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2021年2月の4件の記事

2021年2月28日 (日)

昭和54年/1979年ごろ、桐野夏生がシナリオライターを目指して放送作家教室に通い出す。

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▼昭和35年/1960年、日本放送作家協会が、「放送作家教室」の前身「放送文芸研究室」を立ち上げる。

 直木賞は文芸ではない、というのがワタクシの実感です。

 すみません、間違えました。直木賞は「文芸だけでできているわけではない」に言い換えます。時代に応じた企業プロモーションのかたち、嫉妬とプライドが入り乱れる作家同士のせめぎ合い、といった卑俗なハナシから、純文芸でも大衆文芸でも本流になれなかった賞の歩み、時代・歴史・ユーモア・実録・推理・SF・ノンフィクション・そのほかあらゆるジャンルに手を伸ばしてきた雑食性、という卑俗なハナシまで、文芸的な観点だけではとらえ切れないさまざまな顔を持っています。まったく面白い文学賞です。

 小説教室も、どうやらそれに似ています。その歴史を語るときに「文芸」に属する話題だけでは、とうてい足りません。

 たとえば直木賞が、昭和10年/1935年、とうの昔から劇作や映像との関係で発達してきたのと同様、小説教室も他の分野のスクールから影響を受け、また影響を与えてきたことは明らかです。

 まあ、そんなことを言い出すと、こんな書き流しのブログで全貌をとらえ切れるわけがないので、とりあえず「小説を教える、小説を学ぶ」というその些細な仕組みの裏には、他の文化事業が膨大に広がっているのだなあ、と呆然として見送りたいと思いますが、やはり直木賞専門のブログとして、直木賞に関するハナシはなるべく抑えておきたいところです。

 ということで、小説教室ならぬ「シナリオ教室」の例をひとつ挙げておきます。時代は1970年代から80年代。通っていたのは桐野夏生さんです。

 演劇、映画、ラジオ・テレビなどの脚本やシナリオをどうやって書くのかを教える機関、というのはそれはそれで長い歴史があります。小説教室との比較でいうと、お金をもらえる仕事に直結した存在という分だけ、「シナリオ教室」のほうが早い時期から社会に定着し、そこで学んだ出身者がプロとなって活躍する道も、すでに1960年代ごろには敷かれていたと見られます。

 代表的なのは、放送部門の学科を持ついくつかの専門学校です。また、一般に開放された教室として、シナリオ作家協会、シナリオ・センター、日本映像研究所、東京新社など、さまざまに群立していました。そのなかのひとつが、昭和34年/1959年設立の日本放送作家協会が、新人作家を養成するために昭和35年/1960年に設けた放送文芸研究室です。これが名称を変え、運営母体を変えて、60年代後半に協同組合日本放送作家組合の「放送作家教室」となります。いまの「日本脚本家連盟スクール」です。

 シナリオ作家だった池田一朗さんも、一時期ここで講師をしていました。およそ1970年代、足かけ8年にわたって教えたそうです。長女・羽生真名さんの『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』(平成3年/1991年10月・講談社刊)にも、この教室や池田講師のことがいろいろ出てきます。

 果たして池田さんはどんなことを生徒に伝えていたのでしょう。内容の一部を引いてみます。

「まずシナリオ界の現状を具体的に説明する。プロになってもほとんどは注文仕事であること、ということは、コンクールのように自分の書きたい分野をシナリオ化する機会は、まずないと思って欲しいこと。なにより、ものを書こうという人間にとってシナリオライターという仕事がいろいろな意味で昔ほどいい仕事ではなくなっていること。しかしそれを承知で、なお書きたいという熱意ある生徒には、こちらも指導の労を惜しまないこと、等々……。」(『歌う舟人――父隆慶一郎のこと』「9 天井桟敷の人々」より)

