« 昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。 | トップページ | 平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。 »

2021年3月 7日 (日)

昭和62年/1987年ごろ、高校を卒業した森絵都が、作家を目指して日本児童教育専門学校に入学する。

20210307

▼昭和57年/1982年、日本児童文学専門学院が設立される。

 小説教室だけでも範囲が広いのに、周辺分野となると、わからないことが多すぎます。深入りするうちに直木賞に帰ってこられなくなりそうです。ほどほどにしたいと思います。

 たとえば、作文・綴方、文章、エッセイの書き方教室というものがあります。小説教室とは別のモノだと認識されていますが、いったい小説と作文は、何が同じで何が違うのか。なかなかわかりづらくて、答えのない道です。

 わかりづらくてもいいんですけど、それだと事業を継続するのが難しくなります。教室の運営というのは経済活動でもある。受講生を継続的に募るには、もっと明確な目的を掲げないといけない。……というところで、1980年代以降の小説教室が取り入れたのが「新人賞をとる」とか「プロになる」とか、そういう目的設定でした。職業訓練の風合いも匂いますが、いま小説教室が世間に定着しているのは、この設定を手に入れたからだというのは明らかでしょう。

 職業に直結する芸術系の教室には他にもある、ということで、先週はシナリオ教室のハナシに触れたんですけど、その流れでいうと、いまひとつ思い当たるものがあります。絵本、童話、児童文学の創作教室です。

 若年層向けの文章作品は、それだけで野太い歴史があります。文学や小説との関係でいっても、時に書き手が重なり、時に影響を与え合い、日本の文学史は児童文学ぬきではとうてい考えられません。ここで「直木賞」などという卑近な例を持ち出すのは気が引けますが、直木賞がえんえんと続いてきたベースにも「若年層向け出版市場」の進展・盛衰があったのは間違いなく、戦前の大衆文芸作家から、戦後のジュニア小説界を経て、コバルト、スニーカー、ジャンプJブック、あるいはヤングアダルト、ライトノベルといった市場とのリンクが、直木賞の一側面として確実に存在します。

 そしてもうひとつ、児童文学が特徴的なのは「青少年教育」の色合いをもっていることです。教育を志す者なら、きちんとした専門教育を受けなければならない、という文化は近代以降の日本では常識化しているところがあり、およそ学校の先生になるためにはそのための教育を受けるのがスジだ、ということになっています。その意味でも、子供向けの創作を学校で学ぶことには、小説教育ほど一般に違和感が持たれづらい、という素地もあります。

 すみません。この調子で童話系の歴史を掘り下げていくと、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、坪田譲治の『童話教室』『びわの実学校』、鈴木三重吉『赤い鳥』、巌谷小波の木曜会……と手を伸ばさないといけないハナシが増えていくばかりです。ここは一気に端折りまして、昭和57年/1982年。この年、児童文学に的を絞った画期的な(?)専門学校が設立されました。「日本児童文学専門学院」です。

 同学院は2年後の昭和59年/1984年に専修学校の認可を得て「日本児童教育専門学校」と改称。いまでは保育・幼児教育にシフトした体制になっているようですが、当初は学院時代の名称からもわかるとおり、児童文学や絵本などの創作教育に力を入れ、「書きかたを教えて学ぶ、そして第一線の幼年対象作家を世に送り出す」ことに主眼を置いたスクールでした。平成7年/1995年の学校案内を見ると、2ヶ年の「児童文化専門課程」が設けられていて、児童文学専攻科、童話創作専攻科、絵本創作専攻科、出版編集専攻科といった科を擁しています。講師にはプロで活躍する児童出版の書き手・作り手が揃っている、という触れ込みです。

 たしかにモノを書いて生活していく、という道は小説ばかりとは限りません。映像メディアに関わるシナリオ、構成作家から、ノンフィクション、雑誌ライター、そして児童文学、童話などなど……ジャンルの細分化と発達のなかで1960年代、70年代、80年代と、さまざまな専門教育機関ができていった実例のひとつが「日本児童教育専門学校」だった、というわけですが、ここに直木賞ファンにも馴染み深い人が、未来の物書きを目指して入学します。森絵都さんです。

 小学生の頃から学校の勉強はほとんどダメだったという森さんですけど、唯一、好きだったのが作文でした。高校の卒業を前にして、どういう進路を選ぶか真剣に考えていなかったところ、心配した友達が渡してくれたのが専門学校の資料。それをパラパラめくっていたときに、ハッと見つけたのが、書くことを学べるという日本児童教育専門学校の児童文学専攻科です。そうだ。私は書くことが好きなんだ。だったら作家を目指してみよう……と思って同校に入ります。

 学習過程は2年あります。いったい何を学ぶのか。いろいろ授業はあったでしょうけど、みんなで書いたものを持ち寄って合評し、それでまた書いて討議するという授業があったそうです。ほとんど小説教室と同じです。

 いろいろな授業がありまして、創作の授業では課題が最初は五枚から入って原稿用紙の書き方から教えてもらって。そして合評会があって、みんなで意見を言う。

佐藤(引用者注:佐藤多佳子) あの合評というのは、いやな世界ですよね。

 いやですよね。みんな若いから、言いたいことを言うんです。途中からは学校の授業でやっているよりは、公募に出していったほうがいいかなと思ってやっていたんですけど。」(『小説現代』平成15年/2003年9月号 佐藤多佳子、森絵都対談「児童文学からの、新しい風」より)

