昭和61年/1986年、道新文化センター川辺為三の教室から同人誌『河108』が発行される。
▼昭和62年/1987年、川辺為三、昔の教え子に書いてもらった小説を『北方文芸』に載せる。
1970代後半からほんの数年で、創作教室ブームは一気に広がりました。牽引したのは新聞社やテレビ・ラジオのマスメディア企業です。
コツコツと有志たちが手づくりで運営するような「文学学校」とは違って、こちらはあからさまにカネがからんでいます。募集をかければ人が集まり、受講料収入で経営が成り立つ。ということで、大手新聞社や各地域の新聞社、全国に支局のあるNHK系の企業などがカネの匂いを嗅ぎつけて、大都市を中心にそれぞれの地域で創作クラスを展開しました。
たくさんありすぎて全部は触れられませんので、多少なりとも直木賞と関連しそうなものだけ挙げておきます。北海道の札幌市で立ち上がった「道新文化センター」の随筆・創作教室。講師を務めたのは、アノ川辺為三さんです。
ここで「アノ」とか大げさに書くと、多少馬鹿にしていると思われちゃいそうです。他意はありません。
60年代から70年代、いっとき東京の出版社に注目された北海道の作家に、澤田誠一、上西晴治、倉島斉、木野工、渡辺淳一、高橋揆一郎、寺久保友哉、小檜山博などがいます。多士済々という感じで、じっさい渡辺さんなどはそこから全国区になりましたが、川辺為三さんもそこに加えていいでしょう。もっと知られる作家になってもおかしくない流れでしたが、けっきょく終生、北海道に根を下ろし、もはや有名とは言いがたい人です。自身、直木賞にも芥川賞にも候補になった経験はありません。ただ、直木賞とは奇妙に縁があります。
ざっと略歴を追ってみます。昭和3年/1928年11月29日、樺太の豊原生まれ。昭和21年/1946年に旧制豊原中学を卒業しますが、故郷を奪われるかたちで樺太から函館に引き揚げると、北海道学芸大学札幌分校に学び、卒業後は国語教師として札幌大谷高校、赤平西高校、札幌北高校などに勤めるかたわら同人誌を創刊。作家活動を展開しますが、やがて「後進の育成」というポジションでその力を存分に発揮し、國學院短大助教授などを務めたのちに、平成11年/1999年4月16日、70歳で生涯を終えました。
高校の先生だった川辺さんが、仲間たちと『凍檣』(とうしょう)という同人誌を始めたのが昭和31年/1956年7月です。創刊時の同人は、「水木泰」というペンネームだった川辺さんのほかに、守矢昭、萩野治、西塔譲、針生人見(山田順三)を含めた5人だったそうで、当然ワタクシにはなじみのない名前ばかりです。そこからポロポロと抜けていき、けっきょく川辺さんだけがこの雑誌に残りつづけた経緯を見ると、やはり彼が同誌の中心的なひとりだった、と言わざるを得ないでしょう。そう考えると、川辺さんがいなかったら、渡辺淳一さんが直木賞をとることもなかったかもしれません。
というのも、渡辺さんは第2号(昭和32年/1957年2月)から同誌に加わりますが、第6号(昭和38年/1963年8月)に『くりま』と改題したのち、全国にまたがる同人誌の流行期にも相まって、そこに書いた「華かなる葬礼」で注目を浴びると、同人雑誌賞、芥川賞候補、転じて直木賞候補、直木賞の受賞につながっていったからです。
川辺さんにとって渡辺さんは5歳年下。『凍檣』『くりま』の後輩です。一気に抜かされて内心穏やかじゃなかったでしょうが、そんなことを気にしていたら、人生やっていけません。自分は自分だと気合を入れて、川辺さんは地道な営為を続けます。
そのひとつが『北方文芸』の編集です。この雑誌のことは、まえに少し取り上げましたが、高い志で始まりながら経営難に直面したり、内紛があったんじゃないかとウワサされたり、イバラの道を歩みながら積み重なる赤字を背に29年、通巻350号で幕を閉じた札幌を中心とする文芸誌です。
