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2021年3月の4件の記事

2021年3月28日 (日)

昭和29年/1954年、丹羽文雄の『小説作法』がベストセラーになる。

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▼昭和27年/1952年、丹羽文雄の「小説作法」が載った『文學界』、文芸誌として異例の増刷。

 なるべく時系列に沿って小説教室の歴史を追ってみよう。と思って書いてきましたが、そろそろ終盤、21世紀のハナシに入ったところで、途中、書き落としがあったことに気づきました。なかなかうまくいきませんね。ブログも人生も。

 なので、ちょっと時代をさかのぼります。先週、同人雑誌の合評会のハナシが出てきました。これが日本の小説教室にさまざまなかたちで影響を与えてきたのは間違いないぞ。となると、やはり『文学者』界隈のことを素通りするわけにはいきません。コヤツ、合評とも小説教室とも決して無縁ではないからです。

 丹羽文雄さんを中心とする同人雑誌『文学者』のことは、これまで何度も取り上げてきました。母体となったのは戦前にあった「五日会」、そこから戦後に「十五日会」というかたちに発展した創作・評論の勉強会です。丹羽さんと親しい同輩や後輩などが集まって、来るものは拒まず去るものは追わず、多くの作家志望者がその門を叩き、小説を書いては仲間から酷評され、酒を飲んでは口論し、有名になった人がいれば無名で終わった人もたくさんいる、昭和戦後期を代表する文学同人の団体です。20数年といいますから、だいたい四半世紀ぐらい続いた、と言われています。

 なにぶんマジメな文学に偏った団体ですから、直木賞なんて全然関係ないのかな、と思いきや、中村八朗さんや小泉譲さんをはじめ、数々の作家が直木賞の候補になったことで文学人生を狂わされ、おれは芥川賞的な方向でやっていきたいんだ、勝手に直木賞の候補になんかするな、という感じで、直木賞が得意げに繰り出した「余計なお世話」のなかでも、もろに被害に遭ってしまった人の多いのが、この集団の特徴です。直木賞の観点から見ると、いつも何か心にモヤモヤしたものを感じてしまう『文学者』の人たち……。直木賞なんてものがこの世にあったばっかりに、甚大なご迷惑をかけてしまいました。すみません。

 直木賞のことはひとまず措いておくとして、ほかに『文学者』の特徴といえば何でしょう。雑誌をつくるためのカネの出どころが、現役作家の丹羽文雄さん、だいたいひとりに集約されていたこと。かなり重要な特徴です。

 まったく何はなくとも先立つものはおカネです。カネにまつわる話題は、およそ文学方面では忌避されがちですが、残念ながら日本の近現代文学は、消費をする、利益をあげる、金銭を授受する、すべておカネによって成り立っています。じっさい、直木賞をはじめとする文学賞も、いま調べている小説教室も、ざっくり言ったら「文学におカネを掛け合わせて生まれたシロモノ」という共通点があるのは間違いなく、そういう汚らわしさ……いや、俗っ気で構成されているところが、文学賞と小説教室、双方の魅力の源泉なのだ、と言っても過言ではありません。

 文学賞が日本で市民権を得たのが昭和のはじめ。小説教室が日本の大学でボコボコつくられていったのも、昭和のはじめ。そしてだいたい同じ時期にデビューした丹羽文雄さんは、はなから経済的な活動しての創作が身についていた時代の作家です。小説を書きまくって稼いだおカネを、文学環境を整えることに還元する。丹羽さんは、そういう面でおカネを流動させる活動も担いながら作家人生を歩んだ人だった、と言えるでしょう。

 その活動のなかで、「ひとに小説の書き方を教える」という仕事を引き受けたのも、丹羽さんの大きな特徴です。

 たとえば『文學界』に昭和27年/1952年4月号から発表された「小説作法」という作品があります。昭和29年/1954年3月に文藝春秋新社で書籍化されるやベストセラーになってしまい、これまで数々生まれてきた小説の書き方を説明した本のなかでも金字塔と言っていい作品ですけど、これが改題されて『私の小説作法』(昭和59年/1984年3月・潮出版社刊)として再刊されるときに、改めてつけられた「あとがき」によれば、単行本になる前、『文學界』に最初に発表した段階で「その号に限り『文學界』が増刷したということであった」そうです。文芸誌が増刷されるなんて異例のことだ、と昨今もいろいろ話題になったりしていますが、当世の人気作家丹羽文雄が自らの創作のやり方を大胆に開示してみせた! ……ということが、いかにそのころの読者にインパクトを与えたのか、よくわかります。