 何だかいまの小説教室の講師が、文芸出版の不景気な現状を語りながら、それでも受講生の熱を受け止めようとしている図、と見ても十分通用しそうな場面です。

 放送作家教室というのは、もともとプロの放送人の集まりから生まれた養成機関ということもあって、より実践に即した実技指導に比重が置かれたと言います。「職業訓練所のようなもの」(岡田光治の発言、『シナリオ』昭和53年/1978年3月号「特集 シナリオ作家になるために 座談会=教える側と学ぶ側 その1教える側の論理」)という表現がおそらく実態に近く、こういう教室が、一般にも門戸を開いて存在していたわけですから、小説業界より何歩も先を行っていた、と見るのが適切でしょう。

 30歳手前だった桐野夏生さんが、小説教室ではなくシナリオ教室に通ったのも、やはり両者のその性質の違いに起因している部分が、なくはなかったと思います。70年代、すでにシナリオ教室は「収入、稼ぎ、プロ」に直結していた、ということです。

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2021年2月21日 (日)

平成5年/1993年ごろ、若桜木虔がプロ作家になるための小説講座を始める。

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▼昭和52年/1977年、劇画原作の持ち込みからコネをつくった若桜木虔が、小説を刊行する。

 そして群雄割拠の時代がやってきます。

 「群雄割拠」という言葉は便利です。ワタクシもよく使います。要するに個々の事例を調べていくとキリのない複雑な状況が整理できず、とりあえずそれさえ言っておけば何かわかったふりができるという、魔法のような言葉です。「いま世界では数十億を超える人間が生きている。まさに群雄割拠の時代だ」と言っているようなものです。

 それで1980年代、小説教室でも「群雄割拠」が到来するんですけど、これもなかなか一言で言い表すことができません。単に「小説を書きたい人が増えていった」という事情だけでは片付けられない複雑な要因がからみ合っています。

 ひとつの要因に挙げられるのが、出版経済の豊潤化です。

 広く社会を見渡すと、直木賞ともうひとつの文学賞、この二つの賞が対象にしている小説は、ほんの一部にすぎません。そのニッチ性というか、希少性が「直・芥のほうが上等で、それ以外のものは数等劣る」という感覚を一般に広めるもとにもなっているわけですが(なっているのか?)、そういう小説観は、大した根拠のない思い込みに由来することがほとんどです。文芸方面で食っている作家や編集者、記者たちのプライドとか、昔から言われてきたことを盲目的に事実として認識する慣習とか、その程度のクダらない雰囲気のうえに、出版経済は成り立っています。アホらしいといえばアホらしい。ただ、面白いといえば面白いです。

 直木賞が頑として対象にしようとしない膨大な作品群。そちらはそちらで、はるか昔から賑わっていました。たとえば、映画化するために書かれたストーリーとか、映像作品のノベライズ、漫画を小説化したもの、貸本屋にしか出まわらない小説、倶楽部系の雑誌に掲載される読み物、エロ・グロを売りにしたもの、官能小説、SM小説、映画スター・芸能人・スポーツ選手を主人公にしたモデル小説、少年少女向けと謳われた作品、児童文学、ジュニア小説、ライトノベル……。

 まだまだいくらでも挙げられそうです。正直、こういったものが出版界に存在せず、本になって流通することがなければ、日本の近現代の出版は、もっと貧弱でお寒いことになっていたでしょう。

 「いわゆる文学・文芸」に関するものなんて、全体のなかのほんの一握りにすぎません。文学賞にしても小説教室にしても、事情は同じです。

 というところから、直木賞に近接するものだけを見ていても直木賞をとりまく全体像なんてわからないんじゃないか。……とワタクシも思うようになってきまして、そもそも「小説教室と直木賞」というテーマ設定に無理があっただけなんですが、「群雄割拠」を群雄割拠たらしめるバラエティに富んださまざまな事例のうち、ここら辺でもう少し視野を広げてみたいと思います。

 70年代後半から80年代、朝日カルチャーセンターの二匹目のどじょうを狙って、多くのマスコミ企業が似たようなカルチャースクールをつくりましたが、平成5年/1993年ごろ、読売文化センターやNHK文化センターで「プロ作家になるための」と銘打って小説教室を開講した人がいます。若桜木虔さんです。

 何者でしょうか。昭和22年/1947年静岡県生まれ。祖父に、正岡子規の同窓だった稲村真里さんがいて、幼少のころから書物や活字に囲まれた環境で育ち、いつか自分も物書きになりたいと夢見る学生時代を送ったそうです。

