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2021年4月の4件の記事

2021年4月25日 (日)

平成14年/2002年、高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』がよく売れる。

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▼平成14年/2002年、「小説の書き方」を書いた本が、すでにたくさん世に行き渡る。

 話題になる本に、法則なんてものはありません。

 どうしてこの本がベストセラーになったのか。……みたいな解説は、およそ後づけの産物です。だからと言って解説を否定したいわけじゃなく、そういうのはだいたい「後づけすることの快感」にひたるために存在しています。ワタクシも後からテキトーにこじつける快感は、読むのも書くのも大好きです。

 なかでも本の売り上げに関するハナシは、文学賞と同じく、小説をとりまく話題のなかでも下世話で世俗的なものとして、いつも馬鹿にされがちなので、よけいにワタクシは興味が沸くんですが、過去のベストセラーのリストを見ていると、ときどきポッと加熱して売れ行きを伸ばすジャンルがあります。「小説の書き方」本です。

 似たものに「文章読本」系というジャンルがあります。谷崎潤一郎さん、三島由紀夫さんなどビッグネームを筆頭に、この題名をもつ出版物がたくさん書かれ、昭和以降の出版経済を潤わせてきました。その状況を背景にして、過去にどんな「文章読本」系の本があったのか紹介する新聞記事や雑誌記事もまた、やたらと数多く書かれています。もちろん、それを研究している人もいると思います。

 比べて「小説の書き方」本は、若干似て非なる、と言いますか、より実践的に読み手に創作の方法を教えて、小説を書く人=作家になる人を新たに生むことに重点が置かれています。現在でもそれなりの規模の本屋に行けば、何種類か並んでいるでしょう。そして、たいていそういう本のまえがきには、「世間には小説の書き方を解説した本がたくさんあるが、そのなかで本書の特徴は~」みたいなことが書いてある、というぐらいに、まあ、このジャンルの本は山ほどあるわけです。

 山ほど増えたことと小説教室の歴史は、無縁じゃありません。日本では1970年代以降に、小説新人賞の発達、小説教室の充実、という2つの現象が起きましたが、これと歩調を合わせるように「小説の書き方」本も増加します。

「このあいだ、確かめたところでは、わたしの書斎の本棚には「小説の書き方」「小説教室」「小説はどうやって書くか」「小説家になる方法」「新人賞のとり方」「作家になるには?」といった、小説を書くための、もしくは、小説家になるための本が、三十一冊ありました。「SF作家入門」や「ミステリーはこう書け」といった、特定の小説の分野の書き方を教えるためのものを加えると、ざっと五十冊にもなりました。」(平成14年/2002年6月・岩波書店/岩波新書、高橋源一郎・著『一億三千万人のための小説教室』より)

 と「少し長いまえがき――一億三千万人のみなさんへ」に書いたのが高橋源一郎さんです。こんなにもたくさん出ているんだよ、だけど私の知るかぎり、こういう本を読んで小説家になった人はひとりもいないのさ……と続けて、ほんとうに小説を書けるようになる本とはどういうものなのか、「小説の書き方」本を読んだところで小説家にはなれないんじゃないか、などなどを考察しています。

 「小説の書き方」本を読んだって小説家にはなれない、というのは、高橋さんの一種のハッタリです。仮にじっさいの小説家のだれかが、えっ、わたし、「小説の書き方」本を読みましたよ、と手を挙げても、いや、そういう人は「小説の書き方」本を読まなくたって小説家になれた人だからね、と言ってしまえばいいだけのことです。○○をしたから小説家になった、というのは、論理的に実証できるハナシじゃありません。

 それはともかく、どうして高橋さんの『一億三千万人のための小説教室』を引用したのか、というと、この本がけっこう話題になって売れたからです。

 出版されたのは平成14年/2002年です。すでにこの段階で30冊以上は、容易に手に入る「小説の書き方」本が氾濫し、べつにそのすべてがクズ本だったわけではないはずですが、それでも高橋さんには、なお「小説の書き方」本を書く余地があって、そしてそれが一般の読者にもそこそこ興味をもって読まれます。そこが面白いところです。

