門馬義久(朝日新聞)。直木賞受賞前の久生十蘭に、ケンカ腰で連載を書かせる。
あらためて告白します。ワタクシは直木賞が大好きです。何かを調べるときは「直木賞に関係するかどうか」から入ります。小説の愛好者からは邪道だと馬鹿にされ、作家志望の層からは単なるゴシップ漁りだと軽蔑されて、けっきょくどこに行っても仲間のいない孤独な日々ですけど、自分の好みは変えられません。仕方のないことです。
で、今週の主役の門馬義久さんも、直木賞と深い関連はなさそうです。だけど、直木賞を調べていると、どうしたって目に入ります。存在感がハンパありません。
たとえば、永井龍男さんに『回想の芥川・直木賞』(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊)という本がありますが、そこに異常なこだわり癖をもった作家として久生十蘭さんが出てきます。久生さんはあまりに文章表現にこだわりすぎて原稿の進みが遅く、さらには「原稿はもう出来上がっているんだ」などと言って担当記者を油断させておきながら、なかなか仕上がらず、編集者たちを困らせた……というのは有名な逸話なんだそうです。探偵小説の界隈では有名なんでしょう。こういうハナシも、ワタクシは直木賞(というか永井龍男さんの文章)を通して知りました。
永井さんが披露しているのは、こんなエピソードです。
『朝日新聞』に久生さんが連載中、担当記者が原稿を取りに鎌倉の家を訪ねると、すでに東京駅に「駅止め便」で送ったところだという。ところがこれが大ウソで、記者が東京の本社に行ってもそんなものは届いていない。あせった記者は、もう一度鎌倉に舞い戻り、一枚でも二枚でも頂かないかぎりは帰りません、と宣言。すると久生十蘭、何を血迷ったか奥さんに、しまっておいた機関銃を出せ、いまからこの男を撃ってやる、と言い放ったのだそうです。ムチャクチャです。
「子供だましにも程のある話だが、作り話ではない。当時久生十蘭係りを担当した。朝日文化部記者、M氏から直接聞いた実話である。腹は立つし、可笑しいし、M氏はその場の始末に困ったということだった。」(永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)
と、ここに出てくる朝日の文化部記者M氏が、門馬義久さんを指しているのは明らかです。昭和26年/1951年『朝日』夕刊に連載された「十字街」の担当だった門馬さんは、この手の「久生十蘭に困らされた逸話」を、他にもいろいろなところで話しているからです。
そちらを参照してみると、久生さんが困った作家なのはもちろんなんですが、対する門馬さんも大したタマで、かなり血の気の多いやりとりをしていたことがわかります。門馬さん、まだ30代なかばの若手です。それが50歳手前の久生さんと丁々発止、とにかく「連載の原稿をもらってくる」という自分の仕事に必死に邁進しています。
機関銃のエピソードも、門馬さん本人が語るところでは微妙に永井さんの筆と違い、先に物騒な言葉で脅しをかけたのは、門馬さんのほうだったのだとか。
「朝、「すぐ出来る」というので紅ヶ谷の彼(引用者注:久生十蘭)の家へ出かけて行くととんだ出鱈目。「おっつけ出来る」と言うから上りこんで待つ。昼食が済んでもまだ出来ない。(引用者中略)いい加減じりじりしてくる。「出来た」というのを受け取って社へ出ようとすると「ちょっと待て」。「気になるところがあるから手を入れたい」というのである。
一日積りに積った鬱憤が爆発した。「もう駄目だ。原稿が間に合わなければ、社を辞め、女房子供連れてここへ住み込む、その積りでいろ、義秀(中山義秀)のとこで刀を借りてきて、ぶった斬る」とやった。すると十蘭は夫人に、「おい、押入から機関銃を持って来い」と来た。これには思わず大笑いしてしまった。」(平成13年/2001年2月・鎌倉山教会刊『トタン屋根の牧会者 鎌倉山教会と門馬義久』所収 門馬義久「思い出の人――山本周五郎――」より)
おそらく長い記者生活のなかでも、久生さんとの攻防は強烈だった、ということなんでしょう。のちに「困らされた作家」を門馬さんが語るときには、持ちネタのひとつのように、たいてい当時の久生さんのことが出てきます。
それとこの話を読んだとき、もうひとつワタクシの心に残ったことがあります。時代は「十字街」連載のときですから昭和26年/1951年。ということは、つまり久生さんは直木賞の受賞者ではなかった時期なんだな、という点です。
門馬さんの回想に、そのことが書かれているわけではありません。ただ、夕刊とはいえ『朝日新聞』の連載に抜擢されるような作家は、ある程度、実績を積んだ人であることは間違いなく、そのあたりは1950年の頃も、まわりの人たちに共有されていたでしょう。
それから約半年後に開かれた第26回(昭和26年/1951年・下半期)の直木賞選考会で、久生十蘭なんちゅう一家をなした作家に直木賞をやるのは賞の性格にそぐわない、と何人か反対して、選評にも「大家すぎる」とか「すでに人気を確立した人」とかさんざん言われました。その背景には、『朝日』連載に起用されたほどの作家、という感覚が選考委員のあいだにあったんだろうな、と推測が成り立つわけです。
あまりの凝り性ゆえに、久生さんの直木賞受賞もこれほどに遅れてしまったのだ……というのは、ちょっと言いすぎかもしれません。しかし、久生さんが担当記者泣かせだった、というときに門馬さんの話は欠かせません。直接的にではないけど、直木賞の遠景に姿を見せる文芸記者、門馬義久さん。忘れがたく印象に残ります。





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