昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。
▼昭和35年/1960年、日本放送作家協会が、「放送作家教室」の前身「放送文芸研究室」を立ち上げる。
直木賞は文芸ではない、というのがワタクシの実感です。
すみません、間違えました。直木賞は「文芸だけでできているわけではない」に言い換えます。時代に応じた企業プロモーションのかたち、嫉妬とプライドが入り乱れる作家同士のせめぎ合い、といった卑俗なハナシから、純文芸でも大衆文芸でも本流になれなかった賞の歩み、時代・歴史・ユーモア・実録・推理・SF・ノンフィクション・そのほかあらゆるジャンルに手を伸ばしてきた雑食性、という卑俗なハナシまで、文芸的な観点だけではとらえ切れないさまざまな顔を持っています。まったく面白い文学賞です。
小説教室も、どうやらそれに似ています。その歴史を語るときに「文芸」に属する話題だけでは、とうてい足りません。
たとえば直木賞が、昭和10年/1935年、とうの昔から劇作や映像との関係で発達してきたのと同様、小説教室も他の分野のスクールから影響を受け、また影響を与えてきたことは明らかです。
まあ、そんなことを言い出すと、こんな書き流しのブログで全貌をとらえ切れるわけがないので、とりあえず「小説を教える、小説を学ぶ」というその些細な仕組みの裏には、他の文化事業が膨大に広がっているのだなあ、と呆然として見送りたいと思いますが、やはり直木賞専門のブログとして、直木賞に関するハナシはなるべく抑えておきたいところです。
ということで、小説教室ならぬ「シナリオ教室」の例をひとつ挙げておきます。時代は1970年代から80年代。通っていたのは桐野夏生さんです。
演劇、映画、ラジオ・テレビなどの脚本やシナリオをどうやって書くのかを教える機関、というのはそれはそれで長い歴史があります。小説教室との比較でいうと、お金をもらえる仕事に直結した存在という分だけ、「シナリオ教室」のほうが早い時期から社会に定着し、そこで学んだ出身者がプロとなって活躍する道も、すでに1960年代ごろには敷かれていたと見られます。
代表的なのは、放送部門の学科を持ついくつかの専門学校です。また、一般に開放された教室として、シナリオ作家協会、シナリオ・センター、日本映像研究所、東京新社など、さまざまに群立していました。そのなかのひとつが、昭和34年/1959年設立の日本放送作家協会が、新人作家を養成するために昭和35年/1960年に設けた放送文芸研究室です。これが名称を変え、運営母体を変えて、60年代後半に協同組合日本放送作家組合の「放送作家教室」となります。いまの「日本脚本家連盟スクール」です。
シナリオ作家だった池田一朗さんも、一時期ここで講師をしていました。およそ1970年代、足かけ8年にわたって教えたそうです。長女・羽生真名さんの『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』(平成3年/1991年10月・講談社刊)にも、この教室や池田講師のことがいろいろ出てきます。
果たして池田さんはどんなことを生徒に伝えていたのでしょう。内容の一部を引いてみます。
「まずシナリオ界の現状を具体的に説明する。プロになってもほとんどは注文仕事であること、ということは、コンクールのように自分の書きたい分野をシナリオ化する機会は、まずないと思って欲しいこと。なにより、ものを書こうという人間にとってシナリオライターという仕事がいろいろな意味で昔ほどいい仕事ではなくなっていること。しかしそれを承知で、なお書きたいという熱意ある生徒には、こちらも指導の労を惜しまないこと、等々……。」(『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』「9 天井桟敷の人々」より)
何だかいまの小説教室の講師が、文芸出版の不景気な現状を語りながら、それでも受講生の熱を受け止めようとしている図、と見ても十分通用しそうな場面です。
放送作家教室というのは、もともとプロの放送人の集まりから生まれた養成機関ということもあって、より実践に即した実技指導に比重が置かれたと言います。「職業訓練所のようなもの」(岡田光治の発言、『シナリオ』昭和53年/1978年3月号「特集 シナリオ作家になるために 座談会=教える側と学ぶ側 その1教える側の論理」)という表現がおそらく実態に近く、こういう教室が、一般にも門戸を開いて存在していたわけですから、小説業界より何歩も先を行っていた、と見るのが適切でしょう。
30歳手前だった桐野夏生さんが、小説教室ではなくシナリオ教室に通ったのも、やはり両者のその性質の違いに起因している部分が、なくはなかったと思います。70年代、すでにシナリオ教室は「収入、稼ぎ、プロ」に直結していた、ということです。
○
▼昭和59年/1984年、桐野夏生、ロマンス小説を書いて小説づくりの面白さを知る。
桐野さんは昭和51年/1976年に結婚し、翌年には勤めていた出版社を辞め、専業主婦の生活を送ります。しかし、とても自分に向いていないなあとモヤモヤするうち、自分も仕事をもって稼ぎを得たいと思うようになって、昭和54年/1979年ごろから、池田一朗さんの放送作家教室に通いはじめます。
向田邦子さんのドラマが大好きで、自分も書いてみたい! という動機につながったとも言われますが、「まもなく直木賞受賞者になる人に憧れて、のちに直木賞候補者になる人の教室に、さらに将来、直木賞受賞者になる人が通い出す」……というこの展開に、直木賞ファンとしてはクラクラ目まいがしますけど、もちろん桐野さんの目論見には「シナリオ作家になって収入の道を確保したい」という望みが大きかったはずです。
その後、妊娠して昭和57年/1982年に長女を出産する前後まで、ドラマのシナリオを書くまくること、およそ2年。あらっ、楽しい、私って話をつくるのに向いているみたい、と開眼したことが、作家・桐野夏生の始まりだった……というのが『週刊ポスト』平成10年/1998年2月20日号で記事を書いた中村嘉孝さんの見解です。
しかしやがてシナリオから離れる日がやってきます。子育てのために自宅で過ごさなければいけなくなったところで、友人から勧められたロマンス小説づくりのほうにシフト、昭和59年/1984年に応募したサンリオロマンス賞で佳作に入り、ああ私が好きなのはシナリオではなく、何でもかんでもひとりの頭から生み出して完成させられる小説のほうだったんだ、と気づいたからです。シナリオライター志望の自分とは、ここでおさらばです。
「小説ってシナリオを書くより面白いことに気づいた。作家で生きてゆこうと考え始めたのはやっと30歳を過ぎてからのことです。それまでは思いもしませんでした。
小説とは何でも自由に構想できるものだということを踏まえ、ジャンルの枠など気にせず書いていきたい。シナリオはもう絶対書きません。誰かが演じなければシナリオは成立しないけど、小説は自分だけのものですから(笑)」(『週刊宝石』平成10年/1998年2月12日号「旬のひと 週間日録」より)
とのこと。とにかく一人の人間が本気で入れ込めるものが見つかって、よかったです。
無理やり直木賞に結びつけるとすれば、シナリオを学んだことが桐野さんの小説づくりに生かされたのだ、と言いたいところですが、さすがにそれは強引すぎます。もう少し現実に即して言うと、ものを書いてお金を得たいという人のために養成講座の仕組みが映像業界で花開いていたことが、結果的にひとりの作家を生んだ、というぐらいが無難なところです。プロ作家を育成する小説教室が、90年代以降に成熟していく前提として、新しい放送作家を育てるこの土壌は注目すべき成功例だった、と見なしておきたいと思います。
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