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2021年4月11日 (日)

平成9年/1997年、高橋義夫が山形で「小説家になろう」講座を開始する。

20210411

▼平成9年/1997年、「盛り場学入門講座」と並行するかたちで、高橋義夫が小説教室を企画する。

 1990年代といえば、だいたい20~30年まえの出来事です。

 ワタクシを含めて老年・中年のジジババにとっては、ついこないだですね。って感じですけど、直木賞で換算すると40~60回分ぐらいに当たります。ひとりの作家が受賞する、やがて選考委員になる、そして退任する……そんなふうに直木賞歴がスッポリ入ってしまう人が何人もいるぐらいに、けっこう長い時の流れです。20~30年なんて最近のようではありますが、「昔のこと」と見ても許されるでしょう。

 その昔むかし、年号ではおよそ平成に入った頃合いに、直木賞やもうひとつの賞では、「地方の時代」みたいなことが言われていました。とりあえず平成1年/1989年1月に決まった第100回(昭和63年/1988年・下半期)などがその代表的な例で、直木賞ほか一賞の受賞者は全部で4人いましたが、その全員が東京から遠く離れた居住地で結果を知ったために、当夜、東京の受賞会見場にはだれも現われなかった、という異例の事態が起こります。もはやジジババたちが懐かしんで語ってしまう昔の話です。

 「地方の時代」と呼ばれたうねりは、もちろん小説教室も無縁ではありません。文学学校しかり、井上光晴さんの文学伝習所しかり。あるいはマスコミ系の企業が、全国各地にビジネスチャンスを求め、その結果、小説を書いてみようという熱がさまざまな地域に広がったことは、以前も取り上げましたが、90年代になると、直木賞と関わりの深い教室が地方に生まれ、大きな成果を挙げ出します。

 たとえば山形市の「小説家になろう講座」です。始まったのが平成9年/1997年ですから、いまから24年まえ。その後、いろいろとあって「山形小説家・ライター講座」と名前が変わったものの、いまでも現役バリバリ、人気の講座として続いています。

 発起人は、山形県に居を構えて直木賞をとった高橋義夫さんです。受賞したのが第106回(平成3年/1991年・下半期)、このときも盛岡在住の高橋克彦さんと同時受賞だったので、みちのくの作家が直木賞を独占! と大きく話題になった……かどうか、それは微妙なところですけど、ともかく「別に東京にいなくたって小説は書けるじゃん」を実践するひとりとして、山形の界隈で楽しく暮らします。

 山形で知り合った現地の人たちと夜な夜な酒場に繰り出したり、歩き回ったりしているうちに、「花小路活性化委員会」や「渤海倶楽部」と称する集まりができていきます。「花小路」というのは山形市内の、小さい酒場がたくさんある地域の名前ですが、そういうところに出入りして、遊びと言いながらワイワイしゃべり合い、仲良くなったりケンカしたりしているうちに、こういう盛り場の存在が社会に与える効果には絶大なものがある、盛り場が街を活気づけるし、盛り場の衰退する場所には未来がない、そうだ、「盛り場」をマジメに(そして遊びながら)研究する会があったら面白いんじゃないか。……と考えた高橋さんは、こういう一銭にもならず、他人から「ナニそれ?」と馬鹿にされるようなことを、真剣にやるのが大好きな人だったので、どうやったら「盛り場学会」が実現できるかと、頭をひねります。

 そこで出てきたのが、自主講座を定期的に開いたらどうだろう、というアイデアです。県外から知り合いに来てもらい、話をしてもらう。お客さんがたくさん入る講座であれば、山形県生涯学習センター「遊学館」あたりで開かせてもらえるだろう。……と、頭のなかで夢を広げますが、そもそもが遊びの延長ですから、枠組みが決まっているようなもので、ないようなものです。盛り場研究を看板に掲げながら、とにかく山形でいっしょに遊んでくれそうな人を物色し、悠玄亭玉八さん、ねじめ正一さん、時実新子さん、なぎら健壱さん、鹿島茂さん、橋爪紳也さんなどに話をつけて、「盛り場学入門講座」と銘打った年間講座を計画します。平成9年/1997年のことです。

 だけど、ざっと見積もってみると、けっこうお金がかかってしまうことが判明。わざわざ来てくれるゲスト講師には少しでも上乗せで謝礼を払いたいし……と高橋さんはまたまた頭をひねります。ううむ、もうひとつ並行して自分だけで講座をやったらどうだろう、その受講料収入を「盛り場学」のほうに当てればいいんじゃないか、はてさて、自分にできる講義は何だろう。と、そんな流れで思い至ったのが、小説の書き方を主題とする生涯学習の講座だった、というわけです。

