昭和14年/1939年、長谷川伸たちが小説の勉強会「十五日会」を始める。
▼昭和15年/1940年、長谷川伸門下の「十五日会」から河内仙介が直木賞を受賞。
世間には小説の勉強会というものがあります。小説教室の歴史を振り返っていくと、大学のライティングコースと並んでかならず目に止まりますが、これまで日本にどんな勉強会があったのか。まともに取り上げはじめたら無限に出てくるはずです。とても対応できませんので、代表的なものだけさらっと見てみます。
ということで、先週は丹羽文雄さんを中心とする十五日会のことに触れました。しかし、直木賞の話題で小説の勉強会といえば、やはりこれ、新鷹会を挙げないわけにはいきません。
新鷹会。長谷川伸さんとともに一時代を築いた有名な勉強会です。何だかいつも直木賞の傍らにあって、ついつい知った気になってしまいますが、うちのブログでもあんまり起源を追っていなかったので、これを機会に少しひもといてみます。
小学校を途中でやめて、以来さまざまな仕事に就いた長谷川さんは、幼少のころから本をむさぼり読み、演劇に親しむようになって劇作・小説を一心不乱に独学、20代後半からボツボツと原稿が売れるようになっても、まったく向学の手をゆるめません。仲間たちといっしょに月に一度、赤坂の「山の茶屋」に集まって開いたのが「山の会」と称する勉強会で、これはおそらく昭和初期ぐらいに開かれたものと思いますが、くわしい記録は残っていないそうです。
やがて昭和8年/1933年、長谷川さん49歳、働き盛りのアラフィフ世代のときに土師清二、甲賀三郎、竹田敏彦、藤島一虎らと語らってハナシがまとまり、12月から「二十六日会」を始めます。毎月26日に開くから二十六日会。単純明快です。そこでは当初、小説、戯曲、そして人つくり、三つを勉強することを目標にした、と言われますが、ここに「人つくり」が入っているところが、ミソというか、長谷川一門が単なる創作勉強集団ではない大きな特徴です。
それと、もうひとつ面白いのが「小説と戯曲」が同じ枠組みで考えられていた、ということでしょう。大衆文芸のなかでは(というか純文芸も同じでしょうが)、小説と戯曲(脚本、台本、シナリオなどなど)は常に隣り合わせの双生児です。直木賞の歴史を見てもそれは明らかで、演劇、芸能、映画、テレビなど、出版以外の要素が賞のなかにたくさん入り込んでいる、という特徴があります。だから直木賞は、文学賞として面白いわけですね。
それはそれとして、二十六日会に話題を戻します。
会のある日は、だいたいみんな勤務や仕事があるので、それが終わった夕方に参集し、自分で書いてきた作品を朗読する。他の参加者はそれを聞いて感想を述べ、批評をし、あそこはこうしたほうがいい、あそこはどうだと「勉強」をし合いながら夜を明かす……という段取りでやっていたそうです。これを毎月毎月、何年もつづけたというのですから、好きじゃなければ、なかなか続きません。
しかしどうやらこの会は、回を重ねるにつれて脚本研究のほうに比重が置かれるようになったらしく、これとは別に小説研究の会合がもたれるようになります。ものの本によりますと、第1回目の会合は昭和15年/1940年9月22日、京橋にあった蕎麦屋「吉田」の2階で開かれ、参集したもの12人。村上元三、山手樹一郎、大林清、棟田博、長谷川幸延、穂積驚、浜田秀三郎、森川賢司、神崎武雄、安房八郎、島源四郎、そして先輩格として長谷川伸。このとき山岡荘八さんは戦地に赴いていたんですが、帰国後は長谷川さんベッタリというふうにこちらの会にも参加します。
毎月15日に集まることに決まったので、名称は「十五日会」です。しかし、しばらく経って「~日会って名称ばかりだから、いっそ『新鷹会』に名を改めようぜ」と村上元三さんが言い出し、それが長谷川さんにも了承されて「新鷹会」となったんだ、と言われています。
正式な会員がどう変転していったのか。とくに初期のころの動静はとらえづらいものがありますけど、「十五日会」は昭和15年/1940年9月に発足したことになっています。ただ、直木賞の歴史に当てはめると、河内仙介さんの「軍事郵便」が受賞したのが第11回(昭和15年/1940年上半期)ですが、その選考会は十五日会発足の1、2か月前です。あれ、河内さんって十五日会に入ったあとに直木賞をとったんじゃなかったの? ……などなど、よくわからないこともあります。
だいたい十五日会って言っているのに、どうして初回の会合が9月22日なんでしょうか。事情は判然としませんが、横倉辰次さんがまとめた『長谷川伸 小説戯曲作法』(昭和39年/1964年11月・同成社刊)の巻末に長谷川さんの年譜が入っていて、ここでは「十五日会」の誕生は昭和14年/1939年7月だ、と書いてあります。第三次『大衆文藝』が創刊したのは昭和14年/1939年3月号で、常識的に考えるとその数か月後に、小説の創作に特化した新進作家たちの集まりができた、と見るほうが自然ですから、十五日会ができたのは昭和14年/1939年7月、新鷹会と名を改めたのが昭和15年/1940年9月、ということなんでしょう。
