平成14年/2002年、文芸編集者の根本昌夫がカルチャースクールなどで小説講座を始める。
▼平成2年/1990年、福武書店『海燕』の編集長に根本昌夫が就任、誌面をリニューアルする。
前回の終わりに、角田光代さんの発言を引用しました。そこに出てきた根本昌夫さん。『海燕』編集部にいた人です。もちろん根本さんひとりが角田さんを育てたわけじゃないですけど、根本さんの輝かしい編集者遍歴のなかに角田さんのデビューがあったのは間違いありません。
それで、うちのブログのテーマが芥川賞だったら、ストレートに根本さんを取り上げるところです。しかし残念ながらこちらの関心は直木賞一択なので、まあ触れないでもいいか、と思っていたところ、半年まえの7月に高山羽根子さんが第163回(令和2年/2020年上半期)芥川賞を受賞。高山さんも根本教室の受講経験者だったので、よりいっそう根本さんの株が上がりました。
日本の小説教室史を考えたとき、たしかに根本さんを無視するわけにはいかないだろうなあ。と思い直した末、今週は根本さんにご登場願います。
根本昌夫、昭和28年/1953年福島県生まれ。県内の名門、安積高校を経て早稲田大学に入ると、在学中は『早稲田文学』編集室スタッフとして青春の炎を燃やした、ということです。ちょうど同誌が、新庄嘉章さんを発行名義人とした第7次(昭和44年/1969年2月~昭和50年/1975年1月)、それを平岡篤頼さんたちが受け継いだ第8次(昭和51年/1976年6月~平成9年/1997年4月)を刊行していた時期にあたり、早稲田に文芸科(文芸専修)ができたころでもあります。おそらく根本さんも、創作を教える人・それを学ぶ人の発する熱を感じながら、大学生活を送ったことでしょう。
卒業後、根本さんが選んだのは文芸編集の世界です。作品社の文芸雑誌『作品』の編集部で働きます。ほんの7か月、計7号を出したところでつぶれてしまいますが、東京新聞の文化部にいた渡辺哲彦さんが、親しかった文芸編集者の寺田博さんといっしょに創刊した雑誌で、創刊の昭和55年/1980年11月段階で根本さんは27歳。まだまだ若造の部類です。
『作品』って硬派なのに冒険心もあり、面白いことしそうな雑誌だったのになあ、終わってしまって惜しい。という声に包まれるなか、他にお金を出してくれそうな会社を当たるうち、手を挙げてくれたのが福武書店。『作品』という誌名のまま復刊しようとしましたが、譲渡金として法外な金額をふっかけられて泣く泣く断念し、埴谷雄高さんが命名した『海燕』という題名で新たな出発を切ったのが、『作品』休刊から約半年後、昭和57年/1982年1月号からです。発行人として渡辺さん、編集長として寺田さんが残留し、部下だった根本さんも『海燕』に移ります。
創刊6号目にあたる昭和57年/1982年6月号に載った平岡篤頼さんの「消えた煙突」をはじめとして、掲載作がぞくぞくと芥川賞の候補に残るようになり、いっときは『すばる』よりも『文藝』よりも『群像』よりも数多く同賞の候補に挙げられるなど、またたく間に有力純文芸誌にのし上がります。ただし、のし上がったところでお金が儲かるわけではありません。赤字がかさむなか、創業社長だった福武哲彦さんが亡くなり、社名も「ベネッセコーポレーション」と変更、同社が出版部門から撤退するのに合わせて、平成8年/1996年11月でその誌命を閉じることになります。
編集長は寺田さんから田村幸久さんへ、そして平成2年/1990年に根本さんへと変わります。大幅に誌面をリニューアルし、コミックやミステリーを採り入れた純文芸誌として、どうにか時代の推移を見極めようともがきましたが、もがきっぷりが露骨すぎて評判はよくなく、刻まれたのは悲しい末路です。
『海燕』の廃刊を見届けるまえに、福武書店を飛び出した根本さんが、次に編集長になったのが角川書店の『野性時代』でした。いま刊行されている『小説野性時代』とは違って、当時の『野性時代』はチャレンジングというかムチャクチャというか、純文芸誌でもなければ中間小説誌でもない中途半端な位置取りから、ミステリー、ファンタジーと「売れ線」を求めて右往左往。『早稲田文学』平成14年/2002年11月号増刊に載った根本さんの「インタヴュー 終わりと始まり」によると、売れない売れないと言われた福武の『海燕』でも月5000部売れていたのに、『野性時代』は実売2000部。それで赤字が毎月2000万円ぐらい出ていた、というのですから、放漫もいいところです。
