平成5年/1993年、東海大学文学部の「文章作法II」を辻原登が教えることになる。
▼平成4年/1992年、安原顯が、創作科から出てきた作家の小説は「クズ中のクズだ」と言う。
1990年代に入って、創作講座は一気に裾野を広げます。
いろいろな場所で、さまざまなタイプの講座がつくられ、現役の作家が能動的に小説の書き方を教える機会も増えました。そうだよ小説作法を教えてカネをもらうことの何が悪い。と、わざわざ肩ひじ張って主張しなくても、それが自然に受け入れられる時代がやってきます。
プロになるには文学性なんて不要だ。と言わんばかりに、プロットの立て方、キャラクターのつくり方などを重視するクラスがつくられる。いっぽうでは、文学とは自分を高めるためにあるものだ、と言い切って読書と執筆に親しむ趣味サークルが群立する。……それぞれの目的に根ざした教室が、泡のように生まれ、泡のように消えていきます。
前週、取り上げた創作学校CWSも、90年代の産物のひとつです。創設のとき、その中心にいた安原顯さんはやる気をみなぎらせ、「小説教室」のうえで先輩に当たる早稲田大学文芸専修の三田誠広さんのもとを訪れて、どういう感じで創作を教えているのか、熱心に尋ねました。その様子をまとめた対談記事のことは前回も紹介したんですが、そこには平成4年/1992年当時の小説教室を二人がどう見ていたのか、ということも合わせて語られています。ちょっと参考にさせてもらいましょう。
ひまなオバさんが群れをなすカルチャー・スクールを、安原さんは「気色が悪い」と一蹴していましたが、ひるがえって大学の創作科のことも、あまり評価していなかったようです。
対談の司会(『早稲田文学』編集部の人)に「大学の文芸科からは作家は出てこないような気がする」と振られて、そりゃそうだと言わんばかりに、こう語っています。
「それはアメリカの大学の創作科の場合もおなじで、あれは一種、喰えない作家のための救済的要素が強いし、まあひとにもよるんだろうけど、そんなに熱心には教えていないみたいね。学生の自主性に任せているというか。ミニマリストのなかにもカーヴァーのような例外はあるけれど、創作科が増えてからでしょう。いわゆる身辺雑記的素材の小説がアメリカで急増したのは。マキナニーにしろ、ブリット・イーストン・エリスだっけ、映画にもなった、彼らに象徴される創作科出身の新人作家って、アメリカでも、日本の翻訳でも、一応ベストセラーになったけど、小説としてはクズ中のクズだね。」(『早稲田文学』平成4年/1992年12月号 安原顯、三田誠広「徹底的に、個別的に ありうべき文学教室の指導要領」より 安原顯の発言)
創作科出身の作家には特徴的な作風がある、というのはなかなか面白い見立てです。
この説を受けて、三田さんもアメリカの創作科には問題点があると指摘。それは、受講生の作品をみんなで読んで批評するかたちをとっているため、素人同士の口論合戦になりやすく、けっきょくみんな減点されないようなこじんまりしたものばかり書くようになってしまうようだ……と答えています。
誰かの書いたものを、みんなで読んで批評し合う。要するに、同人雑誌の世界で古くから行われてきた合評会そのものです。
ああ、同人雑誌の合評会。……悪評高き、といいますか、美しき伝統美、といいますか。自分の書いた作品を、仲間たちに読ませたうえで面と向かって批評される。攻守入れ替わって仲間の書いたものを読み、今度はこちらが公衆の面前で批評を述べる。そんな合評会という文化が生まれたのはいったいいつからなんでしょう。まったくわかりませんけど、いかにも文学修業といったらコレだ! というふうに昭和の日本の同人誌に定着していたのは間違いありません。
70年代後半から日本じゅうに拡散した「小説教室」は、発展するなかでいろいろな旧弊とぶち当たりましたが、そのひとつが「合評会」だったのもまた明らかです。
同人雑誌の文化から生まれた、と言っていい朝日カルチャーセンターの駒田信二教室では、自前で雑誌をつくり、当然「合評会」が行われました。そこでの生徒同士のぶつかり合いが、木下径子『女作家養成所』(平成1年/1989年1月・沖積舎刊)という怪作を生み出した……というのは、ここ何か月かブログで追ってきたとおりです。
また、日本児童教育専門学校出身の森絵都さんと、青山学院大学の児童文学サークル出身の佐藤多佳子さんが、合評というのはイヤな世界ですよね、と語り合っていたのも印象的です。創作教育、創作学習に、みんなでみんなの作品を読み合う形式は果たして有効なのか。……小説教室が拡大するに当たってこの問題に遭遇したことは、相当大きなインパクトをもたらしたように思います。
討論、ディベート、ディスカッション。昔から日本人が苦手と言われ、ビジネスでも教育の場でもなかなかその効果を採り入れることができないままに時代が進んできましたが、「同人誌の合評会」という闇の奥底でチマチマ行われていた奇妙な因習が、小説教室という広く人目に触れる場面に応用されたとき、うぇ、何だこりゃ、こんなもので小説を書く力が鍛えられるわけないじゃんか、と多くの人の拒否反応を誘ったのは間違いないところです。
やはり創作を学ぶには、討論形式ではなく、ひとり教える講師がいて、生徒はその先生とのやりとり、添削、聴講のなかで書いていく方法が望ましいのではないか。じっさい小説教室の主流は、徐々にそちらのほうに傾いていくことになります。
