昭和63年/1988年、日大芸術学部出身の吉本ばなながベストセラー旋風を巻き起こす。
▼昭和62年/1987年、吉本真秀子の卒業制作「ムーンライト・シャドウ」が、日大芸術学部長賞を受賞する。
1970年代後半から80年代、カルチャースクールが実績を上げるそばで、大学の創作クラスからも作家がデビュー。と、小説教室をとりまく環境に春の日差しがさし込みました。こうして温まった出版界に、「小説を書くための専門教育を受けた」大スターが誕生してしまいます。流れとしては正常だった、と言っておきましょう。
昭和62年/1987年の9月、福武書店の雑誌『海燕』主催の第6回新人賞で受賞者が決まります。そのうちのひとりが吉本ばななさん。その年の春に日本大学芸術学部文芸学科を卒業したばかりの女性です。本名・吉本真秀子、受賞作の「キッチン」と、卒業制作として書かれた「ムーンライト・シャドウ」、受賞後に書かれた「満月――キッチン2」を収めた『キッチン』が昭和63年/1988年1月に発売されると、小泉今日子さんがラジオやテレビでおすすめの発言をしたことで一気に火がつき、ドドドドドッとベストセラー街道を驀進します。
まもなくこの本は泉鏡花文学賞とか芸術選奨文部大臣新人賞とか、世間一般ではこれを知っているほうが異常だと言われるようなニッチな文学賞をとりますが、賞に関する騒ぎはそれでは収まりません。昭和63年/1988年「うたかた」と「サンクチュアリ」が第99回、第100回と連続で芥川賞の候補になって、どっちも落選。そのあいだに『哀しい予感』(昭和63年/1988年12月・角川書店刊)、『TUGUMI』(平成1年/1989年3月・中央公論社刊)、『白河夜船』(同年7月・福武書店刊)、『パイナップリン』(同年9月・角川書店刊)、『うたかた/サンクチュアリ』(同年10月・福武書店刊)と、短期間のうちに繰り出された新刊がどれもこれも爆発的に売れまくって、いまは白髪まじりになってしまったオジさんオバさんたちが、あのころはよかったよねえ……と、ウザい昔がたりで往時を振り返るような、恰好の社会現象になってしまいます。
そのスター街道の影に「売れっ子作家を落としちゃったフシアナの芥川賞」があったのはたしかです。いっぽう残念ながら直木賞とのからみはありません。
というのも吉本さん自身、文学賞(とくに芥・直の、ヒトの心をへし折るようなマスコミ攻勢)の騒ぎが苦手だったそうで、芥川賞も2回候補になったあとに「三度目で自ら候補を辞退」(『読売新聞』平成6年/1994年2月3日夕刊「文学のポジション 第一部芥川賞(10)吉本氏「話題より息長く」」)したと言われています。まあ芥川賞をとれなくても、筆歴を重ねるうちに今度は直木賞の候補にあがったりするケースはけっこうありますので、吉本さんだって直木賞の対象になっても不自然じゃなかったんですが、本人から賞の騒ぎにノーを突きつけられたら、直木賞も手出しができません。
ただ、直木賞との関係がなくても、吉本さんといえばやはり小説教室の歴史に残る重要なスターです。触れずに済ませるわけにはいかないでしょう。
先週取り上げた林真理子さんは、日大芸術学部の時代と作家活動に直接的な結びつきのない人でしたが、吉本さんは違います。大学入学こそ、第一志望だったわけじゃなく、他に受けていた大学にすべて落ち、浪人も覚悟していたころ、たまたま友人に日芸ならこれから試験だよと教えられて受験したら受かったという、出合いがしらの事故のような入学でしたが、入ってからは創作ゼミにもまじめに出席。課題も難なくこなしていたそうです。
さすがに吉本さんクラスになると、作家になるまでの経緯などは至るところで取り上げられています。いまさらの感もありますが、ざっとまとめてみると、父親がどんな職業の人か全然知らない頃から、物心がついたときには「自分は作家になるんだ」と、何の根拠もなく思っていたそうです。8歳ぐらいから物語の筋を考え出し、しかしそれが「作家になるのだ」という確信に結びついていたわけじゃなく、小説としてまとまったものを書き出すまでにはいたりません。
大学時代はとにかく酒を飲み、酒を飲まざるもの友にあらず、って感じで楽しくも苦しいキャンパスライフを謳歌、はじめて人に読ませることを意識して書いた小説が、大学卒業のまぎわ、卒業制作として書いた「ムーンライト・シャドウ」で、これが担当教官の曾根博義さんと、山本雅男さんの二人に大絶賛されて、その年の卒業制作のなかで優秀なものに送られる芸術学部長賞というものを射止めます。
