平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。
▼平成4年/1992年、出版社メタローグのもと、『リテレール』が創刊、「創作学校」が開校する。
小説教室をつくってきたのは、誰でしょうか。大学あり、マスコミ企業あり、イデオロギーにまみれた文学団体あり。いろいろな組織が手がけてはつぶし、撤退しては挑んできました。もちろん出版に携わる企業人や編集者たちも、のうのうと暮らしていたわけではありません。これはうまく行けばカネになるぞ。と、ビジネスの夢を求めて、いくつかの出版社が勢い込んで参入します。
たとえば昭和49年/1974年「日本ジャーナリスト専門学校」にカネを出したみき書房もそうでしたけど、平成4年/1992年に開校した「創作学校 Creative Writing School(CWS)」も、代表的なひとつです。
いや、代表しているかはわかりません。とくに革新的な試みでもなく、片々たる一例かもしれませんが、当時、「オメガ」という編集プロダクションをやっていた天道襄治さんとそのスタッフ今裕子さんが、本格的に小説の書き方を教える学校を立ち上げたらどうだろう、きっと人も集まるだろう、と大きな夢をもち、一大プロジェクトを企画します。以来、創設から30年超。いまもまだ、とりあえず続いているようです。
しかし、創作学校CWSが90年代、日本の小説教室史に名を残したのは、何といってもその二人が、安原顯さんに設立を相談したからでしょう。
やすはら・けん。通称ヤスケン。大風呂敷を広げて悪目立ちすることにかけては天下一品、生きているうちはいいけれど死んだ途端に悪口を言われてハイそれまでよ、でおなじみの、いまではその著書を手にとる人もほとんどいない、あの安原さんです。
バブル景気の時代、中央公論社の女性誌『マリ・クレール』を編集し、けっこうたくさん売りました。平成4年/1992年、23年ぐらい在籍した中公にツバをひっかけて退社したところ、次の仕事を持ってきたのが、安原さんがかつて竹内書店で働いていたときに同僚だった天道さんで、新しい雑誌の創刊と、創作学校の設立を打診したのだといいます。
だいたいの経緯は、『ぜんぶ、本の話』(平成8年/1996年9月・ジャパン・ミックス刊)の「出版社「メタローグ」をめぐる冒険」とか、『決定版「編集者」の仕事』(平成11年/1999年3月・マガジンハウス刊)の「第四章 出版社メタローグと「創作学校」を創設」とかに詳しいです。ゲテモノ好きな方はぜひ原文を読んで、罵倒と放言を繰り返す安原さんのスタイルに、気分を害すもよしヘドを吐くもよし、著者渾身の暴露ゴシップを堪能していただければいいんですけど、新会社のメタローグで『リテレール』という季刊誌を創刊したのが平成4年/1992年6月、創作学校の創立が同年10月。ほとんどおれ一人の苦労によって始めることができたのだ、と安原さんは豪語しています。
時にこのころ、直木賞ともう一つの文学賞は、第107回(平成4年/1992年・上半期)を迎えた時期です。純文学系の賞のほうは、80年代後半に訪れた暗いトンネルをようやく抜け出たものの、そこは雪国のように寒く、歴史的役目は終わっただの、こんな茶番早くやめちまえだのと、外野からワーワー言われ、もちろん安原さんもクソミソに叩いています。いまから30年ほどまえのことです。なつかしいですね。
そもそも安原さんが、どの程度直木賞に興味があったのかは不明ですが、第114回(平成7年/1995年・下半期)のときには、小池真理子『恋』なんて駄作に賞を与えやがって、選考委員の罪は重い! と断言していたようです。直木賞がだれのどんな作品に賞を与えようが、おれには関係ないよ、と言い捨ててもいいのに、なぜか結果に反応しています。文句を言う。そしてけっきょく文句ばかりが威勢よく、相手に届いたふしもありません。安原さんのような有能な人でさえ、権威ゴッコの茶番を終わらせることができなかった、という歴史的事実を確認すると、直木賞ほか一賞のたくましさがよけいに際立ちます。
と、ここで文学賞の話題を持ってきたのは他でもありません。安原さんがなぜ「創作学校」という面倒な仕事を引き受けたのか、その理由のひとつに文学賞のことを挙げているからです。引用してみます。
「ぼくがなぜ「創作学校」など仕切る気になったかと言えば、文芸誌の新人賞はもちろん、芥川賞・直木賞に代表される近年の新人賞受賞作の、あまりのレヴェルの低さに唖然とさせられ続けたことも大きいが、作家志望の若者を本気でしごけば、1、2年に1人くらい、可能性のあるパワフルな新人が育てられるかもしれぬとの、余計なおせっかいからだった。しかし、3回の授業を体験し、そんなに簡単なことではないことを痛感させられると同時に、一方では、始めた以上は、何としてでも新人を送り出してやりたいとの、妙なファイトも湧いてきている。」(平成5年/1993年5月・図書新聞刊、安原顯・著『ふざけんな! まだ死ねずにいる日本のために』「「創作学校」の課題作文を読み、「俺は肥溜めじゃねえぞ」と怒鳴る天才」より)
