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2021年8月の5件の記事

2021年8月29日 (日)

門馬義久(朝日新聞)。直木賞受賞前の久生十蘭に、ケンカ腰で連載を書かせる。

20210829

 あらためて告白します。ワタクシは直木賞が大好きです。何かを調べるときは「直木賞に関係するかどうか」から入ります。小説の愛好者からは邪道だと馬鹿にされ、作家志望の層からは単なるゴシップ漁りだと軽蔑されて、けっきょくどこに行っても仲間のいない孤独な日々ですけど、自分の好みは変えられません。仕方のないことです。

 で、今週の主役の門馬義久さんも、直木賞と深い関連はなさそうです。だけど、直木賞を調べていると、どうしたって目に入ります。存在感がハンパありません。

 たとえば、永井龍男さんに『回想の芥川・直木賞』(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊)という本がありますが、そこに異常なこだわり癖をもった作家として久生十蘭さんが出てきます。久生さんはあまりに文章表現にこだわりすぎて原稿の進みが遅く、さらには「原稿はもう出来上がっているんだ」などと言って担当記者を油断させておきながら、なかなか仕上がらず、編集者たちを困らせた……というのは有名な逸話なんだそうです。探偵小説の界隈では有名なんでしょう。こういうハナシも、ワタクシは直木賞(というか永井龍男さんの文章)を通して知りました。

 永井さんが披露しているのは、こんなエピソードです。

 『朝日新聞』に久生さんが連載中、担当記者が原稿を取りに鎌倉の家を訪ねると、すでに東京駅に「駅止め便」で送ったところだという。ところがこれが大ウソで、記者が東京の本社に行ってもそんなものは届いていない。あせった記者は、もう一度鎌倉に舞い戻り、一枚でも二枚でも頂かないかぎりは帰りません、と宣言。すると久生十蘭、何を血迷ったか奥さんに、しまっておいた機関銃を出せ、いまからこの男を撃ってやる、と言い放ったのだそうです。ムチャクチャです。

「子供だましにも程のある話だが、作り話ではない。当時久生十蘭係りを担当した。朝日文化部記者、M氏から直接聞いた実話である。腹は立つし、可笑しいし、M氏はその場の始末に困ったということだった。」(永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第二章」より)

 と、ここに出てくる朝日の文化部記者M氏が、門馬義久さんを指しているのは明らかです。昭和26年/1951年『朝日』夕刊に連載された「十字街」の担当だった門馬さんは、この手の「久生十蘭に困らされた逸話」を、他にもいろいろなところで話しているからです。

 そちらを参照してみると、久生さんが困った作家なのはもちろんなんですが、対する門馬さんも大したタマで、かなり血の気の多いやりとりをしていたことがわかります。門馬さん、まだ30代なかばの若手です。それが50歳手前の久生さんと丁々発止、とにかく「連載の原稿をもらってくる」という自分の仕事に必死に邁進しています。

 機関銃のエピソードも、門馬さん本人が語るところでは微妙に永井さんの筆と違い、先に物騒な言葉で脅しをかけたのは、門馬さんのほうだったのだとか。

「朝、「すぐ出来る」というので紅ヶ谷の彼(引用者注:久生十蘭)の家へ出かけて行くととんだ出鱈目。「おっつけ出来る」と言うから上りこんで待つ。昼食が済んでもまだ出来ない。(引用者中略)いい加減じりじりしてくる。「出来た」というのを受け取って社へ出ようとすると「ちょっと待て」。「気になるところがあるから手を入れたい」というのである。

一日積りに積った鬱憤が爆発した。「もう駄目だ。原稿が間に合わなければ、社を辞め、女房子供連れてここへ住み込む、その積りでいろ、義秀(中山義秀)のとこで刀を借りてきて、ぶった斬る」とやった。すると十蘭は夫人に、「おい、押入から機関銃を持って来い」と来た。これには思わず大笑いしてしまった。」(平成13年/2001年2月・鎌倉山教会刊『トタン屋根の牧会者 鎌倉山教会と門馬義久』所収 門馬義久「思い出の人――山本周五郎――」より)

 おそらく長い記者生活のなかでも、久生さんとの攻防は強烈だった、ということなんでしょう。のちに「困らされた作家」を門馬さんが語るときには、持ちネタのひとつのように、たいてい当時の久生さんのことが出てきます。

