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2021年5月30日 (日)

平成29年/2017年、川越宗一、メールでの小説添削講座を受講する。

20210530

▼平成18年/2006年、朝井まかて、大阪文学学校の合評会で大泣きする。

 「小説教室と直木賞」のテーマも、今週でようやく50週。キリよく今回で締めたいと思います。

 といってもカッコよく締めらりゃしません。小説教室も直木賞も、いま現在、コツコツと続いているナマモノです。どちらも「本が売れない」「売れない作家は、次のチャンスがない」という商業出版のカネまわりが厳しい時代に直面しながら、山もあれば谷もある、どうにか頑張って続いていくんでしょう。いずれ、直木賞を主催する日本文学振興会が、小説教室をひらく日だって来るかもしれません。

 それはともかく、最後の週は、最近の直木賞と小説教室との交差ぶりを確認して終ろうと思います。ネタ元は、『オール讀物』直木賞発表号に載っている、受賞者自身がこれまでの人生(ないし作家人生)を振り返った自伝エッセイです。

 第150回(平成25年/2013年下半期)のときには記念出版として『直木賞受賞エッセイ集成』(平成26年/2014年4月・文藝春秋刊)なんて本も出されました。21世紀になって最初の受賞だった山本文緒さん、重松清さんの第124回(平成12年/2000年下半期)から第150回までの、自伝エッセイを集めたものですけど、それ以降も直木賞はチマチマと続いています。ということで、第151回から前回第164回までを含めると、およそ最近20年。受賞した人たちの自伝エッセイに、どういったかたちで「小説教室」が出てくるのか。拾っていきます。

 すでに、うちのブログで取り上げてしまった人もいますが、江國香織さん(第130回・平成15年/2003年下半期受賞)、角田光代さん(第132回・平成16年/2004年下半期受賞)、森絵都さん(第135回・平成18年/2006年上半期受賞)あたりは、それぞれ大学(ないしは専門学校)で創作を学んだ経歴の持ち主です。ただし、自伝エッセイではそこはあまり深く語られていません。

 他の受賞者のみなさんはどうかというと、「小説を書き始めたきっかけや、その頃の書き方」を読んでも、ほとんど小説教室とは無縁だったようです。そのなかで登場するのが、第150回(平成25年/2013年下半期)受賞の朝井まかてさん。大阪文学学校に通いはじめた頃のことを、しっかりとエッセイに刻んでいます。

 親友の旦那さんが、時代小説を書きはじめたのをきっかけに、一緒に書こうと誘ってくれたらしいのですが、仕事も忙しいし、やらなきゃいけない家事もある、そんなこんなで一人、原稿用紙の前に座ってもまるで筆が進みません。というところで、朝井さんの暮らす環境にあったのが、小説教室です。

「意を決して、大阪文学学校の入学案内を取り寄せた。

ここに十年通って一作も書けなかったら、己の夢に引導を渡そう。

時限を設けて、あの学校の階段を上った。

そして提出日の前夜遅く、初めて書き上げたのだ。小説なるものを。

(引用者中略)

クラスの皆はその短編を褒めてくれた。ある人は真摯に、ある人は笑いを取りながら、それぞれの言葉で。

合評会の最後は、書き手自身に発言権が与えられる。私は「読んでくれて有難う」と口にしただけで泣き出してしまった。あまりに張りつめていたので、どこかが破けたような泣き方だったと思う。」(『オール讀物』平成26年/2014年3月臨時増刊号 朝井まかて「毛玉たちへ」より)

 小説教室に備わった「大勢の人に囲まれて、その刺激のなかで書く」という性質が、うまく作用したんだなあ、と思います。これがおそらく平成18年/2006年のことで、そこからすぐに朝井さんが作家になったわけではないですけど、なかなか書けなかった人が、まずは第一歩を踏み出せたのは、大阪文学学校があったからです。だれでも入れるこういう学校が貴重で有意義なのは、間違いありません。