 興味深いのは、丹羽さんが創作の方法を他人と共有することに、さほどの抵抗感がない感性の持ち主だった、ということです。

 小説の書き方なんて千差万別で、そんなものは教えようがない、と『小説作法』のなかにも出てきます。では、どうしてこういうものを書こうと思ったのか。信頼する後輩、小泉譲さんが聞き手になったインタビューで、こう答えています。

丹羽 わしのところには、他の作家もそうだろうが、非常にたくさんの原稿が送りこまれるのだよ。勿論、未知の文学青年の原稿だ。北は北海道から、南は九州の果てに到るまで。つとめて、目を通し、短評をつけて返送してやつていたが、郵送料だけでも大変なものだ。しかし、みな一生懸命なのだから出来るだけはやつてやりたいと思つてねえ。だが、仕事もいそがしいし、それに最近眼が非常に疲れるのでね、なるべく勘弁して貰つている。そこで、何か、そういう人たちのために参考になる小説入門書みたいなものはないものかと漠然とだが考えていたんだよ。」(『文章倶楽部』昭和30年/1955年5月号 丹羽文雄、小泉譲「新人について」より)

 丹羽さんの、文学志望者たちに対する寛大な親切心がよく伝わる逸話なんですが、ここにもまた「おカネとともにある文学シーン」という背景を強烈に感じないわけにはいきません。

 そもそもどうして見ず知らずの全国の志望者が、丹羽さんのところに原稿を送ってくるかといえば、丹羽さんが新聞、雑誌などメディアにひんぱんに登場する売れっ子だから……という面が確実にあります。そういう人たちの要求を、一対一のリアルなやりとりで叶えるのは限界がある。ならば、文芸誌を使って(もしくは単行本というかたちで)「小説の書き方」を売り物にしてしまえば、より多くの人たちの希望に応えることができるではないか。丹羽さんの『小説作法』は、そういう商業的出版の仕組みを前提として生み出されたものです。

 メディアを介した小説教室は、いまの時代も健在で、オンラインにしろオフラインにしろさまざまな講座が出まわっています。丹羽さんの『小説作法』もその系列に通ずる性格をもった「小説教室」と言っていいでしょう。

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2021年3月21日 (日)

平成5年/1993年、東海大学文学部の「文章作法II」を辻原登が教えることになる。

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▼平成4年/1992年、安原顯が、創作科から出てきた作家の小説は「クズ中のクズだ」と言う。

 1990年代に入って、創作講座は一気に裾野を広げます。

 いろいろな場所で、さまざまなタイプの講座がつくられ、現役の作家が能動的に小説の書き方を教える機会も増えました。そうだよ小説作法を教えてカネをもらうことの何が悪い。と、わざわざ肩ひじ張って主張しなくても、それが自然に受け入れられる時代がやってきます。

 プロになるには文学性なんて不要だ。と言わんばかりに、プロットの立て方、キャラクターのつくり方などを重視するクラスがつくられる。いっぽうでは、文学とは自分を高めるためにあるものだ、と言い切って読書と執筆に親しむ趣味サークルが群立する。……それぞれの目的に根ざした教室が、泡のように生まれ、泡のように消えていきます。

 前週、取り上げた創作学校CWSも、90年代の産物のひとつです。創設のとき、その中心にいた安原顯さんはやる気をみなぎらせ、「小説教室」のうえで先輩に当たる早稲田大学文芸専修の三田誠広さんのもとを訪れて、どういう感じで創作を教えているのか、熱心に尋ねました。その様子をまとめた対談記事のことは前回も紹介したんですが、そこには平成4年/1992年当時の小説教室を二人がどう見ていたのか、ということも合わせて語られています。ちょっと参考にさせてもらいましょう。

 ひまなオバさんが群れをなすカルチャー・スクールを、安原さんは「気色が悪い」と一蹴していましたが、ひるがえって大学の創作科のことも、あまり評価していなかったようです。