 それとこの話を読んだとき、もうひとつワタクシの心に残ったことがあります。時代は「十字街」連載のときですから昭和26年/1951年。ということは、つまり久生さんは直木賞の受賞者ではなかった時期なんだな、という点です。

 門馬さんの回想に、そのことが書かれているわけではありません。ただ、夕刊とはいえ『朝日新聞』の連載に抜擢されるような作家は、ある程度、実績を積んだ人であることは間違いなく、そのあたりは1950年の頃も、まわりの人たちに共有されていたでしょう。

 それから約半年後に開かれた第26回(昭和26年/1951年・下半期)の直木賞選考会で、久生十蘭なんちゅう一家をなした作家に直木賞をやるのは賞の性格にそぐわない、と何人か反対して、選評にも「大家すぎる」とか「すでに人気を確立した人」とかさんざん言われました。その背景には、『朝日』連載に起用されたほどの作家、という感覚が選考委員のあいだにあったんだろうな、と推測が成り立つわけです。

 あまりの凝り性ゆえに、久生さんの直木賞受賞もこれほどに遅れてしまったのだ……というのは、ちょっと言いすぎかもしれません。しかし、久生さんが担当記者泣かせだった、というときに門馬さんの話は欠かせません。直接的にではないけど、直木賞の遠景に姿を見せる文芸記者、門馬義久さん。忘れがたく印象に残ります。

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2021年8月22日 (日)

金田浩一呂(産経新聞、夕刊フジ)。芸能化する直木賞で、記者会見の代表質問を任された男。

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 これまでたくさんの文芸記者が生きてきました。たいていは裏方で、ほぼ無名な人たちですが、「名物記者」と呼ばれる人がときどき現われます。

 「名記者」ではありません。「大記者」でもない。あえて「名物記者」と呼ばれるからには、それなりの特徴があるはずです。人柄がユニークとか、表舞台で目立つことも厭わないとか。どこかネジの外れた変人クラスの記者に付けられる称号。それが「名物記者」です。たぶん。

 直木賞のハナシを調べていても、こういう人たちはやはり目に付きます。名物な人は、記者活動だけに終わらず、いろいろと文章を残し、著書というかたちで後世の人間も一端を知ることができたりします。ありがたいです。金田浩一呂さんもまた、その文壇交流の一部を『文士とっておきの話』(平成3年/1991年11月・講談社刊)にまとめてくれました。

 と、この本のなかみを紹介する前に、まずは金田さんがいかに直木賞と縁の深い人だったか。そこから触れてみます。

 時は1980年代。金田さんも十分に(?)記者として実績を積んだ50代のころ。直木賞は、爆発と炎上の時代を迎えていました。硬い文芸書の売れ行きが凋落するいっぽう、人気が出るのはポップで軽いものばかり。その風に流された文学賞(直木賞とか芥川賞ですね)もまた、やたらと芸能化が甚だしくなっちゃって、とても見ちゃいられない、などと揶揄され、馬鹿にされた時代です。

 そんなタイミングで『新刊展望』に「文学賞の話」というシリーズ読み物の連載が始まります。書き手は『夕刊フジ』学芸部の記者、金田さんです。

 昭和57年/1982年1月号から昭和58年/1983年8月号まで全20回。毎号ひとつずつ文学賞のことを取り上げ、その創設経緯や歩み、裏バナシなどを解説していくという内容です。連載の第1回目が、直木賞じゃなくて芥川賞なのは、両賞に対する一般的な風潮が現われていて、もう「そりゃそうだよな……」とため息をつくばかりですけど、このときに金田さんは直木賞をどう紹介したか。ちょうど第85回(昭和56年/1981年・上半期)の発表から半年経たず、といったタイミングでしたので、とにかく話題は「直木賞(と芥川賞)の芸能化」についてでした。

 受賞者の記者会見が行われた。こんなことを毎回やって記者が集まるのは、直木・芥川賞ぐらいのものだ。しかも第85回は、青島幸男さんが直木賞をとったというので、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京と、在京キー局6つが取材に来た。これは、両賞史上はじめてのことだった。さらに大きな特徴は、翌日の新聞は一般紙よりもスポーツ紙の芸能面のほうがこの受賞を大きく扱った。これもまた、いままでにはなかった現象だ。第34回(昭和30年/1955年・下半期)の石原慎太郎の芥川賞受賞が、この賞を社会現象化させたのだとすると、以来25~26年、いよいよ文学の芸能化現象にまで到達したのだ。うんぬん。