とか何とか、細かいところを突つきすぎて「小説教室」のハナシから外れてきました。すみません、先に進みます。
ともかく十五日会は小説を勉強する集まりだったんですが、やり方は脚本研究の二十六日会とだいたい同じでした。参加者はそれぞれ、自分で小説を書いてきて、みんなのまえでそれを朗読する……という方法です。
ワープロもなければ、用紙の事情もいまとは違う、そういう時代に小説の書き方を勉強するには、みんなに語って聞かせて講評を得るのが自然だったのかもしれません。しかし、やはりここにも長谷川伸さんなりの小説観というか、「小説と戯曲観」が見えています。戯曲というのは、いちおう生身の人間たちが声を出し合うことを前提につくられるのが建前です。作品の発表のときに朗読してみるのは理にかなっています。小説もまた、形態は違えども戯曲に通じるものがある。人前で読み上げることで、その良し悪しは十分に伝わるものだ。……という考え方です。
村上元三さんも、その後輩の戸川幸夫さんや平岩弓枝さんも、新鷹会出身の作家は、「会合で朗読する」ことを書いたエッセイをたくさん残しています。同じことをしろと言っても、現代の小説教室では、なかなか受け入れづらい(広がりづらい)気もするんですけど、しかし、シナリオを書くことも小説の勉強、小説を書くのもシナリオの勉強、という長谷川さんの教えを信ずるとすれば、これはこれでマトを射た勉強法なのかもしれません。
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▼昭和39年/1964年、新鷹会の横倉辰次、師から教わった創作作法を一冊にまとめる。
前段で『長谷川伸 小説戯曲作法』(昭和39年/1964年11月・同成社刊)という本が出てきました。編者は横倉辰次さんというバリバリの新鷹会会員で、長谷川さんが亡くなっておよそ一周忌をすぎたころに刊行された一冊です。序文として「ひとつの果実」(土師清二)、「門下生の一人として」(山手樹一郎)、「清泉投影」(山岡荘八)、「ある一面を」(村上元三)が付いています。
内容は、横倉さんが長い師弟生活のなかで直接受けた長谷川さんの教えを土台に、折おりで長谷川さんが発表した小説・戯曲のつくり方に関する随筆や発言を引用しながら、長谷川さんの創作作法の一端をまとめたものになります。先週取り上げた丹羽文雄さんの『小説作法』(昭和29年/1954年3月・文藝春秋新社刊)などに比べて、とうてい広く一般に読まれた、とは言い難い本ですが、長谷川さんが伝えようとした小説(と戯曲)の書き方をどうしても活字で残しておきたい、という横倉さんの思いが存分に詰まっています。
とりあえず、うちのブログのテーマは「小説教室」なので、本書のなかから「大衆小説の章」の部分を紹介してみます。
面白いのは、長谷川さんは決して後世の文学史に残るはずもない、読み捨てられるクソのような小説の存在を、肯定的に認めていた、というところです。
「職業として小説家は、外国では兎も角、日本では生涯の間に相当多くの作品を書かねばならないからね、その中には後世に遺すだけの傑作や自信作以外の作品もある筈だよ、というのは我々は飯を食う為に書く作品があっても仕方がないよ、人間は二本の手があるんだから、勿論パンの為にだけの作品を書くのでは意味がないけどね、人間は飯を食い、汗をかき糞もする、汚いものや無駄があるのは当然だよ(引用者中略)
長谷川伸は、研究会でも我々が朗読する前に、「売原(ルビ:うりげん)」とそうでない原稿を意識表示するようにいわれた。それによって批評―先生の場合は指導示唆であるが―それが実にハッキリと区別され、共に素晴しく明解で懇切丁寧であった。ついでにいって置くが、長谷川部屋の批評は、良い悪いというのではなく、悪い個所を指摘して、「こうすればもっと良くなる」と具体的な助言をするのである。建設的な意見のない批判はしないことになっていた。」(横倉辰次・編『長谷川伸 小説戯曲作法』より)
雑誌に売るための小説と、そうではない小説はおのずと別の目線でとらえるべき、ということはわかります。だいたいの文学的な教室では、「飯を食うための作品」は無視されるか、否定されるか、クソミソに叩かれるか、とくに読み物の雑誌に売れるかどうかは、そんなに重要視されなかったと思いますけど、長谷川部屋ではそこが違っていたらしいです。
真剣に大衆文芸を学ぶための、勉強の場。というだけでも、戦前・戦後の日本ではユニークだったと思うんですが、けっして「文学の道」を突き詰めることを目標におかず、売れる原稿が書きたい人にはその書き方を教え、作家として勝負できる小説もまた大切なものとして助言、批評、指導をおこなう。臨機応変というか、融通無碍というか、このフトコロの深さが長谷川さんたちの「小説教室」の特徴だった、と言っていいでしょう。長谷川さんの生前、融通無碍な文学賞「直木賞」とやたら相性がよかったのも、何かよくわかります。
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