとした文学行事「直木賞」の命は終わった、とも言えるでしょうし、派手でチャラチャラした芸能ニュースとして直木賞の新たな命が始まった、と言っていいでしょう。楽しい世界の到来です。わーい。

 この状況を現場で逐一目の当たりにしたひとりが、金田浩一呂という人物だった。……というわけですが、金田さんの文章を読んでも、そこまで「芸能化」を悲観していないのは、この記者の特質かもしれません。それよりも金田さんが問題視していたのは、おそらく直木賞の「節操のなさ」です。

 いや。節操のなさ、というか、基準のあいまいさ、というか。何を選考基準に据えて、どういう目的で賞を与えるのか。あまりに茫漠として、まわりの文芸記者のみならず、当の選考委員たちさえ共通見解を持てていない。どうなっとるんじゃ。ということです。

 芥川賞は「作品」に与えられるのに対して、直木賞は「作家」が重視される……と、よく言われます。それなのに、直木賞にも「候補作品」があって、選考の前提はそれらの作品です。金田さんが取材に当たっていたときも、この不思議な状況のおかげで、何度も直木賞のおかしさに遭遇したものと思います。選考委員の城山三郎さんが、作品重視で行こうとして、作家重視の選考風土に合わず辞任した、なんてこともありました。

「作品一本ヤリの芥川賞と違い、直木賞はプロ作家としての実績も物を言うのではないか。少なくとも私などは、そう聞かされ、理解してきた。(引用者中略)

“作品”か“人”かは、いつも問題になる。勧進元の文藝春秋は、そこらをある程度まで、はっきりすべきだ、と思う。」(金田浩一呂・著『文士とっておきの話』「せっかちで勉強家(城山三郎)」より)

 ワタクシみたいに外野から遠目に眺めている分には、そこら辺がはっきりしていないからこそ、直木賞は面白いんじゃないか、と感じます。しかし、賞の当落で生まれる人間模様を見たり、じっさいにそこに関わる人たちと個人的な付き合いも重ねてしまった文芸記者は、面白がってばかりもいられないのでしょう。いつもモヤモヤした感情を、周囲に抱かせる。直木賞の、ほんとイケないところです。

          ○

 金田浩一呂。昭和7年/1932年2月13日生まれ、平成23年/2011年7月20日没。中央大学法学部を卒業後、昭和38年/1963年に産経新聞社に入社。整理部、甲府支局、文化部を経て、昭和55年/1980年に『夕刊フジ』の学芸部長となり、編集委員を経て、平成1年/1989年定年退職したあとは、読み物、エッセイ、コラムを書きながら暮らしました。

 産経の本紙ひと筋ではなく、途中で『夕刊フジ』に活躍の軸を移した(移された)ところに、金田さんが文芸記者として特異な存在だったことが現われています。

 芸能・スポーツ紙(なんですよね?)の『夕刊フジ』で、文芸の記事を担当することになったのが、80年代。直木賞が芸能化だ何だと騒がれたのも80年代。時代といえば時代ですけど、こうして自分の記者生活まで芸能化した文芸記者というのは、なかなか珍しく、よっぽど金田さんが直木賞の界隈に寄り添っていたかが、よくわかります。

 『夕刊フジ』の関係でいえば、『文士とっておきの話』には城山三郎さんに直木賞からの訣別を決断させた立役者、胡桃沢耕史さんのことも載っていて、胡桃沢さんが「夕刊フジで大きく扱われると、落ちるというジングスがある」とコメントした、という面白いハナシも紹介されているんですが、ここでは金田さんに関する逸話に絞って終わりたいと思います。

 直木賞の(記者会見の)芸能化は、青島幸男さん以降もどんどん進みました。つかこうへいさんが現われ、胡桃沢耕史さんの下品で正直な物言いが物議を醸し、山口洋子・林真理子・落合恵子の才女トリオ騒ぎのなかで、山口さんと林さんが立て続けに受賞、そして山田詠美さんの伝説の会見へと続いていく……。直木賞じゃない直木ショーだ、ショーだショーだ、と馬鹿のひとつ覚えみたいな、あまり面白くもない野次が直木賞に対してさんざん投げられたこの時代、記者会見の中心を担っていたのが、誰あろう、金田さんです。

「「産経新聞」「夕刊フジ」で長く文芸記者を務めていた金田浩一呂(63)は、ちょうどそのころ(引用者注:山口洋子が受賞した昭和60年/1985年上半期ごろ)、受賞者記者会見でやっかいな仕事を頼まれる。代表質問をやってくれというのだ。

「テレビのリポーターがずらっと並んで、まず『どういうストーリーでしょうか』という質問から入る。それに芸能人に対するように質問をするので、主催者の文藝春秋としては抵抗があったんでしょう」」(平成8年/1996年2月・産経新聞ニュースサービス刊『戦後史開封3』「芥川賞・直木賞」より)

 あの時代、直木賞の会見に代表質問なんて形式があったのか! というのは、個人的には新鮮な驚きです。まあ、いまでもテレビのリポーターが会見に加わって、質問したりすると、ニコニコ生放送の観覧者から「くだらない質問するな」とバッシングが飛ぶので、基本的に芸能系の記者は、文学賞の会見で異質に見られることは変っていないんでしょう。

 とともに、代表質問を主催者がお願いしようと思ったとき、金田さんに白羽の矢を立てた、というところが抜群に面白いです。文芸記者である。同時に、芸能方面にも目配りが利く。……「名記者」ならぬ「名物記者」ならではの特異な立ち位置が、金田さんと直木賞を深く結びつけていたんだろうなあ、としみじみ感じます。

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