3年はやらせてくれる、という約束だったそうですが、根本さんが手がけてから1年ほどで、もうこんな借金だらけの雑誌やめるよ、と上層部からお達しが降ってきて、平成8年/1996年4月号で休刊。終わらせるために就任したようで、根本さんが貧乏くじを引かされた恰好です。しかし不運といえば不運だけど、1年ももたなかった『作品』、落ち目の『海燕』、死に体の『野性時代』、けっきょく根本昌夫って大した編集者じゃないんじゃないの? と陰口を叩かれたとか何だとか。誰ですか、そんなこと言うのは。弱り目に祟り目、かわいそうな根本さん。
金を稼いだかどうかで編集者の力量が決まるなら、たしかに根本さんの実績は高くないかもしれません。しかしここで人生一発逆転。雑誌の編集を離れたところで根本さんの力量が一般に注目されることになるのです。この世に「小説教室」というものがあったおかげです。
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▼平成6年/1994年、文藝春秋の編集者だった松成武治、朝日カルチャーセンターの講師になる。
『野性時代』休刊のあと、角川春樹事務所の編集局長に就いたこともあったようですが、退職後の平成14年/2002年から請われて小説教室の講師を始めます。主催は朝日カルチャーセンター、早稲田大学エクステンションセンター、法政大学、明治学院大学といったところです。
講師とは言っても文章指導はせず、受講生同士で小説を書き、それを読んで批評し合うことが基本なのだそうです。くわしくは根本さんの『〈実践〉小説教室 伝える、揺さぶる基本メソッド』(平成25年/2013年8月・PHP研究所/PHP新書→再編集版平成30年/2018年3月・河出書房新社刊)をご参照ください。
それはともかく、根本さんが文芸編集者になったイケイケの1980年代から、小説誌凋落の2000年代まで、小説を読みたい人は減り、書きたい人が増える激動の時期だったと言えるでしょう。ということは、これまで必要だった職業的な文芸編集者の数もリストラされるのは自然の流れです。職にあぶれる、というヤツです。
しかし、その構造にうまく効果を発揮したのが「小説教室」のシステムでした。文芸編集者に、雑誌や書籍を編集しなくても食っていける道を開いたのが、デビュー前の作家志望者に小説の書き方を教える場所だった、というわけです。
朝日カルチャーセンターの関東近郊の講座を参考にしてみると、当初の講師は、文芸評論家や実作家が就いていましたが、平成6年/1994年に文藝春秋の編集者だった松成武治さんが「小説の推敲」講座を受け持って、そこから数々の受講生が新人賞をとったりデビューしていきます。平成9年/1997年ごろから横浜校で講座を持ちはじめた橋中雄二さんも編集者です。そして、平成14年/2002年開講の根本さんと続きます。
編集者による小説教室は、同センターでも評判がよく、大人気だったそうです。
「「昔は作家が自身の文学論を教え、それをファンが囲んで同人誌を作って楽しむ文芸サークルのような講座が主流でしたが、数年前に編集者が講師の講座を設けたらそちらに人が多く集まるようになりました。編集者は作家を育てるプロなので、本格的な作家デビューや新人賞獲得を目的とした人が増えています」と同センターの長澤洋子氏は説明する。
(引用者中略)
カルチャースクールというとサークル的イメージがあるが、実践テクニックを学ぶ場になりつつある。」(『日経エンタテインメント!』平成18年/2006年9月号「新人賞、文章表現力をとるなら→編集者講師の文芸講座」より)
ということで、同記事では根本さんの朝日カルチャーの講座が紹介されています。
『毎日新聞』令和2年/2020年2月21日夕刊の記事には、根本さんがこれまで指導に携わった主な作家の名前が出ています。『海燕』時代は除くとして、何といってもよく知られているのが、第158回芥川賞(平成29年/2017年・下半期)を受賞した若竹千佐子さん(早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校の受講生)と石井遊佳さん(朝日カルチャーセンター新宿校の受講生)の二人ですが、木村友祐、嶋津輝、佐々木愛、湊ナオ、高橋陽子、高瀬隼子各氏の名前も挙げられています。もちろんもっといるに違いありません。
今後、受講生のなかから直木賞をとる人が出てきたら最高に面白いな。根本さんのことをダメ編集者とか言っていた連中の顔が見てみたいぜ……と、これからの展開がますます楽しみです。
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