          ○

▼1990年代なかば、西條奈加、小説教室に行って「自己満足のぬるま湯」と感じる。

 そのあとの受賞者では、自伝エッセイに小説教室が出てくる人はあまり見当たりませんが、第162回(令和1年/2019年下半期)の川越宗一さんは、ある種「小説教室」の受講歴がある、と言っていいかもしれません。

 ただし、川越さんが受けたのは、小説教室といってイメージされるような「多くの人が一か所の教室に集結し、壇上の講師からアドバイスを受ける」というかたちではありません。

 サラリーマンとして働いていた川越さんが、はじめて書き上げた一作目の小説は、タイトルが「天地に燦たり」。まるで誰からも教わらず、自分ひとりで書いたものだそうです。これを松本清張賞に応募しますが、一次予選すら通らずに大落選。ショックを受けるとともに、川越さんは奮起します。

「メールのやり取りで受講できる小説添削講座に申し込み、小説を読み資料を読み、落選した作品を一から書き直した。半年ちょっとかけて、主人公三人の名前とラストシーンの場所、『天地に燦たり』というタイトルだけが落選作と共通する別物の作品が出来上がった。せめて二次選考くらいに残ってくれれば、と願いながら、ふたたび松本清張賞に応募した。」(『オール讀物』令和2年/2020年3・4月合併号 川越宗一「人生は行き当たりばったり」より)

 対面での指導ではない、メールを使った小説添削講座が、川越さんを作家デビューに導きました。ちなみにそれは若桜木虔さんの講座のことですが、川越さんは平成30年/2018年に清張賞を受賞したあと、二作目で直木賞を受賞します。かつて「直木賞、江戸川乱歩賞など、ビッグタイトルの受賞者を育てたい」と語っていた若桜木さんの夢がかなった、という意味でも、小説教室の歴史に爽やかな風が吹いた瞬間かもしれません(何のこっちゃ)。

 なるへそ。メールの添削講座から、のちに直木賞をとる人が出てくるようになったんだ。時代もどんどん動いているよね。……ということで、未来に視線を向けたまま終わりたいんですけど、そうはうまく着地させてくれないのが直木賞です。

 いちばん最近の受賞者、西條奈加さんの自伝エッセイにも、こんなふうに小説教室のことが出てきます。

「二度目の就職を果たし、三十歳前後の頃に、短編をふたつ、脚本をひとつ書いた。(引用者中略)書き手としては素人でも、読み手としてはそれなりの数を読んでいる。己の拙さは一目瞭然だった。不出来を自覚しても、どう直していいかわからない。

カルチャーセンターの小説教室にも通ってみたが、二度行っただけでやめてしまった。

毎週一編、生徒が書いた小説をクラスで批評して、最後に講師が短いアドバイスを与える、という内容だった。だが、実際は批評などではなく、当時の私と五十歩百歩のひどい小説を(失礼!)、周囲がひたすらちやほやともち上げて、講師も決して否定しない。自己満足のぬるま湯に浸っているに等しく、これでは上達など望めない。」(『オール讀物』令和3年/2021年3・4月合併号 西條奈加「楽観と現実の果て」より)

 西條さんが30歳前後というと、1990年代なかばでしょう。すでに当時、プロ作家になるための本気の講座というものは、いくつかあったはずですが、西條さんが通ったのは、そういう教室ではなかったのか。詳細はわかりませんけど、小説教室に少し顔を出したけど、合わずにやめてしまった人が、のちに直木賞をとったのはたしかです。

 それで思うのは、どんな人でも小説を書いてみたくなったら、簡単に小説教室に足を運べる環境が、この社会に構築されたんですね、ということです。今後、新しく出てくる作家が、何らかのかたちで小説教室と絡んでいても、もはや特別でも何でもない。そう心に銘じて直木賞を見つめていくことにします。

          ○

 とりあえず、これで「小説教室と直木賞」はひと区切り。来週からはまた違ったテーマで、直木賞を取り上げていきたいと思います。

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