« 2021年5月 | トップページ | 2021年7月 »

2021年6月の5件の記事

2021年6月27日 (日)

石田汗太(読売新聞)。保守的な直木賞に対して矢を放つ。

20210627

 個人的に昔のエピソードが大好きです。なので自然とそちらの話題が多くなるんですが、できれば現在・現代・現役の文芸記者のことも取り上げたい。ということで、今日の主役は、『読売新聞』の石田汗太さんを選んでみました。オタク記者として一世を風靡した(?)文芸界の名物記者です。

 1990年代から2000年代はじめ、といいますから平成の初期、ちょうどパソコン通信からインターネットが社会に浸透していくこの時期に、『読売新聞』文化部の第一線で働いていた石田汗太さん。とくにエンターテインメント小説をテリトリーとする文芸担当として、取材報道に駆けずりまわり、当時の直木賞の変容についてリアルタイムに書き伝えています。

 いや、直木賞なんてものは、この時代だけじゃなく常に「変容」しつづけています。わざわざ半年に1度の短いスパンで、くりかえし直木賞の姿を伝えることに果たして何の意味があるんでしょうか。昔っから、そのニュース頻度と、絶えず取り上げるマスコミの姿勢には多くの人たちが辟易してきました。

 しかし、新聞記者たるもの、直木賞と付き合い、何がどう変わってきたのかを伝えなければ仕事になりません。社命であり、ルーティンワークです。いわゆる社畜です。

 そのなかで、ついつい報道の内容に個性が出てしまうのは、文芸記者もまた人間だからに他なりません。石田さんの直木賞に関する仕事にも、やはり特徴が見え隠れしています。伝統的な文学観を愛でるより、新しいものを求める腰の軽さ。それが直木賞記事によく現れています。

 石田さんが『読売新聞』紙上で直木賞記事と関わり出すのは、だいたい平成6年/1994年ごろ、第111回(平成6年/1994年・上半期)あたりからです。

 その第111回は、直木賞が中村彰彦さんの「二つの山河」と海老沢泰久さん『帰郷』、芥川賞が笙野頼子さん「タイムスリップ・コンビナート」と室井光広さん「おどるでく」。受賞者ばかりが多いけど、どう見たって地味だよね……というのが、およそ一般の感覚だったろうと思います。

 しかし、この受賞を受けて同紙の純文芸担当記者・尾崎真理子さんと語り合った記事では、えっ、と目をむく結論に達しています。直木賞=大衆文学と芥川賞=純文学の垣根が低まった、と言っているのです。この4つの受賞作を読んで、どうしてそんなハナシに落ち着くのか……。なかなかのトンデモ記事に仕上がっています。

「今回の芥川賞二作品は難解である一方、その世界に入ってしまえば、へたなエンターテインメント小説よりエンターテインメント的な部分があると思う。

(引用者中略)

直木賞。平岩弓枝選考委員の会見を聞いていて、何となく「保守性」を感じてしまったのだが……。(引用者中略)その「直木賞らしさ」を平岩委員に改めて聞くと、「長い歴史のなかで私たちが直木賞に持っているイメージ、そのイメージにふさわしい作品」という答えだった。言葉のはしを取るのではないが、直木賞の方は安心して読めるエンターテインメントという「歴史的に作られた直木賞のイメージ」を大切にしようとしていると感じた。それを「保守的」というのは酷かもしれないが、芥川賞が見せた姿勢と対照的に映ったのは確かだ。最近、大沢在昌、高村薫氏ら新しい書き手の受賞が続いただけに。(『読売新聞』平成6年/1994年7月22日夕刊「とれんどin小説 芥川賞・直木賞の選考結果 垣根低まる大衆・純文学」より)

 垣根が低くなったと感じる、というのは尾崎さんの発言かもしれず、石田さんのみトンチンカンだったと見るのは控えなければいけませんが、純文学・大衆文学の比較はともかくとして、上記の発言部分で、直木賞の保守性がなかば否定的に指摘されているのは明らかです。直木賞が保守的なんてことは、ずっと言われつづけてきたことだと思うんですけど、当時30代なかば、若い記者だった石田さんがそこに違和感を覚えて、新しいエンターテインメント小説への希望を語っている。そこに石田さんの個性を見ないわけにはいきません。