安原さんのハナシを信じると、メタローグの運営も創作学校も、一年ほどで赤字がぐんぐん積み重なり、抱えた負債が4000万円。これを見て天道さんはすぐに撤退しますが、残った今さんが安原さんを引き止め、今さん800万円、安原さん500万円を出し合ってメタローグの経営を継続。しかしどんどんお金は出ていくいっぽうで、平成6年/1994年にはどうにも首がまわらなくなり、「安原さん、今後は無給でお願いします」と言われてはさすがに続ける意思も消え失せて、この年の12月、『リテレール』11号を出したのを最後に、安原さんはこの事業から一切身を引きました。ところがハナシはそれでは終わらず、なぜか連帯保証の債務を負わされたため、安原さんブチ切れて……といった、犬も食わないいざこざは、先に挙げた参考文献を読んでみてください。
ビジネスのうえでは損も得も紙一重。おカネがなくなっても恨みっこなしよ、というのが通常の人間社会です。しかしここまでして、親しい人に頼み込んで講師をやってもらったり、才能があるのかわからない受講生たちのために作品を添削したり、安原さんが創作学校を始めた気持ちに、損得では計れないものがあったのは間違いありまけん。そう考えると安原さんが自分のことを「おせっかい」だというのは、まったくの至言でしょう。
○
▼平成7年/1995年、中条省平『小説家になる!』が発売され、よく売れる。
ところで「創作学校CWS」の特徴というと、何でしょうか。
安原さんが離れたあとのことは別として、ともかく最初は一流の講師を招き、一流の講義をおこない、一流の添削で指導する……それを売りにしようとした、ということが挙げられます。ちなみに受講料は「創作科」が1年60万円、「ライター科」が半年16万8000円、「特別講義」だけ聴講するコースが一回3500円×40回で14万円。けっこうお高めです。
これはおそらくですけど、このころ世間にワッと増えだした「小説教室」に対するアンチテーゼもあったものと思います。
安原さんは吐き捨てています。
「いま流行りの、気色の悪いカルチャー・スクールって、おばさんたちの暇つぶしの場でしょう。それはそれで結構だけど。だから受講料も安いよね。ぼくのとこの「創作学校」は。ぼくは高いとはまったく思ってないけど、まあローンもOKで、年間六十万円也。だからおばさんには厳しいものがあるんじゃないの。」(『早稲田文学』平成4年/1992年12月号 安原顯、三田誠広「徹底的に、個別的に ありうべき文学教室の指導要領」より)
カルチャー・スクールの小説講座のことを気色が悪いと言っています。そういうところから新人賞をとったり作家デビューにいたる人は、指折り数えてもたくさんいますが、安原さんの文学観からすると、そういう場で生まれるものは認めがたかったんでしょう。上記に引用した対談では「ぼくの推薦する小説が既成の文芸誌で許容される可能性は少ないと思うので(笑)。」とも言っています。そこら辺は心得ていたようです。
ということで、この学校が直木賞と交わるハナシはほとんどないんですけど、しかし意外と直木賞に似た点もあったよなあ、と思うところがなくはありません。
この学校からは何冊か本が生まれていますが、なかに中条省平さんの「創作科」での講義をもとにしたものがあります。
一冊目の『小説家になる! 天才教師中条省平の新人賞を獲るための12講』(平成7年/1995年5月・メタローグ刊)は、増刷に次ぐ増刷を重ねたそうです。あまりの売れ行きに続編も企画され、『小説家になる!2』(平成13年/2001年1月・メタローグ刊)というものも出ました。こちらがどれだけ売れたのかは、正直不明ですけど、ともにちくま文庫に収録されることになり、前者は『小説の解剖学』、後者は『小説家になる! 芥川賞・直木賞だって狙える12講』と改題されています。
親本の一巻目と、文庫版の二巻目は副題が似ています。しかもインパクトが素晴らしく、売れ行きの何割かはそのおかげだったはずですが、新人賞をとるためとか、芥川賞・直木賞も狙えるとか、そういう俗臭で釣っておいて、読んでみると、文学賞をとらせるための内容ではなく、退屈な(もとい、勉強になる)小説講義がつづくという寸法です。
考えてみると、文学賞をエサにして多くの人の目をひきつけながら、それをきっかけに文学の世界に誘い込む……このやり口は、直木賞らがいつもやっている両賞の特徴でもあります。そう考えると、創作学校CWSが創設期から持っていた、こういうインパクト過多な「大風呂敷」は、直木賞らと近かった、と言っていいでしょう。
炎上上等、言ったもん勝ちは、小説教室の世界でも同じです。これを得意とした安原さんが早々にCWSから離れてしまったのが残念でなりません。
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