 こんな回想が残っています。

「「盛り場学入学講座」の翌日、ぼくは今度はひとりで、遊学館に行った。その日は、ぼくが講師となり、「小説家になろう」という講座がある。

実はこれには裏話がある。「盛り場学入門講座」にかかる費用が、ぼくにとっては莫大なものになるので、もうひとつ講座をやり、交通費程度でもよいから、その講師料を盛り場学のほうへまわして、「損失補てん」しようと、目論んでいたのである。ぼくは狸の皮算用は好きだが、実行においてどこか間のぬけたところがある。話がどう行きちがったか、いつの間にかそれも、自主講座となってしまった。(引用者中略)定員三十名のところに、六十名以上も応募があり、抽選をするほど反響があった。」(平成10年/1998年4月・洋泉社刊、高橋義夫・著『楽をしたかったら地方都市に住みなさい』「15「やまさか講座」開講――幕内のドタバタ劇」より)

 自主講座とは言っても、やるからには本気です。ここから新人賞をとるような作家を育ててみせるぜ! と気合は入っていたらしいんですが、なかなか簡単ではありません。また、そこには高橋さんなりの考えもあって、だらだら続けたって意味がない。期限は3年。3年書いてロクなものが書けないヤツは10年やったって駄目なんだから、みんな3年で卒業させる、という方針を打ち出します。

 ということで、平成9年/1997年、平成10年/1998年、平成11年/1999年……。東京あたりからゲスト講師を招き、受講生たちの作品を読んでもらいながら講評する、というスタイルで3年つづけました。しかしけっきょく、デビューする人を出すことはできず、平成12年/2000年春に、あーやめたやめた、と高橋さんは幕を下ろしてしまいます。

 期限を3年に設定する、というのは高橋さんの独特な感覚です。これをどう見るか。あとで振り返れば何とでも言えるので、難しいところですけど、やって駄目ならすっぱりやめる、というのも当然アリだと思います。高橋さんだって無限に時間のあるひま人ではありません。

 しかし、同じ山形に、もう少し腰を据えてやってみてもいいんじゃないか、と考える小説業界の人がいたおかげで、高橋さんが下ろそうとした幕は、下りませんでした。幸運というしかありません。

          ○

▼平成12年/2000年、池上冬樹が「小説家になろう講座」の運営手伝いを引き受ける。

 『やまがた街角』平成24年/2012年夏号(通巻61号、6月刊)に載った「特集 「小説家(ライター)になろう講座」」の座談会によれば、受講生だった人たちが「卒業」を受け入れらず、先生、なんとかなりませんかねー、と高橋さんに愚痴ったところ、じゃあ山形には池上冬樹さんという評論家もいるから、彼に相談してみたら? と言ったんだそうです。運命の分岐点です。

 渡りに舟といいますか、ここで池上さんが猛烈に奮起します。

 山形で育つうちに文学に目覚め、作家になりたいと夢見ていた若かりしころ、池上さんは東京中心の出版界や、そこで働く作家や編集者に憧れ、じっさいにそういう人たちに会ってみたい、会って話をしてみたい、とずっと思っていたそうです(……というのは、かなりワタクシの想像も入っています)。それから何十年か経ち、いまの自分の立場なら、そういう人たちに声をかけて山形に来てもらうことができる。よし、小説教室の世話人、引き受けますよ、とやる気になって、平成12年/2000年4月から池上さんがこの講座に関わりはじめます。

 いや、「関わる」なんて言葉では足りないぐらいに、積極的に講座の核をつくり上げていった、と言い直しましょう。現に活躍中の作家や出版社の編集者にお願いして山形に来てもらう。彼らのナマの姿や声に触れさせることで、山形の受講生たちに刺激を与える。自分が若いときに、こんな講座があったらよかったのになあ、と思うかたちを実現させてみたかっこうです。

 すると、これがじわじわと功を奏し、高橋さん時代にお父さんに連れられて顔を出していた深町秋生さんが、池上さん時代に入って本気で通うになると、およそ5年で『このミステリーがすごい!』大賞を受賞して作家デビュー。おお、ほんとにこの講座から物書きになれるんだ。と実例ができたことで、ますます教室は熱を帯び、柚月裕子さん、黒木あるじさん、壇上志保さん(のち共同筆名〈紺野仲右ヱ門〉のひとり)、吉村龍一さん、織田啓一郎さんなどが賞をとったり、商業出版でデビューしたりします。

 なかでも柚月さんは第154回(平成27年/2015年・下半期)で一度、直木賞の候補にも挙がります。いわば、直木賞受賞者がはじめた小説教室から、直木賞の受賞者が出る……という美しいニュースの、一歩手前まで行きました。でもまあ、高橋さんだって、直木賞では4度の落選、5度めの受賞という、なかなかゆったりめの直木賞歴を持った人なので、柚月さんもまたいずれ、直木賞の場を荒らしに来てくれることでしょう。期待しています。

 それはともかく、途中、講座名使用差し止めの横やりにも耐え、さくらんぼテレビの後援離脱にも耐え、いまでもこの講座が小説教室の第一線(?)をひた走っているのを見ると、沿道の観客としては拍手喝采、声援を送るしかありません。やめずに続けること。それがすべての源と言いましょうか。

 それと、以前取り上げましたけど、伊藤桂一さんが『文章作法 小説の書き方』(平成9年/1997年4月・講談社刊)で書いていた「小説好き、人の面倒をみることが好き、読むことを苦にしない性格――といった人たちでないとつとまらない。」という文章が、この小説教室の歴史を見ると、ふと思い浮かびます。

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