 まったくです。この段階で、暗くてジメッとした文学行事「直木賞」の命は終わった、とも言えるでしょうし、派手でチャラチャラした芸能ニュースとして直木賞の新たな命が始まった、と言っていいでしょう。楽しい世界の到来です。わーい。

 この状況を現場で逐一目の当たりにしたひとりが、金田浩一呂という人物だった。……というわけですが、金田さんの文章を読んでも、そこまで「芸能化」を悲観していないのは、この記者の特質かもしれません。それよりも金田さんが問題視していたのは、おそらく直木賞の「節操のなさ」です。

 いや。節操のなさ、というか、基準のあいまいさ、というか。何を選考基準に据えて、どういう目的で賞を与えるのか。あまりに茫漠として、まわりの文芸記者のみならず、当の選考委員たちさえ共通見解を持てていない。どうなっとるんじゃ。ということです。

 芥川賞は「作品」に与えられるのに対して、直木賞は「作家」が重視される……と、よく言われます。それなのに、直木賞にも「候補作品」があって、選考の前提はそれらの作品です。金田さんが取材に当たっていたときも、この不思議な状況のおかげで、何度も直木賞のおかしさに遭遇したものと思います。選考委員の城山三郎さんが、作品重視で行こうとして、作家重視の選考風土に合わず辞任した、なんてこともありました。

「作品一本ヤリの芥川賞と違い、直木賞はプロ作家としての実績も物を言うのではないか。少なくとも私などは、そう聞かされ、理解してきた。(引用者中略)

“作品”か“人”かは、いつも問題になる。勧進元の文藝春秋は、そこらをある程度まで、はっきりすべきだ、と思う。」(金田浩一呂・著『文士とっておきの話』「せっかちで勉強家(城山三郎)」より)

 ワタクシみたいに外野から遠目に眺めている分には、そこら辺がはっきりしていないからこそ、直木賞は面白いんじゃないか、と感じます。しかし、賞の当落で生まれる人間模様を見たり、じっさいにそこに関わる人たちと個人的な付き合いも重ねてしまった文芸記者は、面白がってばかりもいられないのでしょう。いつもモヤモヤした感情を、周囲に抱かせる。直木賞の、ほんとイケないところです。

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2021年8月15日 (日)

笹沢信(山形新聞)。元・芥川賞信者。年を経て直木賞受賞者の評伝を書いた人。

20210815

 新聞の文芸記者にはいろんな人がいます。当たり前です。東京に本社がある、いわゆる「全国紙」と呼ばれる新聞だけが、記者の職場ではありません。少し他の地方のことにも目を向けてみたいと思います。

 直木賞もそうですし、芥川賞なんかはもっと強烈ですが、この二つの賞は「東京とそれ以外の地方」という地域的な文学環境が日本でどのように変化し、発展(ないし衰退)してきたのか、という社会的なテーマをはらんだ文学賞です。単に、受賞者にどの地方出身者が多いか・少ないか、みたいなことだけじゃなく、東京を中心とする文芸出版で生まれた権威性が、各地域に伝播して受け取られるうちに、やたらと羨望されて持ち上げられ、実質以上のブランド力を得ることになっていく、という問題もあります。

 それはそれとして、「日本各地における直木賞の受容の歴史」は、また改めて調べていきたいところですが、今日はひとまず山形の、一人の文芸記者のことを取り上げます。昭和の半ばから『山形新聞』で文芸記者として活躍したあと、退職してから山形出身の有名な直木賞受賞者について、評伝を2冊も書いてしまった人。笹沢信さんです。

 笹沢さんには、井上ひさしさんのことを書いた『ひさし伝』(平成24年/2012年4月・新潮社刊)と、それから『藤沢周平伝』(平成25年/2013年10月・白水社刊)があります。平成26年/2014年4月に亡くなったあとには、遺稿的な扱いで『評伝 吉村昭』(平成26年/2014年7月・白水社刊)も出ました。