 その後、石田さんはバリバリと働きながら、直木賞の受賞報道に従事します。第112回の両賞受賞なしを、いかにも大事件であるかのように紙面で伝えたのち、第113回(平成7年/1995年・下半期)から『読売』の「顔」欄などで、直木賞受賞者のインタビューをときどき担当。第113回赤瀬川隼(平成7年/1995年7月19日)、第114回小池真理子(平成8年/1996年1月12日)、第120回宮部みゆき(平成11年/1999年1月15日)、第121回佐藤賢一(平成11年/1999年7月16日)、第123回金城一紀(平成12年/2000年7月15日)、第127回乙川優三郎(平成14年/2002年7月19日夕刊)、第130回京極夏彦(平成16年/2004年1月16日)、同回江國香織(平成16年/2004年2月4日夕刊)……と、それぞれの声を読者に届けます。

 純文学と大衆文学の垣根が低まった、というハナシを、いかにも『読売』独自のトンデモ記事のように言ってしまいましたが、この時期、その視点が一般に話題性を帯びていたのは、たしかかもしれません。その機を見て、日本文学振興会が候補選出に趣向をこらし、車谷長吉さん直木賞、花村萬月さん・藤沢周さん芥川賞を演出したのが、第119回(平成10年/1998年・上半期)です。

 しかし、その後、直木賞と芥川賞の作品内容の相互乗り入れが進んで潮流と化したのか、といえば、いま振り返ってもそんな形跡はありません。半年に1度の受賞傾向で何らかの潮流を語ることの馬鹿バカしさを、おそらく文芸記者の人たちもわかっているんでしょうが、しかしその職に就きつづけるかぎり、語らなければならないクビキから逃れることを許されず、ほんと文芸記者という職は大変だなあ、ということを10数年にわたった石田さんの直木賞記事は感じさせてくれます。

続きを読む "石田汗太(読売新聞)。保守的な直木賞に対して矢を放つ。"

| | コメント (0)

2021年6月20日 (日)

河合勇(日刊スポーツ)。たった一本の書評で、直木賞受賞を生み出した新聞人。

20210620

 直木賞史上、有名な……というか、受賞エピソードを追っているとかならず目にする新聞記者がいます。河合勇さんです。

 またまた昔のハナシです。しかも純粋な「文芸記者」じゃありません。すみません。

 河合さんというと、その名が直木賞のなかで登場する場面は限られています。昭和29年/1954年の夏ごろです。しかし、ハナシの展開があまりに面白く、インパクトも強いということもあって、なかなか忘れがたい。本来、直木賞に関連した新聞人じゃないとは思うんですが、今週はこの方のハナシで行かせてもらいます。

 と、ここでセットで出てくるのが、ひとりの直木賞受賞者、有馬頼義さんです。

 学生時分から文学を志しながら、本気で野球に打ち込んでいたスポーツマン。戦後、プロ野球が復活して、川上哲治、大下弘というスター選手を中心に野球人気が再燃、大爆発しましたが、ちょうどそのころ、野球観戦記者をやってみないかと『日刊スポーツ』から誘われます。誘ったのが、当時、日刊スポーツ新聞社で編集局長をしていた河合勇さんです。

 有馬さんの「河合勇さんのこと」によると、もともと有馬さんの義兄と河合さんとは学生時代からの友人だったらしく、その縁で、野球記者の人出不足に悩んでいた河合さんが、ああ、あいつならできるかも、と思い出して突然連絡してきたのだ、と言います。昭和23年/1948年、昭和24年/1949年のころです。働き口がなくひまだった有馬さんは、それはそれはありがたいと引き受けて、全国の球場に足を運んでは、観戦記を書いたり、予想記事を書いたり、汗水流して記者として働きます。

 それを1年ばかり続けたあとに、これも河合さんの采配で、有馬さんは同新聞の文化部へ異動。書評や雑誌評、コラムなどの執筆担当になります。数年は続けたはずですが、次第に『日刊スポーツ』の組織も充実していき、書き手も育っていったことから、有馬さんの活躍する場面も少なくなって、昭和28年/1953年か昭和29年/1954年ごろにはその仕事をやめることになります。

 並行して同人雑誌で小説も書いていた有馬さんは、昭和29年/1954年春、自分で費用を負担して作品社で『終身未決囚』という短編集をつくります。これで文壇に打って出てやろう、という多少の功名心もあったとは思いますけど、有馬さんは根っからの「文学っ子」ですから、この一冊はエンタメでも大衆文芸でもありません。