 対談の司会(『早稲田文学』編集部の人)に「大学の文芸科からは作家は出てこないような気がする」と振られて、そりゃそうだと言わんばかりに、こう語っています。

「それはアメリカの大学の創作科の場合もおなじで、あれは一種、喰えない作家のための救済的要素が強いし、まあひとにもよるんだろうけど、そんなに熱心には教えていないみたいね。学生の自主性に任せているというか。ミニマリストのなかにもカーヴァーのような例外はあるけれど、創作科が増えてからでしょう。いわゆる身辺雑記的素材の小説がアメリカで急増したのは。マキナニーにしろ、ブリット・イーストン・エリスだっけ、映画にもなった、彼らに象徴される創作科出身の新人作家って、アメリカでも、日本の翻訳でも、一応ベストセラーになったけど、小説としてはクズ中のクズだね。」(『早稲田文学』平成4年/1992年12月号 安原顯、三田誠広「徹底的に、個別的に ありうべき文学教室の指導要領」より 安原顯の発言)

 創作科出身の作家には特徴的な作風がある、というのはなかなか面白い見立てです。

 この説を受けて、三田さんもアメリカの創作科には問題点があると指摘。それは、受講生の作品をみんなで読んで批評するかたちをとっているため、素人同士の口論合戦になりやすく、けっきょくみんな減点されないようなこじんまりしたものばかり書くようになってしまうようだ……と答えています。

 誰かの書いたものを、みんなで読んで批評し合う。要するに、同人雑誌の世界で古くから行われてきた合評会そのものです。

 ああ、同人雑誌の合評会。……悪評高き、といいますか、美しき伝統美、といいますか。自分の書いた作品を、仲間たちに読ませたうえで面と向かって批評される。攻守入れ替わって仲間の書いたものを読み、今度はこちらが公衆の面前で批評を述べる。そんな合評会という文化が生まれたのはいったいいつからなんでしょう。まったくわかりませんけど、いかにも文学修業といったらコレだ! というふうに昭和の日本の同人誌に定着していたのは間違いありません。

 70年代後半から日本じゅうに拡散した「小説教室」は、発展するなかでいろいろな旧弊とぶち当たりましたが、そのひとつが「合評会」だったのもまた明らかです。

 同人雑誌の文化から生まれた、と言っていい朝日カルチャーセンターの駒田信二教室では、自前で雑誌をつくり、当然「合評会」が行われました。そこでの生徒同士のぶつかり合いが、木下径子『女作家養成所』(平成1年/1989年1月・沖積舎刊)という怪作を生み出した……というのは、ここ何か月かブログで追ってきたとおりです。

 また、日本児童教育専門学校出身の森絵都さんと、青山学院大学の児童文学サークル出身の佐藤多佳子さんが、合評というのはイヤな世界ですよね、と語り合っていたのも印象的です。創作教育、創作学習に、みんなでみんなの作品を読み合う形式は果たして有効なのか。……小説教室が拡大するに当たってこの問題に遭遇したことは、相当大きなインパクトをもたらしたように思います。

 討論、ディベート、ディスカッション。昔から日本人が苦手と言われ、ビジネスでも教育の場でもなかなかその効果を採り入れることができないままに時代が進んできましたが、「同人誌の合評会」という闇の奥底でチマチマ行われていた奇妙な因習が、小説教室という広く人目に触れる場面に応用されたとき、うぇ、何だこりゃ、こんなもので小説を書く力が鍛えられるわけないじゃんか、と多くの人の拒否反応を誘ったのは間違いないところです。

 やはり創作を学ぶには、討論形式ではなく、ひとり教える講師がいて、生徒はその先生とのやりとり、添削、聴講のなかで書いていく方法が望ましいのではないか。じっさい小説教室の主流は、徐々にそちらのほうに傾いていくことになります。

 90年代から2000年代初頭にかけて、いくつかの大学で創作教育を採用する流れが生まれますが、そういったところでもいわゆる合評ではなく、講師対生徒の関係をどのように高めて創作につなげるか、という観点が重視されたようです。直木賞のハナシから外れるいっぽうですけど、せっかくなので、この勢いで「逆漱石現象」のことに触れてみたいと思います。

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2021年3月14日 (日)