 吉村昭さんは直木賞とは少し距離がありますけど、妻の津村節子さんが直木賞の候補者になった辺りのハナシは吉村さんとも無縁ではなく、評伝のなかには当然「直木賞」の文字も出てきます。そもそも吉村さんは、純文学の作家とは見なせるでしょうけど、芥川賞の人でないことはたしかですし、オール讀物新人賞、新田次郎文学賞、吉川英治文学賞の選考委員にお声がかかったところを見れば、直木賞寄りの(「大衆文芸」寄りとは違う)作家だとも思えます。

 ともかく、井上ひさし、藤沢周平、吉村昭。……と、全国区のビッグネームすぎる作家を、晩年になってわざわざ執筆の対象に選んだところが、笹沢さんの大きな特徴です。それぞれの作家の履歴と作品のなかに、山形という地域がどれだけ影響を及ぼしたか、ということを手をかえ品をかえ差し挟んでくる技が、山形人・笹沢信の腕の見せどころで、また読みどころでしょう。

 しかし、それとは別に、これらの評伝3作には、隠しがたい笹沢さんなりの屈託が出ています。ワタクシにとってはそこが最も興味惹かれる部分でした。というのも笹沢さんは昭和40年/1965年~平成10年/1998年に『山形新聞』の文芸記者を務めながら、同時に自分でも創作を志す同人誌作家だった、ということです。昭和30年代後半以降、ひさし、周平、昭の小説が続々と書かれ、出版界を賑わせた時期、大学生から社会人になっていった笹沢さん自身は、ひとりの文学青年として三者の作品に接していた、と言います。

 大学時代は同人誌に参加し、そこでは芥川賞の季節になると、候補作の発表と同時に作品を取り寄せて、みんなで受賞作を予想する賭けをした(『評伝 吉村昭』「はじめに」)なんて回想もあって、これがだいたい60年ぐらい前の昭和30年代後半です。いまも、1月と7月には、ネット上でいろんな人が予想記事を出していますが、ああいうのは半世紀以上まえからやっている人たちがいたんだ、日本の文学賞予想文化って、けっこう奥深いんだな、と正直ヒいてしまいます。

 それぐらいならまだいいんですけど、笹沢さんの黒歴史はそんなものじゃありません。芥川賞至上主義だった己の過ちを、こんなふうに振り返っています。

「わたしにも、文学は〈純文学〉であらねばならぬ、という〈信仰〉に囚われていた時期があった。「芥川賞にあらずんば……」である。直木賞となると敬遠する、というより無視する傾向にあった。愛読していた立原正秋や五木寛之の初期の作品が直木賞を受賞したときは憤慨さえ覚えたものだ。周知の通り、ひさし(引用者注:井上ひさし)は直木賞作家である。」(笹沢信・著『ひさし伝』より)

 井上さんの直木賞受賞は昭和47年/1972年上半期。立原さんや五木さんの受賞は、それより5年ぐらい前のことです。ふうん、昭和40年代っていうのは、そういう文学青年が跋扈していたんだよね、時代だよなあ、と、ここは軽く受け流す記述なんでしょう。

 だけど、正直いってワタクシは腹が立って仕方ありません。こんな文学かぶれのキモい信者が、当時、若手の記者として平気な顔して新聞をつくっていたというのです。直木賞は無視してもいいんだ、程度の認識で文学なるものをとらえる視野の狭いアホめが。何が「憤慨さえ覚えたものだ」だ。それを言いたいのはこっちだよ。

 ……まあ、昔の笹沢さんに怒ったって何の解決にもなりませんね。すみません。おそらく笹沢さんもその後、記者として働くうちに自分の未熟さを反省し、直木賞の先見性や意義について見直してくれた、とは思うんですが、あまりそういう気配が著作物から伝わってこないのが残念です。

 それでも、直木賞に何ひとつ興味がなかったはずの笹沢さんが、晩年にいたって、けっきょく直木賞受賞者を評伝を書くにいたったその心境や、出版状況の変化が面白いのだ、と言いたいと思います。全国の文学青年に馬鹿にされながら、それでもめげずに、コツコツ積み上げてきた直木賞の苦悩の歴史が、笹沢さんのバッグに透けて見えるからです。

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2021年8月 8日 (日)