 高橋さんは、すっとぼけたようなフリをして実はまっとうに核を突く、あるいは身もふたもなくまっとうに論を展開しているようで、ネジくれている、という物書きです。『一億三千万人のための~』ももちろんその例に洩れません。それまでに書かれてきたプロットの立て方、構成を考えるときのコツ、会話文と地の文の使い分け、昔の作家の文章を筆写してリズムをつかむ、などの技術論のようなことをまったくひっくり返して、小説を書くのと人が生きるのとはほとんど同義なのだから、あなたが生きているだけでもうすでに小説を書きはじめていると言っていい……と語ります。

 要は、これまでの「小説の書き方」本を前提にした、メタ「小説の書き方」本であり、アンチ「小説の書き方」本です。時代としては、小説教室の隆盛わずか20年程度しか経っていません。2000年代初頭、こういうものが出てくる素地がすでに築かれていた、ということを見ても、「小説、書いてみよっかな」と思わせる環境が、いかに急速な広がっていたのかが、よくわかるというものです。

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2021年4月18日 (日)

令和3年/2021年、『オール讀物』が歴史時代小説書き方講座をオンラインで開催。

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▼令和3年/2021年、安部龍太郎、畠中恵、門井慶喜が日替わりで歴史時代小説の書き方を伝授する。

 小説教室は、いまこの瞬間も膨張しています。

 昔のハナシもいいんですけど、せっかくですから、何かリアルタイムな事例も取り上げたい。と思っていたところ、もうじきこのテーマが終わるギリギリのタイミングで、ちょうどよさそうなのが目に留まりました。よく見れば直木賞と関係ないこともありません。今週はその話題で行きたいと思います。

 先ごろ、「「オール讀物」歴史時代小説書き方講座」というものが、世界の片隅でひっそりと行われました。

 4月9日(金)から11日(日)3日間にわたって一日2時間ずつ、安部龍太郎さん、畠中恵さん、門井慶喜さんが日替わりで登場し、これから歴史・時代小説を書いてみたい、書いて新人賞をとりたい、と思っている(はずの)受講者たちに向けて、その作法や書き方、心構えなどをオンラインで語るという試みです。

 『オール讀物』では初めての企画だそうですが、どういう内容の「小説教室」なのか、作家たちがどういうことを語るのか、ワタクシも興味があったので、3日間通しの11,000円のチケットを買って、視聴してみました。

 初日、安部龍太郎さんの回は、とにかく安部さんのマイクの調子が異常なほどに悪く、せっかく熱弁する講師の話が、2時間のあいだずっと、途切れたり、異音が入ったりと、もう聞くに堪えないと言ってもいいほどだったので、ネット回線を介したオンラインのイベントも前途多難だなあ、とヒヤヒヤしましたが、2日目以降はそれもかなり改善されました。いや、真剣に小説家になりたい、作家デビューしたいと熱意のある人たちは、講師の声を一言たりとも聞き漏らすまいと気合を入れて耳を澄ませていたことでしょう。あれぐらいの通信の乱れは、障害のうちに入らないかもしれませんね。

 多少のトラブルはいいとして、何といっても際立っていたのは、3日間司会を務めた『オール讀物』編集長、川田未穂さんの「デキる文芸編集者ぶり」です。

 川田さんがデキるデキるというのは、業界の外で生きている完全部外者のワタクシですら、何となく耳にしたことがあって、直木賞をとりまく現状の世界ではもはやよく知られたハナシなのかもしれません。その実際の働きぶりが画面を通して見られたわけですけど、ハナシが逸れに逸れていく講師の話題を、さえぎったテイを出さずにうまく軌道修正し、受講者からチャット形式で届く質問を、これも丁寧に拾っては講師のほうに投げかける。ときおり、「他の作家の方にうかがったところですと……」と、別の人が語ったハナシを織り交ぜながら、講師の話をサポートし、聞き役に徹しているようでありながら、編集者としての体験談もそこかしこで披露することで、講座の内容に深みをもたせる。