平成4年/1992年、中央公論社を退社した安原顯が奔走して「創作学校(CWS)」を立ち上げる。

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▼平成4年/1992年、出版社メタローグのもと、『リテレール』が創刊、「創作学校」が開校する。

 小説教室をつくってきたのは、誰でしょうか。大学あり、マスコミ企業あり、イデオロギーにまみれた文学団体あり。いろいろな組織が手がけてはつぶし、撤退しては挑んできました。もちろん出版に携わる企業人や編集者たちも、のうのうと暮らしていたわけではありません。これはうまく行けばカネになるぞ。と、ビジネスの夢を求めて、いくつかの出版社が勢い込んで参入します。

 たとえば昭和49年/1974年「日本ジャーナリスト専門学校」にカネを出したみき書房もそうでしたけど、平成4年/1992年に開校した「創作学校 Creative Writing School(CWS)」も、代表的なひとつです。

 いや、代表しているかはわかりません。とくに革新的な試みでもなく、片々たる一例かもしれませんが、当時、「オメガ」という編集プロダクションをやっていた天道襄治さんとそのスタッフ今裕子さんが、本格的に小説の書き方を教える学校を立ち上げたらどうだろう、きっと人も集まるだろう、と大きな夢をもち、一大プロジェクトを企画します。以来、創設から30年超。いまもまだ、とりあえず続いているようです。

 しかし、創作学校CWSが90年代、日本の小説教室史に名を残したのは、何といってもその二人が、安原顯さんに設立を相談したからでしょう。

 やすはら・けん。通称ヤスケン。大風呂敷を広げて悪目立ちすることにかけては天下一品、生きているうちはいいけれど死んだ途端に悪口を言われてハイそれまでよ、でおなじみの、いまではその著書を手にとる人もほとんどいない、あの安原さんです。

 バブル景気の時代、中央公論社の女性誌『マリ・クレール』を編集し、けっこうたくさん売りました。平成4年/1992年、23年ぐらい在籍した中公にツバをひっかけて退社したところ、次の仕事を持ってきたのが、安原さんがかつて竹内書店で働いていたときに同僚だった天道さんで、新しい雑誌の創刊と、創作学校の設立を打診したのだといいます。

 だいたいの経緯は、『ぜんぶ、本の話』(平成8年/1996年9月・ジャパン・ミックス刊)の「出版社「メタローグ」をめぐる冒険」とか、『決定版「編集者」の仕事』(平成11年/1999年3月・マガジンハウス刊)の「第四章 出版社メタローグと「創作学校」を創設」とかに詳しいです。ゲテモノ好きな方はぜひ原文を読んで、罵倒と放言を繰り返す安原さんのスタイルに、気分を害すもよしヘドを吐くもよし、著者渾身の暴露ゴシップを堪能していただければいいんですけど、新会社のメタローグで『リテレール』という季刊誌を創刊したのが平成4年/1992年6月、創作学校の創立が同年10月。ほとんどおれ一人の苦労によって始めることができたのだ、と安原さんは豪語しています。

 時にこのころ、直木賞ともう一つの文学賞は、第107回(平成4年/1992年・上半期)を迎えた時期です。純文学系の賞のほうは、80年代後半に訪れた暗いトンネルをようやく抜け出たものの、そこは雪国のように寒く、歴史的役目は終わっただの、こんな茶番早くやめちまえだのと、外野からワーワー言われ、もちろん安原さんもクソミソに叩いています。いまから30年ほどまえのことです。なつかしいですね。

 そもそも安原さんが、どの程度直木賞に興味があったのかは不明ですが、第114回(平成7年/1995年・下半期)のときには、小池真理子『恋』なんて駄作に賞を与えやがって、選考委員の罪は重い! と断言していたようです。直木賞がだれのどんな作品に賞を与えようが、おれには関係ないよ、と言い捨ててもいいのに、なぜか結果に反応しています。文句を言う。そしてけっきょく文句ばかりが威勢よく、相手に届いたふしもありません。安原さんのような有能な人でさえ、権威ゴッコの茶番を終わらせることができなかった、という歴史的事実を確認すると、直木賞ほか一賞のたくましさがよけいに際立ちます。

 と、ここで文学賞の話題を持ってきたのは他でもありません。安原さんがなぜ「創作学校」という面倒な仕事を引き受けたのか、その理由のひとつに文学賞のことを挙げているからです。引用してみます。

