« 第165回直木賞(令和3年/2021年上半期)決定の夜に | トップページ | 重里徹也(毎日新聞)。「文学」が好き、「文学賞」もたぶん好き。 »

2021年7月18日 (日)

豊田穣(中日新聞、東京新聞)。『東京新聞』への出向で、ぐっと直木賞に近づいた人。

20210718

 新しい直木賞が決まりました。これまでと変わらず今回も、文芸記者の活躍が目立つことなく、粛々とこなされたイメージがありますが、しかし注視してみると、決定直後の選考委員の声が広く世間に伝わったのは、林真理子さん本人でも、主催者でもなく、文芸記者がきちんと仕事をしたからです。暑いなか、お疲れ様でした。

 で、ブログも平常に戻りますけど、直木賞は80年以上やっているので、これまでいろんな事件が起こりました。たとえば、いまテーマにしている「文芸記者」に関する話題でいうと、文芸記者が受賞してしまったことすら、あるぐらいです。もう何でもアリです。

 第64回(昭和45年/1970年・下半期)受賞者の豊田穣さんのことは、以前もブログで取り上げたかと思います。何といっても受賞が決まった瞬間に日本におらず、遠くイラクのホテルで報を聞いた……というおもしろエピソードの持ち主ですし、長年こつこつと同人雑誌に書いていることが評価されて、大衆文芸を対象にするはずの直木賞をとっちゃった画期的な小説家、と言っていいでしょう。

 でも、豊田さんの特徴はそれだけじゃありません。直木賞におけるジョー・トヨダの特異性といって、忘れちゃいけないのが、これ。現役の文芸記者だったことです。

 先日のエントリーで、時事通信の藤田昌司さんが、直木賞の記者会見にテレビや週刊誌が入り込んできて格調がなくなったよな、うんぬん、とジジくさいことをヌカした文章を紹介しました。そのとき引用しなかった箇所に、豊田さんの名前が出てきます。

「思い出すのは、生島治郎氏が『追いつめる』で直木賞に選ばれた時である(四十二年上期)。ひと通り代表質問が終わった後、各自が聞きたいことを聞き始めた。その時、

「今度の受賞作はどんな内容か、粗筋を教えて下さい」

と切り出した記者がいたのだ。これには生島氏も当惑したが、小生もびっくりした。が、その時すかさず、

「いや、それはいいよ」

と、横から質問をさえぎった記者がいた。後に直木賞作家となった豊田穣氏、当時東京新聞文化部記者だった。さすが、と小生はそのボス振りに脱帽したものである。」(『新聞研究』昭和61年/1986年2月号 藤田昌司「文化部記者の今昔」より)

 なるほど、受賞者に記者がアホな質問を繰り出す現象は、べつに最近になって急に生まれてきたわけじゃない、とわかる微笑ましい(?)記録ですね。ともかく藤田さんのような年代の人から見て、さらに先輩の豊田さんみたいな記者が、会見の「格調高さ」を支えていたそうです。

 直木賞にからんだハナシでいうと、同賞候補者の津村節子さんも豊田さんのことを書いています。時はいまから60年以上まえの第41回(昭和34年/1959年・上半期)、直木賞で津村さんが、芥川賞で吉村昭さんが予選を通過したものですから、何と夫婦で候補!という珍しさから、たくさんの取材申し込みがあったそうです。

 結果どちらも受賞しなかったんですけど、そのときに豊田さんが取材した記事について、津村さんはこう振り返っています。

「その中で、東京中日新聞文化部の豊田穣氏のインタヴューは、賞と関係なく夫婦作家に焦点をあてるということで、落選後紙面に、大きな写真入りで好意溢れる記事が載った。のちに豊田さんは昭和四十五年下半期「長良川」で直木賞を受賞された。小説を書く人であったから、候補者の気持が汲み取れたのだろう。」(平成20年/2008年7月・岩波書店刊、津村節子・著『ふたり旅 生きてきた証しとして』より)

 小説家だから候補者の気持ちがわかるのか。いや、もともとそういう感性の持ち主だから小説を書こうなどと思うのか。どちらなのかわかりませんけど、豊田さんが記者で糊口をしのぎながら同人誌で作品を書き続けた日々は、けっして光の当たる栄光の時間だったわけではなく、妻の死にうちひしがれ、小説は売れず、文学賞からも遠くなり、ヤサぐれた状況だった、と豊田さんは言っています。直木賞が賞をあげたからよかったようなものの、そうじゃなかったら……と想像するだけで暗然としますが、文学賞を受賞した人だろうが落ちた人だろうが、なるべくフラットに昔のエピソードを掘っていきたいな、と思うところです。