 大学は東大に進学。その後大学院に進んで植物遺伝学の専攻しましたが、院に在籍中にからだを壊し、将来への不安を抱えます。研究者の道の他に、メシを食うために自分は何ができるか。そこで考えたのが物書きとして収入を得ること。お金になる文章は、いわゆる文芸や小説だけじゃない、というところに鋭く気づき、劇画の原作なら手っ取りばやいだろうと考えて、漫画誌を出している各出版社に持ち込みで営業をはじめます。1970年代のころです。

 文字に起こした物語のストーリーが売り買いされる土壌が、すでにそこにあった、というわけですが、それはもう出版経済の豊潤と言うしかありません。編集者からの厳しい要求を受け入れた勤勉な若桜木さんは、劇画原作を次々と書くうちに採用されはじめ、収入の道がひらけ、そこから小説の刊行へとつながります。処女出版は『小説 沖田総司』(昭和52年/1977年9月・秋元書房/秋元文庫)。矢継ぎ早に書下ろしの刊行をつづけるなかで、とくに翌年、集英社のコバルトシリーズから出した『さらば宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年8月)、『宇宙戦艦ヤマト』(昭和53年/1978年9月)などは相当の部数が売れた、と言われています。

 こういうものを小説とは呼びたくない。文学なんて言えるわけがない。という感覚はいまもあるでしょう。当時ならよけいに文芸方面からの分断意識は強烈だったと思います。しかし現実として、自分の頭から文章を紡ぎ出し、読者を喜ばせる技術をもって、商品になり得る本をたくさん書くことでお金を得る職業がある、ということを否定しても始まりません。むしろ出版経済は、若桜木さんのような人たちによって大きくなり、発展してきた、と言ってもいいぐらいです。

 「作家」というものが、文学学校での研鑽や、評論家や編集者による文学指導によって生まれることもあるでしょう。しかし、すべて世界は一律ではなく、あえて文学の意識を外したところに花咲く小説もあります。1990年代、若桜木さんは「小説教室」のビジネスに進出することになりますが、そこに文学臭は一切ありません。しかもそれが功を奏したか、「群雄割拠」の一端を担う小説教室の講師として、ぐいぐいと名を挙げることになるのです。

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2021年2月14日 (日)

昭和61年/1986年、道新文化センター川辺為三の教室から同人誌『河108』が発行される。

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▼昭和62年/1987年、川辺為三、昔の教え子に書いてもらった小説を『北方文芸』に載せる。

 1970代後半からほんの数年で、創作教室ブームは一気に広がりました。牽引したのは新聞社やテレビ・ラジオのマスメディア企業です。

 コツコツと有志たちが手づくりで運営するような「文学学校」とは違って、こちらはあからさまにカネがからんでいます。募集をかければ人が集まり、受講料収入で経営が成り立つ。ということで、大手新聞社や各地域の新聞社、全国に支局のあるNHK系の企業などがカネの匂いを嗅ぎつけて、大都市を中心にそれぞれの地域で創作クラスを展開しました。

 たくさんありすぎて全部は触れられませんので、多少なりとも直木賞と関連しそうなものだけ挙げておきます。北海道の札幌市で立ち上がった「道新文化センター」の随筆・創作教室。講師を務めたのは、アノ川辺為三さんです。

 ここで「アノ」とか大げさに書くと、多少馬鹿にしていると思われちゃいそうです。他意はありません。

 60年代から70年代、いっとき東京の出版社に注目された北海道の作家に、澤田誠一、上西晴治、倉島斉、木野工、渡辺淳一、高橋揆一郎、寺久保友哉、小檜山博などがいます。多士済々という感じで、じっさい渡辺さんなどはそこから全国区になりましたが、川辺為三さんもそこに加えていいでしょう。もっと知られる作家になってもおかしくない流れでしたが、けっきょく終生、北海道に根を下ろし、もはや有名とは言いがたい人です。自身、直木賞にも芥川賞にも候補になった経験はありません。ただ、直木賞とは奇妙に縁があります。