「ぼくがなぜ「創作学校」など仕切る気になったかと言えば、文芸誌の新人賞はもちろん、芥川賞・直木賞に代表される近年の新人賞受賞作の、あまりのレヴェルの低さに唖然とさせられ続けたことも大きいが、作家志望の若者を本気でしごけば、1、2年に1人くらい、可能性のあるパワフルな新人が育てられるかもしれぬとの、余計なおせっかいからだった。しかし、3回の授業を体験し、そんなに簡単なことではないことを痛感させられると同時に、一方では、始めた以上は、何としてでも新人を送り出してやりたいとの、妙なファイトも湧いてきている。」(平成5年/1993年5月・図書新聞刊、安原顯・著『ふざけんな! まだ死ねずにいる日本のために』「「創作学校」の課題作文を読み、「俺は肥溜めじゃねえぞ」と怒鳴る天才」より)

 安原さんのハナシを信じると、メタローグの運営も創作学校も、一年ほどで赤字がぐんぐん積み重なり、抱えた負債が4000万円。これを見て天道さんはすぐに撤退しますが、残った今さんが安原さんを引き止め、今さん800万円、安原さん500万円を出し合ってメタローグの経営を継続。しかしどんどんお金は出ていくいっぽうで、平成6年/1994年にはどうにも首がまわらなくなり、「安原さん、今後は無給でお願いします」と言われてはさすがに続ける意思も消え失せて、この年の12月、『リテレール』11号を出したのを最後に、安原さんはこの事業から一切身を引きました。ところがハナシはそれでは終わらず、なぜか連帯保証の債務を負わされたため、安原さんブチ切れて……といった、犬も食わないいざこざは、先に挙げた参考文献を読んでみてください。

 ビジネスのうえでは損も得も紙一重。おカネがなくなっても恨みっこなしよ、というのが通常の人間社会です。しかしここまでして、親しい人に頼み込んで講師をやってもらったり、才能があるのかわからない受講生たちのために作品を添削したり、安原さんが創作学校を始めた気持ちに、損得では計れないものがあったのは間違いありまけん。そう考えると安原さんが自分のことを「おせっかい」だというのは、まったくの至言でしょう。

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2021年3月 7日 (日)

昭和62年/1987年ごろ、高校を卒業した森絵都が、作家を目指して日本児童教育専門学校に入学する。

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▼昭和57年/1982年、日本児童文学専門学院が設立される。

 小説教室だけでも範囲が広いのに、周辺分野となると、わからないことが多すぎます。深入りするうちに直木賞に帰ってこられなくなりそうです。ほどほどにしたいと思います。

 たとえば、作文・綴方、文章、エッセイの書き方教室というものがあります。小説教室とは別のモノだと認識されていますが、いったい小説と作文は、何が同じで何が違うのか。なかなかわかりづらくて、答えのない道です。

 わかりづらくてもいいんですけど、それだと事業を継続するのが難しくなります。教室の運営というのは経済活動でもある。受講生を継続的に募るには、もっと明確な目的を掲げないといけない。……というところで、1980年代以降の小説教室が取り入れたのが「新人賞をとる」とか「プロになる」とか、そういう目的設定でした。職業訓練の風合いも匂いますが、いま小説教室が世間に定着しているのは、この設定を手に入れたからだというのは明らかでしょう。

 職業に直結する芸術系の教室には他にもある、ということで、先週はシナリオ教室のハナシに触れたんですけど、その流れでいうと、いまひとつ思い当たるものがあります。絵本、童話、児童文学の創作教室です。

 若年層向けの文章作品は、それだけで野太い歴史があります。文学や小説との関係でいっても、時に書き手が重なり、時に影響を与え合い、日本の文学史は児童文学ぬきではとうてい考えられません。ここで「直木賞」などという卑近な例を持ち出すのは気が引けますが、直木賞がえんえんと続いてきたベースにも「若年層向け出版市場」の進展・盛衰があったのは間違いなく、戦前の大衆文芸作家から、戦後のジュニア小説界を経て、コバルト、スニーカー、ジャンプJブック、あるいはヤングアダルト、ライトノベルといった市場とのリンクが、直木賞の一側面として確実に存在します。