          ○

 豊田穣。大正9年/1920年3月14日生まれ、平成6年/1994年1月30日没。昭和15年/1940年に海軍兵学校を卒業して、艦上爆撃機のパイロットに。戦後は実家のあった岐阜の新聞社に入ったのが、昭和21年/1946年。そこからいったん中日新聞社に移ったあと、出版社、教科書制作会社と渡り歩くあいだに、小説家として立とうとしますが食えるまでには至らず、けっきょく中日に復職。昭和31年/1956年に同社東京支社に異動となって、文芸、美術、書評欄などを担当するかたわらで、同人誌『作家』に原稿を書きつづけます。

 私小説の体裁をした作品で芥川賞候補になり、その後、同系統の私小説で直木賞の候補にもなって、けっきょく受賞したのも私小説。というぐらいの方ですから、豊田さんには自分の履歴に沿った数多くの私小説があります。おお、それ全部読んでみたいぞ! と思いながら、怠惰に暮らしているせいでワタクシの「豊田穣の私小説を全作読破する計画」は遅々として進みませんけど、ここで取り上げたいのが『心臓告知』(平成4年/1992年8月・講談社刊)所収の私小説「恩師モンスター」です。N賞を受けるまでの主人公の生活が、作者の手によって、そうとう鬱屈したものに描かれているからです。

 文芸記者をつづけながら、作家としては認められない日々。「人生のどん底」という表現さえ使われています。こんな感じです。

「(引用者注:昭和31年/1956年、東京支社への異動で)目黒にあるC新聞のアパートに入り、文学の勉強も続け、岐阜にいた時から同人であった雑誌に原稿を載せたが、反響はなかった。

そのうちに妻が癌にかかり、昭和三十四年二月、二人の男の子を残して、死んでしまった。子供たちはしばらく郷里の大垣の父の元で預かってもらうことにして、東京で一人暮らしを始めたが、孤独なので酒だけが慰めとなり、毎夜、呑み歩いて、高血圧や心臓肥大という病気を患った。

(引用者中略)

私の書くものは一向に認められず、会社では中途入社の扱いで、同年の記者が部長なのに、私は平記者で、趣味欄の原稿を作り、夜は呑み仲間と新橋あたりを呑み歩いた。

(引用者中略)

人生のどん底を這いずり回っていた私に、転機がきた。」(豊田穣・著『心臓告知』所収「恩師モンスター」より)

 転機とは、昭和40年/1965年、中日新聞社が傘下に収めた『東京新聞』に出向したことです。

 豊田さんが初めて芥川賞の候補になったのは『作家』所載の「伊吹山」で、第56回(昭和41年/1966年・下半期)のとき。たしかに東京新聞に移ってから、なぜかポツポツと豊田さんの小説が直木賞の候補に上がりはじめます。不思議です。

 なぜ『中日』の文化部では芽が出ないままだったのに、『東京』の文化部では、文学に取り組む姿勢にギアを入れることができたのか。このあたりが豊田さんが直木賞に至るまでの大きな謎かもしれません。

 謎だけ出しといて卑怯なんですが、いまのワタクシには答えは導き出せません。すみません。しかし、『東京新聞』の文芸記者として多くの作家や、ないしは出版編集者や、ないしは日本文学振興会などと接し、自身も候補者になるなかで、受賞者の記者会見に出席していった先に、直木賞の受賞があったのだ、それで小説家・豊田穣にようやく光が当たったのだ……と見ることはできるでしょう。直木賞という事業に育まれて受賞にまで至った作家。その意味で、やはり豊田さんは稀有な人です。

|

« 第165回直木賞(令和3年/2021年上半期)決定の夜に | トップページ | 重里徹也(毎日新聞)。「文学」が好き、「文学賞」もたぶん好き。 »

直木賞を支えた文芸記者たち」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 第165回直木賞(令和3年/2021年上半期)決定の夜に | トップページ | 重里徹也(毎日新聞)。「文学」が好き、「文学賞」もたぶん好き。 »