90年代から2000年代初頭にかけて、いくつかの大学で創作教育を採用する流れが生まれますが、そういったところでもいわゆる合評ではなく、講師対生徒の関係をどのように高めて創作につなげるか、という観点が重視されたようです。直木賞のハナシから外れるいっぽうですけど、せっかくなので、この勢いで「逆漱石現象」のことに触れてみたいと思います。
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▼平成13年/2001年、東海大学に文芸創作学科ができ、辻原登が主任教授となる。
逆漱石現象。何だそれ。と言われるかもしれません。2000年代のはじめごろ、『読売新聞』あたりでちょくちょくこの言葉が使われました。夏目漱石は大学の先生から小説家になった。その逆に、最近では作家や評論家が大学に招かれるケースが増えていて、俗に「逆漱石現象」と呼ばれているらしい。ねっ面白いでしょ、うんぬん、というハナシです。
しかしさかのぼってみると、作家が大学で教えたり、その逆に大学にいた人が小説や評論を書いてマスコミに登場したり、そんなことは別にこの時代に特徴的な現象ではありません。漱石の時代よりも前から現在にいたるまで、えんえんと当たり前のように起きつづけています。何がいまさら「逆漱石」だよ馬鹿バカしい、と鼻で笑われてもおかしくなく、現にいまでは完全に消え失せてしまったマスコミ用語のひとつです。
たしかに問題は、大学に招かれる作家が増えたとか減ったとかではありません。大学で創作を教える動きが、早稲田、近畿と続いたあとに、さほど活発化することなく停滞してしまった、というところにありそうです。
ということで、早稲田、近畿のあとに連なる「第三の創作科」と言われた大学があります(いや、言われてないか)。東海大学です。
同大学の文学部に、芸術的な文章創作を課題とした「文章作法II」の科目ができたのが、平成5年/1993年4月のこと。前年、平成4年/1992年から「言語芸術学特別講義」なる、文章の読み方・書き方を教えていた辻原登さんをその講師に招いたことで、おお、芥川賞の受賞者が学生相手に小説の書き方を教えるのか、ということで多少話題になりました。
以来もうじき30年です。平成13年/2001年春には文学部が改組したうえで「文芸創作学科」というものができ、辻原さんが主任教授に就任。学生たちが主体となって『文芸工房』という雑誌も刊行され、いまもぞくぞくと社会に卒業生を送り出しています。長い歩みのなかで、辻原さん含む同大学の創作教育も、何らか効果を上げてきたはずで、傍から見れば「停滞」でも、どこにも正解のない文学の世界に触れながら、やっているほうは常に、挑戦したり妥協したりの連続でしょう。頑張ってください。
辻原さんには「東海大学で文芸創作を教えている」という立場からの文章がたくさんありますが(というか、小説だろうとエッセイだろうと、もはや自身が大学教授であることと不可分なんでしょうが)、そのなかのひとつに「Yの木」があります。
『文學界』平成26年/2014年10月号、12月号に載った小説です。5年ほど前、未知の方から「おたくのサイトの大瀬東二のページには、没年が書かれてないけど、辻原登の「Yの木」には大瀬が昭和63年/1988年に自殺したと書かれてますよ、念のためご参考までに」と、親切なメールがあって、ワタクシもこの小説のことを知ったんですが、大瀬東二の知られざる逸話とともに、ここに出てくる主人公の男が、作家でありながら大学の創作学科で教えている人、というのも興味をそそられます。
小説の文章を引くのもそぐわない気がしますけど、あえて辻原さんが作中でこんなことを書いているので、注目しないわけにはいきません。
「大学の創作学科で、作家の肩書で教鞭を執るのに引け目を感じるようになった。引け目だけでなく、はたして大学で作家を育てられるのか、という疑問が常にあって、創作は教えられるものなのか、という問いには、教えられない、としか答えようがなかった。(引用者中略)学科のカリキュラムの詳細をじっと眺めていると、なるほど創作学科、クリエイティヴ・ライティングコースなるものが、何とも現実味のないものに思えてきてしかたがなかった。」(平成27年/2015年8月・文藝春秋刊、辻原登・著『Yの木』所収「Yの木」より)
辻原さんがこう考えている、というハナシではなく、2000年代になっても創作学科の作家兼教師が「創作なんて教えられっこない」と思っている、そういう現実がある、ということなんだと思います。
なにしろ大学の場合は、カルチャー・スクールなどと違って、「プロ作家になる!」とか「新人賞をとる!」といった目的を打ち出すわけにはいきません。すぐに成果に結びつけないところが、むしろ大学という教育機関の、懐の深さであって、いいところなんですけど、じわじわと若者のあいだに文学のタネを植えていく、という悠長さがなかなか受け入れられないのも、2000年代以降の日本社会の特徴でしょう。その状況では、大学の「小説教室」が増えていかないのも、ある種致し方ありません。
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