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2021年6月13日 (日)

竹内良夫(読売新聞)。外にいる野次馬と見せかけて、じっさい自分も中の人。

20210613

 ところで「文芸記者」って何でしょう。漠然とでもいいので、いちおう定義づけておく必要がありそうです。

 新聞を発行する会社に籍を置き、文芸や文壇にまつわる話題を対象にして、取材・構成・執筆などに従事することで、いくばくかの給料を得る人たちのこと。なかでもうちのブログは、なるべく「ニュース記事を書く記者」という視点で人選するつもりですが、新聞に連載された小説の担当者とか、新聞社が出している雑誌の編集者とか、そういう人も「文芸記者」のグループに入れちゃおうと思います。

 たとえば、先週触れた岩崎栄さんなどは、厳密にいって「文芸記者」なのか、ちょっと危ういかもしれません。ひるがえって二週目は、直木賞のかたわらを奔走した正真正銘の文芸記者に登場してもらうことにします。

 竹内良夫さんです。以前、何かのエントリーで触れた覚えがあります。

 戦後、読売新聞文化部で働き、さまざまな文壇ニュースを世に送り出した人ですが、そんな竹内さんの、最大の直木賞エピソードといえば、おそらく、これです。

 時は昭和33年/1958年。純文学から出発して読み物ライターに沈没した榛葉英治さんが、懸命に書き下ろした原稿を、どうにか海音寺潮五郎さんの紹介で和同出版社が出してくれたのが『赤い雪』です。これが人脈とコネの渦巻く大衆文壇から浮かび上がった結果、突如、第39回(昭和33年/1958年上半期)の直木賞候補に上がります。

 7月初めに文藝春秋新社(おそらく日本文学振興会)から予選通過のハガキが届いて、榛葉さんは初めて、自分の作品が候補になったことを知るんですが、そこにわんさか電話をかけて、けしかけたのが読売新聞文化部にいた竹内さんです。

「読売文化部の竹内良夫から何度も電話があったそうで、その連絡先に電話をかけた。そのすすめで、選考委員の海音寺潮五郎を訪ねることにきまった。

つぎの日に、経堂の海音寺邸へいった。候補になったのは、先生の推薦であることが判った。

心から礼を述べて帰る途中、竹内がほかの選考委員も訪ねたほうがいいと言う。事前運動じみて気はすすまないが、竹内が「同じ候補になった草川俊は、委員のあいだを歩いている」というので、その気になった。」(平成5年/1993年10月・新潮社刊 榛葉英治・著『八十年 現身の記』「十章 田園生活・直木賞受賞」より)

 ということで、選考会がある7月21日までのあいだに、中山義秀さんと吉川英治さん、2人の家を訪問して挨拶した……と言います。

 榛葉さんや草川俊さんはともかくとしても、「選考委員のところを訪ねたほうがいい」と助言した文芸記者タケウチ某の、気持ちわるさというか、気味わるさがはっきり出ている場面です。オモテには出ない水面下の根回しこそ、直木賞の選考では活きてくるのだ、と信じてやまない、昭和の世代の事情通がもっていた下劣な感性が、びしびしと伝わってきます。

 しかし、ここでひとつ認識しておかなきゃいけないのは、竹内さんの場合、文芸記者とは言っても「小説家たちが群れをなす狭義の文壇を、外から眺めて囃し立てる野次馬のひとり」という、そういうタイプの新聞記者ではなかった、ということです。

 これも以前書いたハナシですが、昭和29年/1954年に創刊した『下界』という同人雑誌があります。竹内さんの『文壇資料 春の日の會』(昭和54年/1979年4月・講談社刊)によると、はじめこの名前で商業誌を出そうとしていた和田芳恵さんに意見して、けっきょく同人誌にしてしまったのが、竹内さんです。

 創刊号を出すときに資金的に援助してくれたのが、海音寺潮五郎さんで、そこに参加した同人からは和田芳恵さんのほか、榛葉英治、渡辺喜恵子、杉森久英と4人の直木賞受賞者を出しました。当然、『下界』には他にも同人がいて、草川俊さんや池田岬さん、吉富利通さんなども参加しています。なかでも創刊時から積極的に寄稿を続けていた中核的な同人として、書き落としてはいけない人がいます。竹内良夫さんです。

 言うなれば、榛葉さんも草川さんも、竹内さんの同人誌仲間。竹内さんだって、直木賞の候補になる可能性のあるところで小説を書いていた直木賞予選対象者だったわけです。野次馬などではなく、「新進無名の同人誌作家」として、あるいは「文芸記者」として、竹内さんにとっては直木賞は自分も関わる身近な行事だった、と言っていいでしょう。

          ○

 竹内良夫。大正5年/1916年12月生まれ、平成7年/1995年没。昭和17年/1942年に日本大学経済科を卒業後、朝日新聞社、朝日映画社を経て、昭和21年/1946年1月に読売新聞社入社。紹介者は、当時読売の運動部にいた西郷謙次さんという人で、この人は直木賞とも縁がなくもない戸川静子さんの夫です。すでにこの段階から、竹内さんと直木賞の結びつきはうっすら始まっていた、といまから見ると思います。

 昭和23年/1948年2月に上司に懇願して文化部に異動。それから昭和46年/1971年12月に退社するまでのあいだに、一般的に知られる竹内さんの仕事で、おそらくインパクトがあるのは、昭和23年/1948年6月、太宰治さんが玉川上水で心中したことを現場に行って突き止め、速報を入れた一件です。

 太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光……とこのあたりの作家や作品に、異様に親近感を覚えていたのはたしからしく、それもまた『下界』界隈でウロチョロしていた顔からはわからない、竹内さんの重要な側面でしょう。太宰治を敬愛する人たちの集まり、という意味では、のちに今官一さんや桂英澄さんもいた同人雑誌『立像』に、竹内さんも加わったほどです。

 読売に働いていた頃の竹内さんを評した山本健吉さんの言葉が残っています。

「私は彼を、新聞の文化部記者の中で、戦後文壇に広く通じている三、四人の中の一人であると思つている。彼は足で文学を実践している一人である。太宰治の情死事件をスクープして、速報賞を得たのは彼であつた。太宰・坂口・田中など、無頼派といわれる作家たちを愛惜することが深い。彼自身、若干無頼派の残党めいた性格を持つているが、私はこれは、彼のために必らずしも取らないところであつて、私は彼自身がこの中(引用者注:『文壇のセンセイたち』)に書いている井上友一郎氏の如く、また井上靖氏の如く、勤勉であることを望むのである。」(昭和32年/1957年4月・学風書院刊 竹内良夫・著『文壇のセンセイたち』より)

 井上友一郎さんも井上靖さんも、要するに新聞社で記者として勤めた経験の持ち主です。いまはまだ、文壇の諸事情にやたらとくわしいゴシップ雀であるかもしれないが、文学をやりたいなら両氏のようにもっと研鑽を積んで、モノになるような作品を書け……と言いたかったのかもしれません。

 酒を飲み、人なつこく作家にからみ、あちこちと足を運んでネタを仕入れては記事を書く。たぶん天衣無縫で無邪気な性格が、まわりの人から愛されたんでしょう。それだけでも、優秀な文芸記者の素質十分といったところがありますが、その間にウズウズと、自分だって新聞記事以外のことが書きたいぜと思いを募らせ、同人雑誌を始めちゃうところが、竹内さんの面白さです。

 結果、「文壇事情にくわしいゴシップ雀」で終わってしまった、というとらえ方もある気がします。しかし、同人仲間が次々と直木賞を受賞する光景をかたわらで見続けた、貴重なポジションの文芸記者だったと思います。

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