昭和54年/1979年、長く編集人を務めた小笠原克さんが離れたあと、80年代に入って川辺さん、森山軍治郎さん、鷲田小弥太さんの三人編集制に移行します。川辺さんは、札幌だの北海道だの局所的に縮こまらず、もっと東京の文壇に売り込めるような新人を発掘していきたい、という意欲に満ちていたらしく、たくさんの人に読まれるような誌面がつくれないかと試行錯誤したんだそうです。「新しい書き手を見出していこう」という発想が強くなったのも、おそらくその考えの一貫だったでしょう。
時を同じくして80年代半ば、道新文化センターの講師にもなった川辺さん。生徒たちが中心になって『河108』という同人誌が創刊されたのが昭和61年/1986年のことでした。全国的に「わたしも小説を書いてみたい!」という人たちの情熱が、小説教室ブームに乗って拡散した時代です。
そこで川辺さんは道新文化センターで創作を教えるかたわら、『北方文芸』を編集するという両輪をフル回転。ここに北海道新聞文学賞という事業も加わって、小説教室×文学賞×雑誌という新人発掘における魅惑のトライアングルを、北の地で美しく描きはじめたわけです。
川辺さんの努力がカラまわりすることなく、その成果が「直木賞」に結びついたことを、直木賞ファンとして喜びたいと思います。
創作教室からハナシが逸れてしまいますが、川辺さんの札幌北高校時代の教え子のなかに、詩を書き、小説を書き、まえに『北方文芸』にも載ったことがある新鋭の物書きがいました。なかなかイイものを書く子だから、『北方文芸』に場を提供してあげたい。そう思って、小説を書けよとせっついた相手が、当時広告代理店に勤めていた熊谷政江さんです。のちの筆名、藤堂志津子。この人もまた、川辺さんがいなかったら直木賞につながる道を歩き出せていなかったひとりです。
「(引用者注:広告代理店の)パブリックセンターに入社してから、「北方文芸」の編集者である川辺為三氏に、何回となく「書け」と言われてきた。書く気はなかった。会社業務に追われて、それどころではないのである。「書けたかな?」「努力しましたが力至らずで」のやりとりが何回がつづき、やがて川辺氏は「○月号の雑誌○ページを開けてある」と、私が「今執筆中(私の逃げ口上であった)の作品」を、そのように決めてしまったのである。真っ青になった。川辺氏は私の札幌北高の恩師でもあり、書かなくては先生にご迷惑をおかけする。正月休み返上で書いた。」(平成2年/1990年2月・講談社刊、藤堂志津子・著『さりげなく、私』所収「さようなら、パブリックセンター」より ―初出『オール讀物』平成1年/1989年4月号)
こうして『北方文芸』に150枚一挙掲載として出された「マドンナのごとく」は、第21回(昭和62年/1987年度)北海道新聞文学賞を受賞。まもなく講談社から単行本化され第99回直木賞の候補。その半年後の第100回には「熟れてゆく夏」で直木賞を受賞。と大爆発を起こしましたが、そのことごとくで選考委員として携わっていた渡辺淳一さんが藤堂さんの作品を推しに推しまくった……というのも川辺さんをとりまく奇縁のひとつです。
○
▼平成12年/2000年、川辺為三の死の翌年、朝倉かすみが小説を再び書き始める。
そこで奇縁は終わりません。まだあります。と、ここでようやく創作教室がからんできます。
道新文化センターの川辺教室の受講生や、その生徒たちが中心になった「河の会」からは何人かの作家が世に出ていますが、直木賞の候補になった人もいます。朝倉かすみさんです。
朝倉さんの『せんぜんたいへんじゃないです。』(平成22年/2010年3月・朝日新聞出版刊)によると、朝倉さんが川辺さんの教室に通っていたのは、じっさいは2、3年だったと言います。その教室がきっかけで恋人ができ、結婚にいたるまでの8年間は小説の筆をとることはなかったそうです。というか、その後に職業作家の生活をスタートさせて、何冊も何冊も小説を書いて、第161回(平成31年・令和1年/2019年上半期)直木賞候補までに15年以上もたっています。創作教室と直木賞に何ら結びつきはありません。