 会議の進行や、座談の司会なんて、小説づくりとは何の関係もじゃないか。と言ってしまえばそうなんでしょうけど、しかし、こと直木賞の場合は、まるで無縁ともいえません。というのも選考会では、お歴々の選考委員たちの他に、進行役を務める「司会」が同席するからです。

 直木賞の歴史を見ていても、司会によるさばきぶりのよしあしが、多少話題にのぼることがあります。あるんですけど、当然、われわれ一般読者や、もしくは単に結果をニュースで知る大半の人たちにとって、文学賞といえば司会役(直木賞の場合は『オール讀物』編集長)だよね、というイメージがパッと思い浮かぶものではありません。

 その意味でも、いま現在の『オール讀物』のトップが、どういうふうに作家から意見なり見解なりを引き出すのか。今回は選考会ではなく、あくまで観客に見てもらうための開示された空間ですから、違うといえば違うんでしょうけど、しかしその「司会」の話術と手練手管の一端をかいま見られた……というだけでも、この講座に11,000円を払う価値はあった、と思います。

 とまあ、だれにも共感されそうにない感想で、すみません。講座の内容としては、とくに畠中さんや門井さんは、日ごろ自分で利用している基本的な資料や、構成を立てるときのやり方など、技術的な具体例をたくさん紹介していて、きっと小説を書く受講者には役立つものだったでしょう。また、門井さんが『家康、江戸を建てる』を書くときに古書店で入手した『明治以前日本土木史』(昭和11年/1936年・土木学会刊)を手にしながら、その古書の、前の持ち主との奇縁を語ったエピソードなどは、もうほとんどひとつのエッセイと言ってもいいほどに面白く、一般の読者にとっても貴重な講座だったことは間違いありません。

 それともうひとつ、この講座には重要な特徴がありました。平場の小説教室とは違い、「オール讀物新人賞」という特定の公募文学賞のために行われた、という点です。

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2021年4月11日 (日)

平成9年/1997年、高橋義夫が山形で「小説家になろう」講座を開始する。

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▼平成9年/1997年、「盛り場学入門講座」と並行するかたちで、高橋義夫が小説教室を企画する。

 1990年代といえば、だいたい20~30年まえの出来事です。

 ワタクシを含めて老年・中年のジジババにとっては、ついこないだですね。って感じですけど、直木賞で換算すると40~60回分ぐらいに当たります。ひとりの作家が受賞する、やがて選考委員になる、そして退任する……そんなふうに直木賞歴がスッポリ入ってしまう人が何人もいるぐらいに、けっこう長い時の流れです。20~30年なんて最近のようではありますが、「昔のこと」と見ても許されるでしょう。

 その昔むかし、年号ではおよそ平成に入った頃合いに、直木賞やもうひとつの賞では、「地方の時代」みたいなことが言われていました。とりあえず平成1年/1989年1月に決まった第100回(昭和63年/1988年・下半期)などがその代表的な例で、直木賞ほか一賞の受賞者は全部で4人いましたが、その全員が東京から遠く離れた居住地で結果を知ったために、当夜、東京の受賞会見場にはだれも現われなかった、という異例の事態が起こります。もはやジジババたちが懐かしんで語ってしまう昔の話です。

 「地方の時代」と呼ばれたうねりは、もちろん小説教室も無縁ではありません。文学学校しかり、井上光晴さんの文学伝習所しかり。あるいはマスコミ系の企業が、全国各地にビジネスチャンスを求め、その結果、小説を書いてみようという熱がさまざまな地域に広がったことは、以前も取り上げましたが、90年代になると、直木賞と関わりの深い教室が地方に生まれ、大きな成果を挙げ出します。