 無名の新人だった有馬さんの、そんな地味な自費出版本が、とりあえずスポーツ新聞だった『日刊スポーツ』がコラムで取り上げたのは、これまで同紙で働いてくれた有馬さんに対する河合さんの好意だったらしいです。『日刊スポーツ』昭和29年/1954年6月29日、「天井桟敷」というコラムにこんな記事が載りました。

「◇本紙のこの欄に(愁)というペンネームでしばしば寄稿してくれた有馬頼義君の処女出版「終身未決囚」が作品社から出版された。有馬君は元子爵の有馬頼寧氏の令息で共同通信の社会部の記者をしていたことがある。母校成城高校の野球監督もしたことがありわが社の野球チームのキャッチャーもつとめたことがある。

◇名門の御曹子の作品だから上流社会の私小説かと想像されるかも知れないがさすが社会部記者の体験があるだけに題材の視野が広く社会事件をとり扱っている。巻頭の「終身未決囚」というのは狂気になった戦争犯罪人大川周明氏にヒントを得たものと思われる。しかし単なる物語ではなく狂人か狂人を装っているのかと一般の人も疑問に思っている問題をとり上げてその主人公の心理からその娘の気持ち更に娘の許婚者の心の動揺まで解剖して描いている。

◇昭和の初期に政界の問題となった疑獄事件も扱われているが皆事件そのものだけでなくそれが及ぼした個人の身の上を描いて立派な小説に作りあげている。北満派遣の軍隊と商人の物語もある。私小説とおぼしきものは一つもない。

◇私小説がわるいというのではないが私小説しか書けない小説家が一人前の小説家かどうかということは議論の余地のあることであろう。その小説家の生活が特異な生活であるときは一応は読者をつなげるであろう。だがいつまでもめんめんと同じようなことを書かれてはもう読者に見捨てられるのは当然であろう。

◇また歴史の書き直しばかりやっている人の作品も多少はその文章のうまさにもよるが作者の高名に引きずられて読んでいるという場合も多いであろう。この若い作者の私小説でもなく歴史小説でもない本格的小説に最初から取組んだ勇気を賞したい。またこの作者には触れたくないかも知れないが戦前の華族社会の解剖も単なるバクロでなく心理小説として筆を初めて見たらと思う。題材を豊富に持っている作者としてこの作者には洋々たる未来を期待されている。」(『日刊スポーツ』昭和29年/1954年6月29日「天井桟敷 「終身未決囚」」 ―署名「【遊】」)

 長くなってすみません。直木賞史に残る貴重な記事なので、思い切って全文紹介させてもらいました。有馬さんによれば、これは河合さんが書いたものだそうです。

 さて、どうでしょうか。書評としてうまくまとまっていると思いますが、これを目にして、『終身未決囚』読んでみたいと思われましたか? 私小説や歴史小説を蹴っ飛ばす主張、あるいは、社会事件を扱いながら人間心理を描いていると紹介したところ、はたまた「ええとこの坊ちゃん」という作者のプロフィール、どこにアンテナが引っかかったのかはわかりませんけど、鎌倉から新橋までの電車のなかで、このコラムを読んだ小島政二郎さんが、さっそく新橋の本屋で『終身未決囚』を買ってしまったところから、あれよあれよと、有馬さんの第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞受賞までつながります。

 新聞に載った(しかもスポーツ新聞に載った)書評コラム一本で直木賞の歴史が動く、なんてことは、いまとなってはさすがに起こり得ないかもしれません。70年近くまえ、それを実現させてしまった新聞人。河合勇。希少性でいえば、直木賞の受賞者よりもトテツもないことをやってのけた、と言っていいでしょう。

続きを読む "河合勇(日刊スポーツ)。たった一本の書評で、直木賞受賞を生み出した新聞人。"

| | コメント (0)

2021年6月13日 (日)