結びつきはないんですけど、朝倉さんが直木賞の候補になったことは事実です。ここはひとつあきらめてください。
平成12年/2000年、40歳のときに朝倉さんはふたたび小説を書き出しますが、どうしてそのタイミングだったのか。同書には理由が三つ挙がっています。そのうちのひとつが「一、創作教室でわたしを買ってくださった講師が前年に亡くなった。」とのこと。短いあいだの指導のなかでも、川辺さんは朝倉さんに期待の目を向けていたんでしょう。朝倉さんは『河108』にも積極的に参加しはじめ、デビュー前の習作をいくつか発表しました。
川辺門下の仲間たちと、書いては読み、読んでは書く勉強会を続けるうちに、めきめきと頭角を現わし、平成15年/2003年に第37回北海道新聞文学賞を受賞。翌平成16年/2004年には「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞に選ばれて、作家デビューを果たします。
そのとき、小説現代新人賞の選考委員をしていたひとりが、藤堂志津子さんです。朝倉さんのデビューに立ち合い、その門出をずいぶん喜んでいた、と伝わっています。
直接的でも間接的でもないけど、川辺為三さんにつながる不思議な縁です。派手に商業出版で活躍しなくても、文芸誌の編集や小説教室の講師をつづけた川辺さんの、地道な活動があったから生まれたつながりであることは、間違いありません。
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コメント
川口則弘様
突然のお便りをお許しください。
本日夕刻、偶然、私の息子が貴殿の下記のサイト記事を目にしたらしく、ラインにて連絡をしてまいりました。
昭和61年/1986年、道新文化センター川辺為三の教室から同人誌『河108』が発行される。
▼昭和62年/1987年、川辺為三、昔の教え子に書いてもらった小説を『北方文芸』に載せる。
実は私は為三の長男で、川辺靖樹(やすき)と申します。昨年3月退職した、札幌在住の元教諭です。
この度、息子(為三から見ると孫)からの連絡で、本当に久しぶりに父に関する記述を目にする運びとなり、いまだに父のことを取り上げて発信してくれている方がおられることに対して、非常に驚いているとともに、また大変うれしく感じているところであります。
この当時、父が文学の普及活動に勤しんでいた頃は、私は札幌市内の学校に就職したばかりで、自分のことで忙しく、また、父は父で多忙であったため、お互いろくに話をする時間もなく、息子として全くと言ってよいほど、父の活動に関しては分かっていなかったのが実情であります。
この度、川口様のブログを拝見し、父に関心をお持ちである方がいまだにおられることに感謝申し上げますとともに、父が様々な活動をしていたことを改めて知ることができ、非常に感激を新たにしているとろであります。
嬉しさのあまり、つい、だらだらと書き綴ってしまいましたことをご容赦ください。
コロナ下ではございます、なにとぞ健康にはくれぐれもご留意されまして、川口様の益々のご活躍を祈念しております。
この度は本当にありがとうございました。
札幌市在住 川辺靖樹(61歳)
投稿: 川辺靖樹 | 2022年2月11日 (金) 20時52分
川辺靖樹さん、
大変丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。
きょ、恐縮です……。
ほんとは、うちのような「直木賞に特化した」などというフザけたブログではなく、
もっと文章のうまい人が、鋭い視点でもって
川辺為三さんの業績を掘り起こしていってほしいものだ、
とワタクシも心から願っています。
投稿: P.L.B. | 2022年2月12日 (土) 23時17分