 たとえば山形市の「小説家になろう講座」です。始まったのが平成9年/1997年ですから、いまから24年まえ。その後、いろいろとあって「山形小説家・ライター講座」と名前が変わったものの、いまでも現役バリバリ、人気の講座として続いています。

 発起人は、山形県に居を構えて直木賞をとった高橋義夫さんです。受賞したのが第106回(平成3年/1991年・下半期)、このときも盛岡在住の高橋克彦さんと同時受賞だったので、みちのくの作家が直木賞を独占! と大きく話題になった……かどうか、それは微妙なところですけど、ともかく「別に東京にいなくたって小説は書けるじゃん」を実践するひとりとして、山形の界隈で楽しく暮らします。

 山形で知り合った現地の人たちと夜な夜な酒場に繰り出したり、歩き回ったりしているうちに、「花小路活性化委員会」や「渤海倶楽部」と称する集まりができていきます。「花小路」というのは山形市内の、小さい酒場がたくさんある地域の名前ですが、そういうところに出入りして、遊びと言いながらワイワイしゃべり合い、仲良くなったりケンカしたりしているうちに、こういう盛り場の存在が社会に与える効果には絶大なものがある、盛り場が街を活気づけるし、盛り場の衰退する場所には未来がない、そうだ、「盛り場」をマジメに(そして遊びながら)研究する会があったら面白いんじゃないか。……と考えた高橋さんは、こういう一銭にもならず、他人から「ナニそれ?」と馬鹿にされるようなことを、真剣にやるのが大好きな人だったので、どうやったら「盛り場学会」が実現できるかと、頭をひねります。

 そこで出てきたのが、自主講座を定期的に開いたらどうだろう、というアイデアです。県外から知り合いに来てもらい、話をしてもらう。お客さんがたくさん入る講座であれば、山形県生涯学習センター「遊学館」あたりで開かせてもらえるだろう。……と、頭のなかで夢を広げますが、そもそもが遊びの延長ですから、枠組みが決まっているようなもので、ないようなものです。盛り場研究を看板に掲げながら、とにかく山形でいっしょに遊んでくれそうな人を物色し、悠玄亭玉八さん、ねじめ正一さん、時実新子さん、なぎら健壱さん、鹿島茂さん、橋爪紳也さんなどに話をつけて、「盛り場学入門講座」と銘打った年間講座を計画します。平成9年/1997年のことです。

 だけど、ざっと見積もってみると、けっこうお金がかかってしまうことが判明。わざわざ来てくれるゲスト講師には少しでも上乗せで謝礼を払いたいし……と高橋さんはまたまた頭をひねります。ううむ、もうひとつ並行して自分だけで講座をやったらどうだろう、その受講料収入を「盛り場学」のほうに当てればいいんじゃないか、はてさて、自分にできる講義は何だろう。と、そんな流れで思い至ったのが、小説の書き方を主題とする生涯学習の講座だった、というわけです。

 こんな回想が残っています。

「「盛り場学入学講座」の翌日、ぼくは今度はひとりで、遊学館に行った。その日は、ぼくが講師となり、「小説家になろう」という講座がある。

実はこれには裏話がある。「盛り場学入門講座」にかかる費用が、ぼくにとっては莫大なものになるので、もうひとつ講座をやり、交通費程度でもよいから、その講師料を盛り場学のほうへまわして、「損失補てん」しようと、目論んでいたのである。ぼくは狸の皮算用は好きだが、実行においてどこか間のぬけたところがある。話がどう行きちがったか、いつの間にかそれも、自主講座となってしまった。(引用者中略)定員三十名のところに、六十名以上も応募があり、抽選をするほど反響があった。」(平成10年/1998年4月・洋泉社刊、高橋義夫・著『楽をしたかったら地方都市に住みなさい』「15「やまさか講座」開講――幕内のドタバタ劇」より)