竹内良夫(読売新聞)。外にいる野次馬と見せかけて、じっさい自分も中の人。

20210613

 ところで「文芸記者」って何でしょう。漠然とでもいいので、いちおう定義づけておく必要がありそうです。

 新聞を発行する会社に籍を置き、文芸や文壇にまつわる話題を対象にして、取材・構成・執筆などに従事することで、いくばくかの給料を得る人たちのこと。なかでもうちのブログは、なるべく「ニュース記事を書く記者」という視点で人選するつもりですが、新聞に連載された小説の担当者とか、新聞社が出している雑誌の編集者とか、そういう人も「文芸記者」のグループに入れちゃおうと思います。

 たとえば、先週触れた岩崎栄さんなどは、厳密にいって「文芸記者」なのか、ちょっと危ういかもしれません。ひるがえって二週目は、直木賞のかたわらを奔走した正真正銘の文芸記者に登場してもらうことにします。

 竹内良夫さんです。以前、何かのエントリーで触れた覚えがあります。

 戦後、読売新聞文化部で働き、さまざまな文壇ニュースを世に送り出した人ですが、そんな竹内さんの、最大の直木賞エピソードといえば、おそらく、これです。

 時は昭和33年/1958年。純文学から出発して読み物ライターに沈没した榛葉英治さんが、懸命に書き下ろした原稿を、どうにか海音寺潮五郎さんの紹介で和同出版社が出してくれたのが『赤い雪』です。これが人脈とコネの渦巻く大衆文壇から浮かび上がった結果、突如、第39回(昭和33年/1958年上半期)の直木賞候補に上がります。

 7月初めに文藝春秋新社(おそらく日本文学振興会)から予選通過のハガキが届いて、榛葉さんは初めて、自分の作品が候補になったことを知るんですが、そこにわんさか電話をかけて、けしかけたのが読売新聞文化部にいた竹内さんです。

「読売文化部の竹内良夫から何度も電話があったそうで、その連絡先に電話をかけた。そのすすめで、選考委員の海音寺潮五郎を訪ねることにきまった。

つぎの日に、経堂の海音寺邸へいった。候補になったのは、先生の推薦であることが判った。

心から礼を述べて帰る途中、竹内がほかの選考委員も訪ねたほうがいいと言う。事前運動じみて気はすすまないが、竹内が「同じ候補になった草川俊は、委員のあいだを歩いている」というので、その気になった。」(平成5年/1993年10月・新潮社刊 榛葉英治・著『八十年 現身の記』「十章 田園生活・直木賞受賞」より)

 ということで、選考会がある7月21日までのあいだに、中山義秀さんと吉川英治さん、2人の家を訪問して挨拶した……と言います。

 榛葉さんや草川俊さんはともかくとしても、「選考委員のところを訪ねたほうがいい」と助言した文芸記者タケウチ某の、気持ちわるさというか、気味わるさがはっきり出ている場面です。オモテには出ない水面下の根回しこそ、直木賞の選考では活きてくるのだ、と信じてやまない、昭和の世代の事情通がもっていた下劣な感性が、びしびしと伝わってきます。

 しかし、ここでひとつ認識しておかなきゃいけないのは、竹内さんの場合、文芸記者とは言っても「小説家たちが群れをなす狭義の文壇を、外から眺めて囃し立てる野次馬のひとり」という、そういうタイプの新聞記者ではなかった、ということです。

 これも以前書いたハナシですが、昭和29年/1954年に創刊した『下界』という同人雑誌があります。竹内さんの『文壇資料 春の日の會』(昭和54年/1979年4月・講談社刊)によると、はじめこの名前で商業誌を出そうとしていた和田芳恵さんに意見して、けっきょく同人誌にしてしまったのが、竹内さんです。

 創刊号を出すときに資金的に援助してくれたのが、海音寺潮五郎さんで、そこに参加した同人からは和田芳恵さんのほか、榛葉英治、渡辺喜恵子、杉森久英と4人の直木賞受賞者を出しました。当然、『下界』には他にも同人がいて、草川俊さんや池田岬さん、吉富利通さんなども参加しています。なかでも創刊時から積極的に寄稿を続けていた中核的な同人として、書き落としてはいけない人がいます。竹内良夫さんです。

 言うなれば、榛葉さんも草川さんも、竹内さんの同人誌仲間。竹内さんだって、直木賞の候補になる可能性のあるところで小説を書いていた直木賞予選対象者だったわけです。野次馬などではなく、「新進無名の同人誌作家」として、あるいは「文芸記者」として、竹内さんにとっては直木賞は自分も関わる身近な行事だった、と言っていいでしょう。