笹本寅(時事新報)。作家たちに愛されて、文学史の一大事に居合わせる。

20210808

 直木賞に名が残る直木三十五さんとは、いったいどんな人だったのか。これはもう、けっこういろんな人がいろんな文献で紹介しています。この程度の作家にしては語られすぎだろ、というくらいです。

 作品の内容はともかく、直木って人はいくら語っても尽きないほどに面白い人だったんだな、ということかもしれません。直木さんの特徴といえば、何よりもまず、その人物の特異さです。それが、昭和初期にほんの数年で新聞・雑誌にドバーッと活躍の場を広げて流行児になった、大きな理由なんじゃないかとさえ思います。

 ともかく直木さんは人から愛されました。というか、まわりの人から面白がられました。作家、評論家、編集者……。そして、もちろん、そこに新聞記者も含まれます。ということで今日は、直木賞の前史、直木さんが生きていた頃に文壇と併走していた文芸記者のおハナシです。

 とくに直木さんの周辺にいた文芸記者のなかで、仲のよかった5人グループがあります。それぞれ別の新聞社に勤めていましたが、おれたちゃ署名なしの原稿もたくさん書くけど、それじゃどうしても責任感が稀薄になる、自分たちの名前で雑誌を出すことで、もっと責任をもって勉強していこうじゃないか……と話し合って、昭和8年/1933年夏に、雑誌発刊の計画を立てた若き文芸記者の面々。報知新聞の片岡貢、東京朝日新聞の新延修三、読売新聞の河辺確治、都新聞の豊島薫、そして時事新報の笹本寅さんです。

 とりあえずその全員、重要人物ですので、折をみて順次取り上げていきたいと思いますが、今週注目するのは、のちに直木さんばりの歴史物・時代物を書いて大衆作家となり、そのなかの一冊『維新の蔭』が第9回(昭和14年/1939年上半期)直木賞の予選で審議されたことがわかっている人。時事新報にいた笹本寅さんです。

 笹本さんの直木さんに対する肩入れぶりは、ちょっと異常に思えるほどで、相当その人柄に惚れ込んでいたようです。昭和8年/1933年12月、笹本さんは時事新報を退社、これはほとんど社のやり方に反対する意をこめた、辞表を叩きつけるテイの退社だったみたいですが、ここにも直木さんが絡んでいます。

 「時事新報退散記」(昭和9年/1934年3月・橘書店刊『文壇手帖』所収)によると、回数の制限はない、という条件で直木さんに連載小説を依頼し、「大阪落城」を書いてもらっていたところ、急に社の都合で「中休み」をお願いしたい、となったとき、最初の約束をたがえるようなことを言い出すわけにはいかない、もし直木さんの連載を終了させなければならないのなら、私は担当記者として詰め腹を斬ります、と義理を通して、けっきょく時事新報を辞めるにいたったそうです。

 美しいと見るべきか。アホらしいとあきれるべきか。わかりませんけど、義理と仁義こそ、たしかに笹本さんの人となりを示すトレードマークです。

 別の言葉で、大宅壮一さんはこんな笹本寅評を書いています。

「私が『人物評論』という雑誌を始めるころで二十年も前のことである。

大衆作家の笹本寅は、当時『時事新報』の文芸部の記者だった。(引用者中略)笹本は、新劇俳優の草分けの一人として知られた笹本甲午の弟で、若いころはサトー・ハチローなどとともに浅草を根城にした仲間である。気だては悪くないがけんか早い。それに人相もあまりよくない。」(昭和31年/1956年10月・角川書店刊、大宅壮一・著『人生旅行』所収「旅の相棒物語」より ―引用原文は『大宅壮一全集第七巻』)

 「気だては悪くないがけんか早い」……というのは、当時もいまもよく見る類いの人種です。そして、こういう人ほど、まわりから愛されるのが、この世の習いでしょう。喧嘩っぱやさゆえに、笹本さんはきちんと給料をもらえていた時事新報社を、わずか勤務3年たらずで辞め、文芸記者稼業からも短期間で足を洗うことになりますが、人から可愛がられ、面白がられる性格のせいか、その後も文芸界に踏みとどまって、多くの仕事を残しました。

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2021年8月 1日 (日)