 自主講座とは言っても、やるからには本気です。ここから新人賞をとるような作家を育ててみせるぜ! と気合は入っていたらしいんですが、なかなか簡単ではありません。また、そこには高橋さんなりの考えもあって、だらだら続けたって意味がない。期限は3年。3年書いてロクなものが書けないヤツは10年やったって駄目なんだから、みんな3年で卒業させる、という方針を打ち出します。

 ということで、平成9年/1997年、平成10年/1998年、平成11年/1999年……。東京あたりからゲスト講師を招き、受講生たちの作品を読んでもらいながら講評する、というスタイルで3年つづけました。しかしけっきょく、デビューする人を出すことはできず、平成12年/2000年春に、あーやめたやめた、と高橋さんは幕を下ろしてしまいます。

 期限を3年に設定する、というのは高橋さんの独特な感覚です。これをどう見るか。あとで振り返れば何とでも言えるので、難しいところですけど、やって駄目ならすっぱりやめる、というのも当然アリだと思います。高橋さんだって無限に時間のあるひま人ではありません。

 しかし、同じ山形に、もう少し腰を据えてやってみてもいいんじゃないか、と考える小説業界の人がいたおかげで、高橋さんが下ろそうとした幕は、下りませんでした。幸運というしかありません。

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2021年4月 4日 (日)

昭和14年/1939年、長谷川伸たちが小説の勉強会「十五日会」を始める。

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▼昭和15年/1940年、長谷川伸門下の「十五日会」から河内仙介が直木賞を受賞。

 世間には小説の勉強会というものがあります。小説教室の歴史を振り返っていくと、大学のライティングコースと並んでかならず目に止まりますが、これまで日本にどんな勉強会があったのか。まともに取り上げはじめたら無限に出てくるはずです。とても対応できませんので、代表的なものだけさらっと見てみます。

 ということで、先週は丹羽文雄さんを中心とする十五日会のことに触れました。しかし、直木賞の話題で小説の勉強会といえば、やはりこれ、新鷹会を挙げないわけにはいきません。

 新鷹会。長谷川伸さんとともに一時代を築いた有名な勉強会です。何だかいつも直木賞の傍らにあって、ついつい知った気になってしまいますが、うちのブログでもあんまり起源を追っていなかったので、これを機会に少しひもといてみます。

 小学校を途中でやめて、以来さまざまな仕事に就いた長谷川さんは、幼少のころから本をむさぼり読み、演劇に親しむようになって劇作・小説を一心不乱に独学、20代後半からボツボツと原稿が売れるようになっても、まったく向学の手をゆるめません。仲間たちといっしょに月に一度、赤坂の「山の茶屋」に集まって開いたのが「山の会」と称する勉強会で、これはおそらく昭和初期ぐらいに開かれたものと思いますが、くわしい記録は残っていないそうです。

 やがて昭和8年/1933年、長谷川さん49歳、働き盛りのアラフィフ世代のときに土師清二、甲賀三郎、竹田敏彦、藤島一虎らと語らってハナシがまとまり、12月から「二十六日会」を始めます。毎月26日に開くから二十六日会。単純明快です。そこでは当初、小説、戯曲、そして人つくり、三つを勉強することを目標にした、と言われますが、ここに「人つくり」が入っているところが、ミソというか、長谷川一門が単なる創作勉強集団ではない大きな特徴です。

 それと、もうひとつ面白いのが「小説と戯曲」が同じ枠組みで考えられていた、ということでしょう。大衆文芸のなかでは(というか純文芸も同じでしょうが)、小説と戯曲(脚本、台本、シナリオなどなど)は常に隣り合わせの双生児です。直木賞の歴史を見てもそれは明らかで、演劇、芸能、映画、テレビなど、出版以外の要素が賞のなかにたくさん入り込んでいる、という特徴があります。だから直木賞は、文学賞として面白いわけですね。