続きを読む "竹内良夫(読売新聞)。外にいる野次馬と見せかけて、じっさい自分も中の人。"

| | コメント (0)

2021年6月 6日 (日)

岩崎栄(東京日日新聞)。すべての始まりを見た(はずの)男。

20210606

 直木賞(ともうひとつ)の文学賞は『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号で創設が発表されました。しかし、その号は昭和10年/1935年1月に発売されたわけではありません。そのあたりの事情はいまと同じで、刊行されたのは表記された「年月」の一ト月ぐらい前のことです。

 『出版年鑑 昭和十一年版』(東京堂刊)に掲載された文藝春秋社の広告を見ると、『文藝春秋』本誌は19日が発売日だったと言います。直木賞が正式に、読者たちにお披露目されたのは、昭和9年/1934年12月19日だった、というわけです。

 ただ、この日をもって直木賞創設の発表日とするのも、また正確ではありません。それよりさかのぼること10日ほど。同年12月8日の新聞各紙に、大きくはないけど決して小さくもない、ひとつの文芸ニュースが載りました。

 当時、東京では『東京朝日新聞』と競って多くの購読者に読まれていた『東京日日新聞』の記事を引いておきます。

無名作家に光り

二大文藝賞

芥川、直木両氏の記念

文藝春秋社では芥川龍之介、直木三十五両氏の名を後世に記念するため今度「芥川龍之介賞」ならびに「直木三十五賞」を制定した、芥川龍之介賞は広く各雑誌(同人雑誌を含む)に発表された無名もしくは新進作家の創作中最も優秀なものを選んでこれに賞牌(時計)を与え別に副賞として五百円を贈る制度で、この審査は菊池、久米、山本、佐藤、谷崎、室生、小島、佐佐木、瀧井、横光、川端の十一氏によつてなる芥川賞委員会が当り、直木三十五賞はおなじく各雑誌に発表された無名もしくは新進作家の大衆文藝中から菊池、久米、吉川、大佛、小島、三上、白井、佐佐木の八氏がこれを選び、芥川賞と同様の賞牌、副賞を贈ることになつてゐる、なほ両賞の審査は六ヶ月毎に行ひ適当なもののない時は授賞しないことゝなつてゐる この挙はいまだ前例のないことであり一般から大いに期待されてゐる」(『東京日日新聞』昭和9年/1934年12月8日より)

 規定についてはこれが初出しで、一般に知る人など、まだいなかったはずなのに、どうして「一般から大いに期待されている」などと言えるのか。一般というより、これを書いた記者が期待していただけかもしれません。

 ちなみに同日の『大阪毎日新聞』にも「(東京発)」として、ほぼ同じ記事が載っています。ただ、こちらはもう少し踏み込んだ(?)認識のもとに記事が構成されていて、見出しは「『芥川賞』と『直木賞』/無名、新進の逸材に進出の門/冬枯れ文壇に注射」です。本文のほうも独自のマクラが加わっています。

「創作に大衆小説に一大金字塔を樹立した文壇の偉才芥川龍之介、直木三十五両氏の没後その後継者なく徒らに文壇の冬枯れを叫ばれてゐる折柄今回文藝春秋社では両氏を記念するため「芥川龍之介賞」ならびに「直木三十五賞」を制定文運興隆の機運を醸成することとなつた、(引用者後略)(『大阪毎日新聞』昭和9年/1934年12月8日より)

 芥川さんが没して7年、まあだいたいジャーナリズムってやつは悲観さえしておけば記事の恰好がつくので、「冬枯れ」と語られて違和感はありませんが、直木さんが死んでからまだ9か月ちょっと。ほんとに大衆文藝壇に「冬枯れ」の認識が漂っていたのか、かなり眉つばです。

 と、80年以上まえの記事にツッコんでも仕方ないですけど、何といっても面白いのは、『文藝春秋』本誌が出るより前に、この日新聞に一斉に創設発表が出ていることです。

 一般的に文学賞設立の機運が高まっているぞ、どういう展開を見せるのか読者もすぐに知りたがっているぞ、という状況下、各社こぞって取材に奔走し、その努力の結果、事前に創設がスッパ抜かれた……というわけではありません。文藝春秋社がお膳立てして、記者たちを集め、このような企画を始めることになりました、どうぞ広めてください、と説明した結果の一斉発表だった、とは容易に想像できるところです。

