河合勇(日刊スポーツ)。たった一本の書評で、直木賞受賞を生み出した新聞人。
直木賞史上、有名な……というか、受賞エピソードを追っているとかならず目にする新聞記者がいます。河合勇さんです。
またまた昔のハナシです。しかも純粋な「文芸記者」じゃありません。すみません。
河合さんというと、その名が直木賞のなかで登場する場面は限られています。昭和29年/1954年の夏ごろです。しかし、ハナシの展開があまりに面白く、インパクトも強いということもあって、なかなか忘れがたい。本来、直木賞に関連した新聞人じゃないとは思うんですが、今週はこの方のハナシで行かせてもらいます。
と、ここでセットで出てくるのが、ひとりの直木賞受賞者、有馬頼義さんです。
学生時分から文学を志しながら、本気で野球に打ち込んでいたスポーツマン。戦後、プロ野球が復活して、川上哲治、大下弘というスター選手を中心に野球人気が再燃、大爆発しましたが、ちょうどそのころ、野球観戦記者をやってみないかと『日刊スポーツ』から誘われます。誘ったのが、当時、日刊スポーツ新聞社で編集局長をしていた河合勇さんです。
有馬さんの「河合勇さんのこと」によると、もともと有馬さんの義兄と河合さんとは学生時代からの友人だったらしく、その縁で、野球記者の人出不足に悩んでいた河合さんが、ああ、あいつならできるかも、と思い出して突然連絡してきたのだ、と言います。昭和23年/1948年、昭和24年/1949年のころです。働き口がなくひまだった有馬さんは、それはそれはありがたいと引き受けて、全国の球場に足を運んでは、観戦記を書いたり、予想記事を書いたり、汗水流して記者として働きます。
それを1年ばかり続けたあとに、これも河合さんの采配で、有馬さんは同新聞の文化部へ異動。書評や雑誌評、コラムなどの執筆担当になります。数年は続けたはずですが、次第に『日刊スポーツ』の組織も充実していき、書き手も育っていったことから、有馬さんの活躍する場面も少なくなって、昭和28年/1953年か昭和29年/1954年ごろにはその仕事をやめることになります。
並行して同人雑誌で小説も書いていた有馬さんは、昭和29年/1954年春、自分で費用を負担して作品社で『終身未決囚』という短編集をつくります。これで文壇に打って出てやろう、という多少の功名心もあったとは思いますけど、有馬さんは根っからの「文学っ子」ですから、この一冊はエンタメでも大衆文芸でもありません。
無名の新人だった有馬さんの、そんな地味な自費出版本が、とりあえずスポーツ新聞だった『日刊スポーツ』がコラムで取り上げたのは、これまで同紙で働いてくれた有馬さんに対する河合さんの好意だったらしいです。『日刊スポーツ』昭和29年/1954年6月29日、「天井桟敷」というコラムにこんな記事が載りました。
「◇本紙のこの欄に(愁)というペンネームでしばしば寄稿してくれた有馬頼義君の処女出版「終身未決囚」が作品社から出版された。有馬君は元子爵の有馬頼寧氏の令息で共同通信の社会部の記者をしていたことがある。母校成城高校の野球監督もしたことがありわが社の野球チームのキャッチャーもつとめたことがある。
◇名門の御曹子の作品だから上流社会の私小説かと想像されるかも知れないがさすが社会部記者の体験があるだけに題材の視野が広く社会事件をとり扱っている。巻頭の「終身未決囚」というのは狂気になった戦争犯罪人大川周明氏にヒントを得たものと思われる。しかし単なる物語ではなく狂人か狂人を装っているのかと一般の人も疑問に思っている問題をとり上げてその主人公の心理からその娘の気持ち更に娘の許婚者の心の動揺まで解剖して描いている。
◇昭和の初期に政界の問題となった疑獄事件も扱われているが皆事件そのものだけでなくそれが及ぼした個人の身の上を描いて立派な小説に作りあげている。北満派遣の軍隊と商人の物語もある。私小説とおぼしきものは一つもない。
◇私小説がわるいというのではないが私小説しか書けない小説家が一人前の小説家かどうかということは議論の余地のあることであろう。その小説家の生活が特異な生活であるときは一応は読者をつなげるであろう。だがいつまでもめんめんと同じようなことを書かれてはもう読者に見捨てられるのは当然であろう。
◇また歴史の書き直しばかりやっている人の作品も多少はその文章のうまさにもよるが作者の高名に引きずられて読んでいるという場合も多いであろう。この若い作者の私小説でもなく歴史小説でもない本格的小説に最初から取組んだ勇気を賞したい。またこの作者には触れたくないかも知れないが戦前の華族社会の解剖も単なるバクロでなく心理小説として筆を初めて見たらと思う。題材を豊富に持っている作者としてこの作者には洋々たる未来を期待されている。」(『日刊スポーツ』昭和29年/1954年6月29日「天井桟敷 「終身未決囚」」 ―署名「【遊】」)