 ざっと略歴を追ってみます。昭和3年/1928年11月29日、樺太の豊原生まれ。昭和21年/1946年に旧制豊原中学を卒業しますが、故郷を奪われるかたちで樺太から函館に引き揚げると、北海道学芸大学札幌分校に学び、卒業後は国語教師として札幌大谷高校、赤平西高校、札幌北高校などに勤めるかたわら同人誌を創刊。作家活動を展開しますが、やがて「後進の育成」というポジションでその力を存分に発揮し、國學院短大助教授などを務めたのちに、平成11年/1999年4月16日、70歳で生涯を終えました。

 高校の先生だった川辺さんが、仲間たちと『凍檣』(とうしょう)という同人誌を始めたのが昭和31年/1956年7月です。創刊時の同人は、「水木泰」というペンネームだった川辺さんのほかに、守矢昭、萩野治、西塔譲、針生人見(山田順三)を含めた5人だったそうで、当然ワタクシにはなじみのない名前ばかりです。そこからポロポロと抜けていき、けっきょく川辺さんだけがこの雑誌に残りつづけた経緯を見ると、やはり彼が同誌の中心的なひとりだった、と言わざるを得ないでしょう。そう考えると、川辺さんがいなかったら、渡辺淳一さんが直木賞をとることもなかったかもしれません。

 というのも、渡辺さんは第2号(昭和32年/1957年2月)から同誌に加わりますが、第6号(昭和38年/1963年8月)に『くりま』と改題したのち、全国にまたがる同人誌の流行期にも相まって、そこに書いた「華かなる葬礼」で注目を浴びると、同人雑誌賞、芥川賞候補、転じて直木賞候補、直木賞の受賞につながっていったからです。

 川辺さんにとって渡辺さんは5歳年下。『凍檣』『くりま』の後輩です。一気に抜かされて内心穏やかじゃなかったでしょうが、そんなことを気にしていたら、人生やっていけません。自分は自分だと気合を入れて、川辺さんは地道な営為を続けます。

 そのひとつが『北方文芸』の編集です。この雑誌のことは、まえに少し取り上げましたが、高い志で始まりながら経営難に直面したり、内紛があったんじゃないかとウワサされたり、イバラの道を歩みながら積み重なる赤字を背に29年、通巻350号で幕を閉じた札幌を中心とする文芸誌です。

 昭和54年/1979年、長く編集人を務めた小笠原克さんが離れたあと、80年代に入って川辺さん、森山軍治郎さん、鷲田小弥太さんの三人編集制に移行します。川辺さんは、札幌だの北海道だの局所的に縮こまらず、もっと東京の文壇に売り込めるような新人を発掘していきたい、という意欲に満ちていたらしく、たくさんの人に読まれるような誌面がつくれないかと試行錯誤したんだそうです。「新しい書き手を見出していこう」という発想が強くなったのも、おそらくその考えの一貫だったでしょう。

 時を同じくして80年代半ば、道新文化センターの講師にもなった川辺さん。生徒たちが中心になって『河108』という同人誌が創刊されたのが昭和61年/1986年のことでした。全国的に「わたしも小説を書いてみたい!」という人たちの情熱が、小説教室ブームに乗って拡散した時代です。

 そこで川辺さんは道新文化センターで創作を教えるかたわら、『北方文芸』を編集するという両輪をフル回転。ここに北海道新聞文学賞という事業も加わって、小説教室×文学賞×雑誌という新人発掘における魅惑のトライアングルを、北の地で美しく描きはじめたわけです。

 川辺さんの努力がカラまわりすることなく、その成果が「直木賞」に結びついたことを、直木賞ファンとして喜びたいと思います。

 創作教室からハナシが逸れてしまいますが、川辺さんの札幌北高校時代の教え子のなかに、詩を書き、小説を書き、まえに『北方文芸』にも載ったことがある新鋭の物書きがいました。なかなかイイものを書く子だから、『北方文芸』に場を提供してあげたい。そう思って、小説を書けよとせっついた相手が、当時広告代理店に勤めていた熊谷政江さんです。のちの筆名、藤堂志津子。この人もまた、川辺さんがいなかったら直木賞につながる道を歩き出せていなかったひとりです。