 直木賞は、そもそもマスコミで扱ってもらうことを前提に企画された事業だというのは、もう常識として広まっていると思いますが、創設を発表する段階からそれはうかがい知れます。「直木賞、生まれた瞬間から文芸記者とズブズブ」という格言のとおりです(そんな格言、ないか)。

 その渦中にいた新聞社勤めの記者は、数人、もしかしたら数十人いたかもしれません。ひとり、名前のわかっている人を挙げておきます。『東京日日』社会部にいた岩崎栄さんです。

続きを読む "岩崎栄(東京日日新聞)。すべての始まりを見た(はずの)男。"

| | コメント (0)

第15期のテーマは「文芸記者」。直木賞の延命を外から支えてきた新聞社の記者たちに光を当てます。

 何でもいいから、週に一度は直木賞のハナシに触れていたい! ……という、他人に共感されない興味で始めたこのブログも、今週から15年目に入ります。

 直木賞に関して取り上げたいテーマは、まるで尽きません。困ったことです。才のある人なら、ススッとやって数年で結論を出せるんでしょうけど、ワタクシみたいなもんは、どれだけやっても深いところに手が届かず、表面的なゴシップを撫でるだけ。これで一生が暮れていくのだろうな。とは思います。仕方ありません。直木賞の面白さは、底なしです。

 というところで、15年目のブログテーマですが、「文芸記者」のことを調べていきたいと思います。

 直木賞のいちばんの特徴は何か……。と言われて、おおむね多くの人が答えるのは「有名」であることです。

 日本に文学賞は数多く群立しています。そのなかで「選考委員の批評眼が素晴らしい」でもなく、「上質な作品が選ばれる」でもない。とにかく直木賞の圧倒的な特異性は「世に知られている」ことなのだ。と断言してもいいでしょう。

 うちのブログでは、直木賞の受賞者のこと、落選した候補者のこと、選考委員のことなど、手当たり次第に取り上げてきました。しかし、直木賞が直木賞であるいちばんの功績者は、何といっても「世に知らせる」役目を、この賞が始まった当初からえんえんと、律儀にン十年もつづけてきた人たち。各社代々の文芸担当記者たちです。

 その割に、直木賞の歴史のなかで語られる機会はほとんどなく、陰に隠れてこそこそと活動しています。新聞報道というかたちで直木賞を広報する片棒を担いできた人たちは、いったいこれまで何百人、何千人いたのでしょうか。いちいち数えたこともありませんが、しかし彼らがいなければ、いまの直木賞が成立していないのは明らかです。

 そもそもですよ。こんな偏った一社の事業に対して疑念や反発も持たず、毎年夏と冬になれば「直木賞だ、直木賞だ」と、いずれの新聞社も足並みそろえて、バカ正直に紙面を割いて報道する団結ぶりには、いつも感心させられます。多様性が叫ばれてもう何十年経つのか。一社や二社ぐらい、うちは直木賞のことなんか扱わないよ、何なんだあのお祭り騒ぎは、馬鹿バカしい、と気づく新聞が出たっておかしくないのに、いまのところそんな気配はとくにありません。

 そういう意味では、出版産業のなかの商業小説はマーケットが縮小。オールドメディアとしての新聞社も経営は青色吐息。沈みゆく旧弊な文化の担い手として、直木賞と文芸記者、「時代おくれ」のレッテルを張られたまま、一蓮托生でともに未来を歩んでいく……ということなのかもしれません。

 未来のことは、よくわからないので、まあそれは措いておきましょう。とりあえず、だいたい1年の予定で、一週ひとりずつ、直木賞史のなかに現れる文芸記者を取り上げていきます。「無駄に歴史が長い」でおなじみの直木賞ですから、創設からもうじき90年。著名な記者や、文芸記者から作家になった人などなど、無理くり探していけば、1年ぐらいは乗り切れるんじゃないか、と甘い展望を持っています。

 思いついた人から書いていきますので、順不同です。まず第1週目は、この賞と文芸記者とがズブズブの関係を築いてきたことをよく示す、直木賞が始まった昭和9年/1934年当時の、ひとりの記者から始めることにします。

| | コメント (0)

« 2021年5月 | トップページ | 2021年7月 »