処女作を書くに当たっての、吉本さんの姿勢がなかなか振るっています。
「――子供の頃から小説を書いていて、この作品なら世に問えると思ったのはいつ頃ですか。
吉本 それは卒論として提出した「ムーンライト・シャドウ」です。二人の教官が審査したんですが、自分とはまったく文学観の異なる二人の大人に理解してもらえることを意識して書きましたから。」(平成6年/1994年1月・メタローグ刊『ばななのばなな』所収「年齢ではなく、大人でないと小説は書けない」より ―聞き手:安原顯、初出『ELFIN』3号[平成1年/1989年4月])
狙いすまして書き、狙いすましたように教官二人に褒められる。これで自分の進む道はやはりこれなのだ、と思ったのかどうなのか、在学中にどこかの新人賞に2度ほど応募してみますが、そこまで人生甘くなく、そちらは落選。卒業後、糸井重里さんがオーナーの浅草のだんご屋でアルバイトを続けながら、書き上げたのが「キッチン」で3度目の挑戦で、ズバズバと予選を勝ち上がり、最終的に受賞までしてしまいます。甘いといえば甘いかもしれません。
大学時代に「先生」を務めた曾根さんによれば、吉本さんの唖然とするような活躍ぶりは、文芸学科にも刺激を与え、ゼミで吉本さんの後輩だった何人かは「第二、第三の吉本ばななを目指せって感じで」みんなで集まって飲んでいたんだとか(『国文学 解釈と鑑賞』平成3年/1991年4月号 曾根博義「吉本ばななさんへの手紙」)。そりゃあ、ばなな旋風が全国的に吹き荒れているときに、出身の文芸学科が無風なはずがありません。けっきょく、それから30年、日芸から吉本さんに続く作家が生まれた形跡はありませんが、刺激が渦巻くこと、けっこう得難い重要な要素です。刺激……。具体的に何を教え、何を教わるかということ以上に、創作教室が存在する第一の意義に違いありません。
○
▼平成3年/1991年、曾根博義、自分の創作教育を反省してみせる。
大学時代に吉本さんが具体的にどんな「創作教育」を受けていたのか。その一端をうかがい知れるのが、『キッチン』(平成3年/1991年10月・福武書店/福武文庫)に寄せられた曾根博義さんの「解説」です。
なにしろ文庫解説ですので、歯の浮くようなベタ褒めと、自分は何ほども教えることのできなかったダメ教師という卑下が中核をなしています。
曾根さん自身は実作家ではなく研究者ですから、そういう視点からの授業だったのだろうと、「解説」からも容易に想像できます。まず小説教室では絶対に外せない「小説を読むこと」。過去の名作や身近な小説を読み、感想を表現したり批評を交わし合うところが、創作においても基礎中の基礎だ、ということはこれまで取り上げてきた小説教室の先生たちの多くが語るところです。
その次に、じっさいに「小説を書くこと」のステップがあります。ここで曾根さんが強調していたのが、「客観的で自律した言葉の世界」をつくれ、ということだったそうです。
「文章を書き慣れない人によく見かけられることだが、「である」体の文章のなかに突然「です」「ます」体が紛れ込んでくることに対しては、とくにきびしく注意して、文章の形式を統一するようにいった。ところが吉本さんの小説に接して、吉本さんが私の教えたことを守るのではなく、それを破ることによって、現代の小説に動きをあたえる、まったく新しい文体を作ることに成功しているのを発見したのである。そのときの私の複雑な気持を想像していただきたい。」(福武文庫『キッチン』解説より)
曾根さんもさすがに杓子定規に、おれの考える鉄則を守れ、と学生を指導していたわけじゃないんでしょうが、批評の枠を超えた実作をまえにして、こういうかたちで白旗を揚げられる曾根さんの、教師としての可愛さを感じます。「小説を書こう」なんていう、食えない学生たちを相手にして長く文芸学科でゼミを受け持つには、こういう練れた人柄であることも重要なのかもしれません。
ともかく大学制度のなかでも、「文芸学科」辺りが即戦力を生み出すのは稀なことで、吉本さんがその意味でもかなり特殊な例だったのはたしかです。即戦力になり得ない学生たちが、入れ替わり立ち替わり入っては出ていく大学で、創作講座を続けることの大変さが、ひとりのスター誕生の裏に、透けて見えています。
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