「(引用者注:広告代理店の)パブリックセンターに入社してから、「北方文芸」の編集者である川辺為三氏に、何回となく「書け」と言われてきた。書く気はなかった。会社業務に追われて、それどころではないのである。「書けたかな?」「努力しましたが力至らずで」のやりとりが何回がつづき、やがて川辺氏は「○月号の雑誌○ページを開けてある」と、私が「今執筆中(私の逃げ口上であった)の作品」を、そのように決めてしまったのである。真っ青になった。川辺氏は私の札幌北高の恩師でもあり、書かなくては先生にご迷惑をおかけする。正月休み返上で書いた。」(平成2年/1990年2月・講談社刊、藤堂志津子・著『さりげなく、私』所収「さようなら、パブリックセンター」より ―初出『オール讀物』平成1年/1989年4月号)

 こうして『北方文芸』に150枚一挙掲載として出された「マドンナのごとく」は、第21回(昭和62年/1987年度)北海道新聞文学賞を受賞。まもなく講談社から単行本化され第99回直木賞の候補。その半年後の第100回には「熟れてゆく夏」で直木賞を受賞。と大爆発を起こしましたが、そのことごとくで選考委員として携わっていた渡辺淳一さんが藤堂さんの作品を推しに推しまくった……というのも川辺さんをとりまく奇縁のひとつです。

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2021年2月 7日 (日)

昭和63年/1988年、日大芸術学部出身の吉本ばなながベストセラー旋風を巻き起こす。

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▼昭和62年/1987年、吉本真秀子の卒業制作「ムーンライト・シャドウ」が、日大芸術学部長賞を受賞する。

 1970年代後半から80年代、カルチャースクールが実績を上げるそばで、大学の創作クラスからも作家がデビュー。と、小説教室をとりまく環境に春の日差しがさし込みました。こうして温まった出版界に、「小説を書くための専門教育を受けた」大スターが誕生してしまいます。流れとしては正常だった、と言っておきましょう。

 昭和62年/1987年の9月、福武書店の雑誌『海燕』主催の第6回新人賞で受賞者が決まります。そのうちのひとりが吉本ばななさん。その年の春に日本大学芸術学部文芸学科を卒業したばかりの女性です。本名・吉本真秀子、受賞作の「キッチン」と、卒業制作として書かれた「ムーンライト・シャドウ」、受賞後に書かれた「満月――キッチン2」を収めた『キッチン』が昭和63年/1988年1月に発売されると、小泉今日子さんがラジオやテレビでおすすめの発言をしたことで一気に火がつき、ドドドドドッとベストセラー街道を驀進します。

 まもなくこの本は泉鏡花文学賞とか芸術選奨文部大臣新人賞とか、世間一般ではこれを知っているほうが異常だと言われるようなニッチな文学賞をとりますが、賞に関する騒ぎはそれでは収まりません。昭和63年/1988年「うたかた」と「サンクチュアリ」が第99回、第100回と連続で芥川賞の候補になって、どっちも落選。そのあいだに『哀しい予感』(昭和63年/1988年12月・角川書店刊)、『TUGUMI』(平成1年/1989年3月・中央公論社刊)、『白河夜船』(同年7月・福武書店刊)、『パイナップリン』(同年9月・角川書店刊)、『うたかた/サンクチュアリ』(同年10月・福武書店刊)と、短期間のうちに繰り出された新刊がどれもこれも爆発的に売れまくって、いまは白髪まじりになってしまったオジさんオバさんたちが、あのころはよかったよねえ……と、ウザい昔がたりで往時を振り返るような、恰好の社会現象になってしまいます。

