岩崎栄(東京日日新聞)。すべての始まりを見た(はずの)男。
直木賞(ともうひとつ)の文学賞は『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号で創設が発表されました。しかし、その号は昭和10年/1935年1月に発売されたわけではありません。そのあたりの事情はいまと同じで、刊行されたのは表記された「年月」の一ト月ぐらい前のことです。
『出版年鑑 昭和十一年版』(東京堂刊)に掲載された文藝春秋社の広告を見ると、『文藝春秋』本誌は19日が発売日だったと言います。直木賞が正式に、読者たちにお披露目されたのは、昭和9年/1934年12月19日だった、というわけです。
ただ、この日をもって直木賞創設の発表日とするのも、また正確ではありません。それよりさかのぼること10日ほど。同年12月8日の新聞各紙に、大きくはないけど決して小さくもない、ひとつの文芸ニュースが載りました。
当時、東京では『東京朝日新聞』と競って多くの購読者に読まれていた『東京日日新聞』の記事を引いておきます。
「無名作家に光り
二大文藝賞
芥川、直木両氏の記念
文藝春秋社では芥川龍之介、直木三十五両氏の名を後世に記念するため今度「芥川龍之介賞」ならびに「直木三十五賞」を制定した、芥川龍之介賞は広く各雑誌(同人雑誌を含む)に発表された無名もしくは新進作家の創作中最も優秀なものを選んでこれに賞牌(時計)を与え別に副賞として五百円を贈る制度で、この審査は菊池、久米、山本、佐藤、谷崎、室生、小島、佐佐木、瀧井、横光、川端の十一氏によつてなる芥川賞委員会が当り、直木三十五賞はおなじく各雑誌に発表された無名もしくは新進作家の大衆文藝中から菊池、久米、吉川、大佛、小島、三上、白井、佐佐木の八氏がこれを選び、芥川賞と同様の賞牌、副賞を贈ることになつてゐる、なほ両賞の審査は六ヶ月毎に行ひ適当なもののない時は授賞しないことゝなつてゐる この挙はいまだ前例のないことであり一般から大いに期待されてゐる」(『東京日日新聞』昭和9年/1934年12月8日より)
規定についてはこれが初出しで、一般に知る人など、まだいなかったはずなのに、どうして「一般から大いに期待されている」などと言えるのか。一般というより、これを書いた記者が期待していただけかもしれません。
ちなみに同日の『大阪毎日新聞』にも「(東京発)」として、ほぼ同じ記事が載っています。ただ、こちらはもう少し踏み込んだ(?)認識のもとに記事が構成されていて、見出しは「『芥川賞』と『直木賞』/無名、新進の逸材に進出の門/冬枯れ文壇に注射」です。本文のほうも独自のマクラが加わっています。
「創作に大衆小説に一大金字塔を樹立した文壇の偉才芥川龍之介、直木三十五両氏の没後その後継者なく徒らに文壇の冬枯れを叫ばれてゐる折柄今回文藝春秋社では両氏を記念するため「芥川龍之介賞」ならびに「直木三十五賞」を制定文運興隆の機運を醸成することとなつた、(引用者後略)」(『大阪毎日新聞』昭和9年/1934年12月8日より)
芥川さんが没して7年、まあだいたいジャーナリズムってやつは悲観さえしておけば記事の恰好がつくので、「冬枯れ」と語られて違和感はありませんが、直木さんが死んでからまだ9か月ちょっと。ほんとに大衆文藝壇に「冬枯れ」の認識が漂っていたのか、かなり眉つばです。
と、80年以上まえの記事にツッコんでも仕方ないですけど、何といっても面白いのは、『文藝春秋』本誌が出るより前に、この日新聞に一斉に創設発表が出ていることです。
一般的に文学賞設立の機運が高まっているぞ、どういう展開を見せるのか読者もすぐに知りたがっているぞ、という状況下、各社こぞって取材に奔走し、その努力の結果、事前に創設がスッパ抜かれた……というわけではありません。文藝春秋社がお膳立てして、記者たちを集め、このような企画を始めることになりました、どうぞ広めてください、と説明した結果の一斉発表だった、とは容易に想像できるところです。
直木賞は、そもそもマスコミで扱ってもらうことを前提に企画された事業だというのは、もう常識として広まっていると思いますが、創設を発表する段階からそれはうかがい知れます。「直木賞、生まれた瞬間から文芸記者とズブズブ」という格言のとおりです(そんな格言、ないか)。
その渦中にいた新聞社勤めの記者は、数人、もしかしたら数十人いたかもしれません。ひとり、名前のわかっている人を挙げておきます。『東京日日』社会部にいた岩崎栄さんです。
○
岩崎栄。またの名を筆名・佐山栄太郎。明治24年/1891年6月29日生まれ、昭和48年/1973年3月6日没。『大阪毎日』から『東京日日』に移り、新聞記者として長く働きましたが、同時にコラム、読み物、大衆小説を、さまざまな媒体に書いていた「新聞記者兼小説家」な人でもあります。
文藝春秋社の雑誌にも、執筆陣のひとりとしていろいろと原稿を寄せ、菊池寛さんや、佐佐木茂索さん、あるいは直木三十五さんとも近い間柄にあり、ご本人のいうところ、「菊地寛(原文ママ)は私の先輩であり、或る意味では先生だった。」(昭和24年/1949年3月・信友社刊『恋愛と結婚の内』)だそうです。新聞記者でありながら大衆文壇のひとり、と言ってもいいでしょう。
佐佐木茂索さんの語る創設裏バナシにも、しっかりと名前が出てきます。
「最初の菊池案は生原稿を審査して、いいものに芥川賞、直木賞をやろうじゃないかということだった。(引用者中略)その案によって草案を作ってみた。しかしこれじゃ懸賞小説みたいなもので、ただ、ナンとか賞というだけであって、それ以上の意味がない。それで各新聞の学芸部、文化部の記者諸君に、相談かたがた、それでよければ発表するというつもりで、東京新聞の裏の、ナンとかいったな……花の茶屋という料理屋に集まって貰った。毎日の岩崎君なんかいたのを憶えている。そのとき、原案のままじゃ面白くないじゃないか、印刷されたものでも、新人であればいいじゃないか、文藝春秋へ生原稿で投書して来たものだけを対象にしないほうがいいんじゃないか、という意見があった。それは名案だと思ったので、翌日だったか、菊池と相談して、いまるような芥川賞にして、広く発表されたものも対象にするということになったわけです。」(『文學界』昭和34年/1959年4月号 永井龍男・佐佐木茂索「芥川賞の生れるまで」より ―永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊→昭和57年/1982年7月・文藝春秋/文春文庫に収録)
正直なところ、直木賞が発表済の作品を対象にする、と方針が転換されたこの場面に、同席していたとはっきり名指しされていることが、岩崎さんを歴史的な重要人物たらしめている最大の理由だと思います。
というのも、直木賞は文芸記者とズブズブだと言いましたが、それは言葉の綾で、正確にいうなら「直木賞は文春が新聞記者たちといっしょにつくった」ということになります。ズブズブどころじゃありません。当事者です。
物書き稼業を送った岩崎さんには、その当事者としての文学賞観ないし文学賞論を残しておいてほしかった。と切に思うんですが、作家(主に大衆文壇の作家)についての回想はあっても、直木賞の創設についての思い出は、残念ながらまだ発見できていません。創設のころに比べて、戦後、新聞各社や他のメディアが我先きにと、直木賞に群がって報道するさまを見て、それをつくり上げたひとりとして何を思っていたのか。……菊池寛さんよりもっと、その光景を喜んで見ていたかもしれません。
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