 それはそれとして、二十六日会に話題を戻します。

 会のある日は、だいたいみんな勤務や仕事があるので、それが終わった夕方に参集し、自分で書いてきた作品を朗読する。他の参加者はそれを聞いて感想を述べ、批評をし、あそこはこうしたほうがいい、あそこはどうだと「勉強」をし合いながら夜を明かす……という段取りでやっていたそうです。これを毎月毎月、何年もつづけたというのですから、好きじゃなければ、なかなか続きません。

 しかしどうやらこの会は、回を重ねるにつれて脚本研究のほうに比重が置かれるようになったらしく、これとは別に小説研究の会合がもたれるようになります。ものの本によりますと、第1回目の会合は昭和15年/1940年9月22日、京橋にあった蕎麦屋「吉田」の2階で開かれ、参集したもの12人。村上元三、山手樹一郎、大林清、棟田博、長谷川幸延、穂積驚、浜田秀三郎、森川賢司、神崎武雄、安房八郎、島源四郎、そして先輩格として長谷川伸。このとき山岡荘八さんは戦地に赴いていたんですが、帰国後は長谷川さんベッタリというふうにこちらの会にも参加します。

 毎月15日に集まることに決まったので、名称は「十五日会」です。しかし、しばらく経って「~日会って名称ばかりだから、いっそ『新鷹会』に名を改めようぜ」と村上元三さんが言い出し、それが長谷川さんにも了承されて「新鷹会」となったんだ、と言われています。

 正式な会員がどう変転していったのか。とくに初期のころの動静はとらえづらいものがありますけど、「十五日会」は昭和15年/1940年9月に発足したことになっています。ただ、直木賞の歴史に当てはめると、河内仙介さんの「軍事郵便」が受賞したのが第11回(昭和15年/1940年上半期)ですが、その選考会は十五日会発足の1、2か月前です。あれ、河内さんって十五日会に入ったあとに直木賞をとったんじゃなかったの? ……などなど、よくわからないこともあります。

 だいたい十五日会って言っているのに、どうして初回の会合が9月22日なんでしょうか。事情は判然としませんが、横倉辰次さんがまとめた『長谷川伸 小説戯曲作法』(昭和39年/1964年11月・同成社刊)の巻末に長谷川さんの年譜が入っていて、ここでは「十五日会」の誕生は昭和14年/1939年7月だ、と書いてあります。第三次『大衆文藝』が創刊したのは昭和14年/1939年3月号で、常識的に考えるとその数か月後に、小説の創作に特化した新進作家たちの集まりができた、と見るほうが自然ですから、十五日会ができたのは昭和14年/1939年7月、新鷹会と名を改めたのが昭和15年/1940年9月、ということなんでしょう。

 とか何とか、細かいところを突つきすぎて「小説教室」のハナシから外れてきました。すみません、先に進みます。

 ともかく十五日会は小説を勉強する集まりだったんですが、やり方は脚本研究の二十六日会とだいたい同じでした。参加者はそれぞれ、自分で小説を書いてきて、みんなのまえでそれを朗読する……という方法です。

 ワープロもなければ、用紙の事情もいまとは違う、そういう時代に小説の書き方を勉強するには、みんなに語って聞かせて講評を得るのが自然だったのかもしれません。しかし、やはりここにも長谷川伸さんなりの小説観というか、「小説と戯曲観」が見えています。戯曲というのは、いちおう生身の人間たちが声を出し合うことを前提につくられるのが建前です。作品の発表のときに朗読してみるのは理にかなっています。小説もまた、形態は違えども戯曲に通じるものがある。人前で読み上げることで、その良し悪しは十分に伝わるものだ。……という考え方です。

 村上元三さんも、その後輩の戸川幸夫さんや平岩弓枝さんも、新鷹会出身の作家は、「会合で朗読する」ことを書いたエッセイをたくさん残しています。同じことをしろと言っても、現代の小説教室では、なかなか受け入れづらい(広がりづらい)気もするんですけど、しかし、シナリオを書くことも小説の勉強、小説を書くのもシナリオの勉強、という長谷川さんの教えを信ずるとすれば、これはこれでマトを射た勉強法なのかもしれません。

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