 そのスター街道の影に「売れっ子作家を落としちゃったフシアナの芥川賞」があったのはたしかです。いっぽう残念ながら直木賞とのからみはありません。

 というのも吉本さん自身、文学賞(とくに芥・直の、ヒトの心をへし折るようなマスコミ攻勢)の騒ぎが苦手だったそうで、芥川賞も2回候補になったあとに「三度目で自ら候補を辞退」(『読売新聞』平成6年/1994年2月3日夕刊「文学のポジション 第一部芥川賞(10)吉本氏「話題より息長く」」)したと言われています。まあ芥川賞をとれなくても、筆歴を重ねるうちに今度は直木賞の候補にあがったりするケースはけっこうありますので、吉本さんだって直木賞の対象になっても不自然じゃなかったんですが、本人から賞の騒ぎにノーを突きつけられたら、直木賞も手出しができません。

 ただ、直木賞との関係がなくても、吉本さんといえばやはり小説教室の歴史に残る重要なスターです。触れずに済ませるわけにはいかないでしょう。

 先週取り上げた林真理子さんは、日大芸術学部の時代と作家活動に直接的な結びつきのない人でしたが、吉本さんは違います。大学入学こそ、第一志望だったわけじゃなく、他に受けていた大学にすべて落ち、浪人も覚悟していたころ、たまたま友人に日芸ならこれから試験だよと教えられて受験したら受かったという、出合いがしらの事故のような入学でしたが、入ってからは創作ゼミにもまじめに出席。課題も難なくこなしていたそうです。

 さすがに吉本さんクラスになると、作家になるまでの経緯などは至るところで取り上げられています。いまさらの感もありますが、ざっとまとめてみると、父親がどんな職業の人か全然知らない頃から、物心がついたときには「自分は作家になるんだ」と、何の根拠もなく思っていたそうです。8歳ぐらいから物語の筋を考え出し、しかしそれが「作家になるのだ」という確信に結びついていたわけじゃなく、小説としてまとまったものを書き出すまでにはいたりません。

 大学時代はとにかく酒を飲み、酒を飲まざるもの友にあらず、って感じで楽しくも苦しいキャンパスライフを謳歌、はじめて人に読ませることを意識して書いた小説が、大学卒業のまぎわ、卒業制作として書いた「ムーンライト・シャドウ」で、これが担当教官の曾根博義さんと、山本雅男さんの二人に大絶賛されて、その年の卒業制作のなかで優秀なものに送られる芸術学部長賞というものを射止めます。

 処女作を書くに当たっての、吉本さんの姿勢がなかなか振るっています。

「――子供の頃から小説を書いていて、この作品なら世に問えると思ったのはいつ頃ですか。

吉本 それは卒論として提出した「ムーンライト・シャドウ」です。二人の教官が審査したんですが、自分とはまったく文学観の異なる二人の大人に理解してもらえることを意識して書きましたから。」(平成6年/1994年1月・メタローグ刊『ばななのばなな』所収「年齢ではなく、大人でないと小説は書けない」より ―聞き手:安原顯、初出『ELFIN』3号[平成1年/1989年4月])

 狙いすまして書き、狙いすましたように教官二人に褒められる。これで自分の進む道はやはりこれなのだ、と思ったのかどうなのか、在学中にどこかの新人賞に2度ほど応募してみますが、そこまで人生甘くなく、そちらは落選。卒業後、糸井重里さんがオーナーの浅草のだんご屋でアルバイトを続けながら、書き上げたのが「キッチン」で3度目の挑戦で、ズバズバと予選を勝ち上がり、最終的に受賞までしてしまいます。甘いといえば甘いかもしれません。

 大学時代に「先生」を務めた曾根さんによれば、吉本さんの唖然とするような活躍ぶりは、文芸学科にも刺激を与え、ゼミで吉本さんの後輩だった何人かは「第二、第三の吉本ばななを目指せって感じで」みんなで集まって飲んでいたんだとか(『国文学 解釈と鑑賞』平成3年/1991年4月号 曾根博義「吉本ばななさんへの手紙」)。そりゃあ、ばなな旋風が全国的に吹き荒れているときに、出身の文芸学科が無風なはずがありません。けっきょく、それから30年、日芸から吉本さんに続く作家が生まれた形跡はありませんが、刺激が渦巻くこと、けっこう得難い重要な要素です。刺激……。具体的に何を教え、何を教わるかということ以上に、創作教室が存在する第一の意義に違いありません。

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