澤野久雄(朝日新聞)。文芸記者やりながら作家として売り出し、一気に芥川賞も卒業。

20210801

 新聞社に勤める文芸記者が、自分でも小説を書いた、という例はよくあります。

 すいません。言いすぎました。昭和20年代から30年代は、新聞記者が本業のかたわら小説を書いて、直木賞やら何やらの候補になるケースがけっこう生まれた、そのなかに文芸担当の記者も多少含まれていた……と言い直します。

 21世紀のいまとなっては、遠い昔のハナシですね。新聞記者と小説家、もとをたどれば同じ穴のムジナ、という状況がまだ十分残っていた戦後まもない頃に、朝日新聞で文芸記者をしながら小説を書いたのが、澤野久雄さんです。

 その後、次から次へと小説を書きまくり、昭和の中盤に作家専業になって、川端康成の劣化コピーだ何だと揶揄されながら(……いや、されたのか?)一家をなした人です。平成4年/1992年に亡くなったので、来年で没後30年。もはや名前を聞くこともすっかり絶えて、完全に消えた作家となってしまいました。

 しかも残念なことに、澤野さんは直木賞とさほど関わりがあったわけじゃありません。うちのブログで触れるのはスジ違いなんですけど、しかし直木賞ならぬ芥川賞とは、強いつながりもあるし、その作家的履歴を見れば直木賞とカスっている、ということで、このまま続けることにします。

 澤野さんが小説家として初めて注目されたのは昭和24年/1949年のときでした。藤沢桓夫さんのまわりでつくられていた大阪の同人誌『文学雑誌』に「挽歌」を寄せたところ、思いがけず第22回(昭和24年/1949年下半期)芥川賞の候補になります。

 いつかうちのブログで吉井英治さんのことを取り上げました。この人も『文学雑誌』同人で現役の新聞記者でしたが、第23回に直木賞の候補入り。それを考えると澤野さんも、別に直木賞候補でもおかしくなかったと思います。しかし王道どおりと言いますか、まず芥川賞のほうで候補になってしまったのが、残念でなりません。

 いわゆる人生の別れ目、ってやつです。澤野久雄37歳。

 そこで直木賞の候補になっていたら、いったいどんな未来が待っていたのか。「挽歌」を候補作として読んだ芥川賞選考委員の川端康成さんから、じきじきに手紙をもらうこともなければ、文芸誌から注文が舞い込むこともなく、その後も文芸記者として職務をまっとうし、影から文壇と文学を語る人として生を終えたかもしれません。

 仮定のハナシをしても仕方ないので、現実世界に目を向けます。澤野さんが芥川賞の候補になったのは、第22回を始め、第33回までに都合4度。昭和20年代後期のことです。直木賞(というか芥川賞)の歴史としては、「石原慎太郎登場以前の、原始の時代」と言われます。

 しかし、澤野さんが異常だったのは、彼自身が文芸記者をしていたことです。いくら「直木賞・芥川賞は、騒がれてなかった」と言っても、文芸記者にとっては常識も常識、第22回の芥川賞は井上靖がとりそうだ、と事前に何となくわかっていましたし、第28回のときは、報道発表より先に受賞情報をつかんで、妻に話したりしています。

 何よりこの当時、まわりの人たちが芥川賞のことをヤイノヤイノと話題にしていた、と当然のように書き残していて、驚きます。

「僕は(引用者注:昭和27年/1952年)当時、神奈川県大磯町に移つていたが、問題は僕一人のことではなくなつて来つつある。妻は近所の人たちから、「芥川賞候補になつている澤野さんというのは、お宅の御主人ですか?」という質問をうけるようになる。

(引用者中略)

芥川賞候補にさえならなければ、人からとやかく言われる筋はない。堅実なるサラリーマンであれば、なおさら平穏無事である。僕が物を書くばかりに、妻は近隣から、余計なことを言われなければならない。(『新潮』昭和34年/1959年3月号 澤野久雄「私設・残念賞」より)

 一般読者が興味をもつ前(と言われる)原始の時代に、文学賞を支えていた最大の援軍は文芸記者たちでした。そのなかに澤野さんもいたから、おのずと隣近所の人たちも、文壇行事にすぎない芥川賞に、目ざとく注目していた……と思えなくもありません。しかし、けっこう大磯の人たちは、一般的な覗き見趣味の延長で、芥川賞の候補まで知っていた、とも読み取れます。慎太郎より以前であっても、局所的には芥川賞は普通のニュースレベルで知られていたのかもしれませんね。

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