 そしてもうひとつ、児童文学が特徴的なのは「青少年教育」の色合いをもっていることです。教育を志す者なら、きちんとした専門教育を受けなければならない、という文化は近代以降の日本では常識化しているところがあり、およそ学校の先生になるためにはそのための教育を受けるのがスジだ、ということになっています。その意味でも、子供向けの創作を学校で学ぶことには、小説教育ほど一般に違和感が持たれづらい、という素地もあります。

 すみません。この調子で童話系の歴史を掘り下げていくと、日本児童文学者協会、日本児童文芸家協会、坪田譲治の『童話教室』『びわの実学校』、鈴木三重吉『赤い鳥』、巌谷小波の木曜会……と手を伸ばさないといけないハナシが増えていくばかりです。ここは一気に端折りまして、昭和57年/1982年。この年、児童文学に的を絞った画期的な(?)専門学校が設立されました。「日本児童文学専門学院」です。

 同学院は2年後の昭和59年/1984年に専修学校の認可を得て「日本児童教育専門学校」と改称。いまでは保育・幼児教育にシフトした体制になっているようですが、当初は学院時代の名称からもわかるとおり、児童文学や絵本などの創作教育に力を入れ、「書きかたを教えて学ぶ、そして第一線の幼年対象作家を世に送り出す」ことに主眼を置いたスクールでした。平成7年/1995年の学校案内を見ると、2ヶ年の「児童文化専門課程」が設けられていて、児童文学専攻科、童話創作専攻科、絵本創作専攻科、出版編集専攻科といった科を擁しています。講師にはプロで活躍する児童出版の書き手・作り手が揃っている、という触れ込みです。

 たしかにモノを書いて生活していく、という道は小説ばかりとは限りません。映像メディアに関わるシナリオ、構成作家から、ノンフィクション、雑誌ライター、そして児童文学、童話などなど……ジャンルの細分化と発達のなかで1960年代、70年代、80年代と、さまざまな専門教育機関ができていった実例のひとつが「日本児童教育専門学校」だった、というわけですが、ここに直木賞ファンにも馴染み深い人が、未来の物書きを目指して入学します。森絵都さんです。

 小学生の頃から学校の勉強はほとんどダメだったという森さんですけど、唯一、好きだったのが作文でした。高校の卒業を前にして、どういう進路を選ぶか真剣に考えていなかったところ、心配した友達が渡してくれたのが専門学校の資料。それをパラパラめくっていたときに、ハッと見つけたのが、書くことを学べるという日本児童教育専門学校の児童文学専攻科です。そうだ。私は書くことが好きなんだ。だったら作家を目指してみよう……と思って同校に入ります。

 学習過程は2年あります。いったい何を学ぶのか。いろいろ授業はあったでしょうけど、みんなで書いたものを持ち寄って合評し、それでまた書いて討議するという授業があったそうです。ほとんど小説教室と同じです。

 いろいろな授業がありまして、創作の授業では課題が最初は五枚から入って原稿用紙の書き方から教えてもらって。そして合評会があって、みんなで意見を言う。

佐藤(引用者注:佐藤多佳子) あの合評というのは、いやな世界ですよね。

 いやですよね。みんな若いから、言いたいことを言うんです。途中からは学校の授業でやっているよりは、公募に出していったほうがいいかなと思ってやっていたんですけど。」(『小説現代』平成15年/2003年9月号 佐藤多佳子、森絵都対談「児童文学からの、新しい風」より)

 森さんも、対談相手の佐藤多佳子さんも、合評はいやだ、という価値観で一致しているのが面白いところです。文学史をさかのぼると、同人誌の文化で育ってきた人たちは、合評で泣かされた、でも合評で鍛えられた、と語る例が多く、「鍛えられた」と言い切ってしまう精神性が文学青年のキモいところなんですが、公募の制度が発達したことでわざわざ合評をしなくても済む時代、「合評会はいやだった」と敬遠する意見が語られるのを見るにつけ、仲間同士の文学討議というのは、練習中は水を飲むなとか、我慢すれば強くなるといった、スポーツ教育にあった因習の弊害と似たようものなのかもしれないなあ、とも思います。ほんとうに合評というのは創作修業に唯一無二の必要不可欠なものなのか。はなはだ疑問です。

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