長くなってすみません。直木賞史に残る貴重な記事なので、思い切って全文紹介させてもらいました。有馬さんによれば、これは河合さんが書いたものだそうです。
さて、どうでしょうか。書評としてうまくまとまっていると思いますが、これを目にして、『終身未決囚』読んでみたいと思われましたか? 私小説や歴史小説を蹴っ飛ばす主張、あるいは、社会事件を扱いながら人間心理を描いていると紹介したところ、はたまた「ええとこの坊ちゃん」という作者のプロフィール、どこにアンテナが引っかかったのかはわかりませんけど、鎌倉から新橋までの電車のなかで、このコラムを読んだ小島政二郎さんが、さっそく新橋の本屋で『終身未決囚』を買ってしまったところから、あれよあれよと、有馬さんの第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞受賞までつながります。
新聞に載った(しかもスポーツ新聞に載った)書評コラム一本で直木賞の歴史が動く、なんてことは、いまとなってはさすがに起こり得ないかもしれません。70年近くまえ、それを実現させてしまった新聞人。河合勇。希少性でいえば、直木賞の受賞者よりもトテツもないことをやってのけた、と言っていいでしょう。
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河合勇。明治32年/1899年3月31日生まれ、昭和51年/1976年1月29日没。凸版印刷を興した河合辰太郎さんを父にもち、早稲田大学では英文学を専攻した人です。在学中にトルストイの人道主義の影響を受け、文学部長だった片上伸さんの指導のもとで、森本覚丹、梅田覚、菊岡進一郎、長井三保三、川口尚輝、渡平民らと同人雑誌『ライフ』を刊行。大正12年/1923年に卒業するに当たって、早稲田の競争部でともに鍛錬に励んだ河野一郎さんに誘われるかたちで東京朝日新聞の入社試験を受けたところ、河野さんは落ちて、河合さんのほうが受かってしまいます。
このとき、「君は文学志望のスポーツマンか、変ってるなあ」と、副社長の下村海南さんから言われたそうです。文学志望、スポーツマン。これに、幼少時代からの「ええとこ育ち」も加えれば、そのまま有馬頼義さんの特性にも重なりますが、それらが組み合わさって戦後の直木賞エピソードを生むことになったのは、ほとんど偶然の賜物でしょう。
ともかく河合さんは、朝日の新聞記者としてグイグイと頭角を現わし、昭和の前半、要するに日本が戦争に突入する時期には運動部、学芸部、社会部、整理部の各部長、編集局次長、印刷局長など要職を歴任します。昭和20年/1945年8月、日本の敗戦が決まったあとは、がらっと社内の空気も変わったらしく、居場所を失うようなかたちで朝日新聞社を退社。父親が残してくれた湘南茅ケ崎の家に住み、花や野菜の栽培をしながら、印刷工場をつくったり、知り合いに頼まれて新日本印刷会社を手伝ったりしたそうです。
そんな河合さんが『日刊スポーツ』に関わるようになった経緯ですが、これも電車のなかでの偶然の出会いだった……というのですから、『終身未決囚』の直木賞受賞は、よくよく電車がカギとなります。
「昭和二十三年に湘南電車の中で元共同通信の運動部長で戦後「日刊スポーツ」を発刊した秋山慶幸君にあった。秋山君は「進駐軍のインボデン中佐にプレスコード違反で編集局長の春山君がパージになり、編集局長が不在で困っているんだから来てくれないか」といわれた。
編集の仕事ならまだやる気があったので、引きうけて銀座五丁目の事務所へ通い、それから毎日社説を書いたり、読物を書いたりしていた。」(昭和47年/1972年12月・新日本新聞社製作 河合勇・著『新聞の今昔 激動する新聞戦国史』「新聞生活五十年」より)
秋山さんも河合さんがスポーツに関心が深く、また文章表現にも強い意識をもっていたことは、よく知っていたんでしょう。こうして人から誘われて『日刊スポーツ』に入ったところも、よく有馬さんの経緯に似ています。
およそ世の中に起きることは偶然といえば偶然です。また、人間たちの生きてきた道が重なるところから生じる、という意味では、なにかしら因果がある、とも思います。河合勇さんが引き起こした直木賞受賞のドラマは、奇跡のようでもありますが、文学賞の受賞なんてたいていこの程度の偶然の積み重ねだ、といえばそう言えるのかもしれません。
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