 森さんも、対談相手の佐藤多佳子さんも、合評はいやだ、という価値観で一致しているのが面白いところです。文学史をさかのぼると、同人誌の文化で育ってきた人たちは、合評で泣かされた、でも合評で鍛えられた、と語る例が多く、「鍛えられた」と言い切ってしまう精神性が文学青年のキモいところなんですが、公募の制度が発達したことでわざわざ合評をしなくても済む時代、「合評会はいやだった」と敬遠する意見が語られるのを見るにつけ、仲間同士の文学討議というのは、練習中は水を飲むなとか、我慢すれば強くなるといった、スポーツ教育にあった因習の弊害と似たようものなのかもしれないなあ、とも思います。ほんとうに合評というのは創作修業に唯一無二の必要不可欠なものなのか。はなはだ疑問です。

          ○

▼昭和63年/1988年、在学中の森絵都が講談社児童文学新人賞の最終候補に残る。

 「一気に端折る」と書いたんですけど、仲間同士の言い合い・けなし合い、というハナシが出てきたので、少し昔の話題も加えておきます。岡野薫子さんのことです。

 『坪田譲治ともうひとつの『びわの実学校』』(平成23年/2011年5月・平凡社刊)という本があります。シナリオライターだった岡野さんが児童文学の習作を始めた1960年代当時、書いたものを坪田譲治さんに送って批評を仰いでいたそうです。送るうちにその才を坪田さんに認められ、昭和39年/1964年、長編の『銀色ラッコのなみだ――北の海の物語』を刊行、デビューを果たすことになりますが、その作家誕生までの経緯に、坪田さんが主宰して創刊した『びわの実学校』という同人誌のことが出てきます。

 坪田さんから同誌の編集同人に、と誘われますが、岡野さんは乗り気ではなく、同人は辞退して自分の創作に集中する道を選びます。そうしてようやく仕上げたのが「銀色ラッコのなみだ」。その出版も決まり、坪田さんを発起人として出版記念会も開かれ、賞もとり、新聞各紙で取り上げられて評判は相当に高まりますが、ここで同人に参加しなかったことがマズかったのか、一部からさまざまな嫉妬や悪評を受けた……と岡野さんは振り返ります。

「「世の中、嫉妬深い人が多いですからね。とりわけ、この文壇というところがそうなんです。ヤキモチ焼きばかりが揃っています」先生(引用者注:坪田譲治)は真面目な顔でいわれた。「文壇の嫉妬というのは恐ろしいものです」

『銀色ラッコのなみだ』の出版後、私自身この時の言葉に思い当ることはよくあった。」(『坪田譲治ともうひとつの『びわの実学校』』「第六章 巣立ちのとき」より)

 ということで、他人のヤキモチといえばそう見えるし、岡野さんの気にしすぎといえば、そう見えなくもない、いくつかの例が出てきます。ただ、嫉妬が理由でつい相手に冷たく当たってしまうとか、悔しいのでなるべくその相手のことは無視するようにする、といった心理は日常の生活でもよくあることで、文壇に限ったハナシではありません。とくに「同人組織の仲間」といえば近くにいる人間です、関係性が近ければそれだけ嫉妬も露骨になりがちなんでしょう。うんざりします。

 いやいや、きれいごとだけじゃ済まされない、そういう嫉妬があるからこそ文学は成り立つのだ……というのが、おそらく文学青年たちの逃げ口上なんでしょう。そう豪語する文学亡者とはお近づきにならないのが無難だな、と感じるわけですが、仲間内の不毛な嫉妬の打ち合いを消し去るという意味でも、やはり公募の文学賞(新人賞)の発達は、人類にとって小さく、そして偉大な一歩だったと思います。

 ハナシがズレてきました。先に挙げた対談まで戻します。

 在学中の森絵都さんは、合評にはあまり本腰を入れず、手当たり次第に公募への投稿をつづけたそうです。

 専門学校に入って目標のはっきりしたことが、森さんにとっては功を奏したとも言えるでしょう。作家になる。デビューする。そのためにはどうするか。何か新人賞で受賞するのがいちばんだ、と信じて、書いては応募し、落ちては書きまくります。入学が決まったときに父親がポロッと吐き捨てた「作家になんかなれっこない」という言葉を、むしろ奮起のバネにした、という面もあったそうですが(『オール讀物』平成18年/2006年9月号「父に捧ぐ」)、わずか1、2年でほんとうに作家になるしっぽをつかんでしまうのですから、森さんがスゴいのか、日本児童教育専門学校という創作教育機関がスゴいのか。両者の心境と環境がうまく組み合わさった、というところでしょう。

 2年間いろいろな公募に応募を続けるうち、「両手で夢をだきしめろ」で第29回講談社児童文学新人賞の最終候補に残ったのが、昭和63年/1988年。森さん、まだ在学中のことです。よーし、ここで一回候補になったのなら、絶対にこの賞を受賞してデビューしてやる、と気合が入ると、卒業後にアニメのシナリオの仕事などをしながらも投稿を続けて、第31回に「リズム」で首尾よく受賞。翌年講談社から刊行されることになります。

 そこから出せども出せども本の売れ行きが悪くて、自分の書いたものが誰に届いているのかよくわからない期間を経て、ようやく反響を肌身に感じた『カラフル』の発表まで8年。一般向けに初めて刊行した『永遠の出口』が多くの読者に伝わり、本屋大賞の最終ノミネートに選ばれるまで14年。われらが直木賞が森絵都作品を初めて候補にするまで15年。そして直木賞の受賞まで16年……と、デビュー以降もけっこう長く変転があります。果たして、日本児童教育専門学校の同窓生たちは、そのなりゆきを見て、どう感じたのか。怖いけど、ちょっと聞いてみたい気もします。

|

« 昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。 | トップページ | 平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。 »

小説教室と直木賞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。 | トップページ | 平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。 »